幾度か轟音が続いた後は、無音で視界が奪われた。
真っ暗だ。
急激な視界の変化にくらりときたが、すぐさま白い閃光が室内を満たし、次には轟音、そして再びの真っ暗闇に、美由紀の意識は翻弄された。
天気が悪くなる前に帰ろうと思っていたのに、読みは完全にはずれ、空は唐突に嵐の様相になった。
美由紀は探偵社全員の強い勧めもあり、すでに寮に戻ることを諦め和寅の方から寮には連絡してもらっている。益田は当然のように探偵社に居残って、夕食を頂いた後には空模様も変わるでしょうし落ち着いていれば帰ります、とどこまでも調子のよいことを言って、上司に小突かれ同僚には悪態をつかれていた。
こうも人がいれば、世界の終わりのような雷雨も閃光もさほど怖くはない。しかし、停電となると話は違った。
「・・・真っ暗」
「てーでんだ!てーでん!おお、女学生君見たまえ!外もてーでんだから見事な暗闇じゃないか!」
「ちょ、榎木津さん、動き回らないで下さいよぅ。和寅さんブレーカーどこです?」
「ああ先に懐中電灯がなきゃ。益田くん一緒に来てくれよ。先生と美由紀さんは危ないですからじっとしていて下さいよ?」
和寅と益田がうだうだと言いながら外に出ると、榎木津の小さな子供がするような奇声と、建物を震わす雷の轟音ばかりが耳に届いた。
楽しそうに振舞える榎木津を、美由紀は呆れると同時に少し羨ましい。ああはできそうにない。
「ふふ、女学生君は雷が嫌い?」
探偵机の真横で窓を見上げていた美由紀に、榎木津はくるりと振り向いて問いかけた。
答える前に、美由紀は考える。
雷が好きな人などいるだろうか。いるかもしれないとは思う。暗雲で満ちた空に走る白い閃光は、神鳴りという名の通り偉大で、美しくもあるだろう。しかし、そんな感想は雷から遠いから思えるのだ。こうも近くで落ちたとあっては、好きだ綺麗だとは言っていられない。
「嫌いです」
本当は雷に好きも嫌いも感じないのだが、二択で答えるのなら嫌いだった。特に今は、榎木津のように少しも楽しい顔はできない。
「どうして?ぴかぴかして綺麗じゃないか」
「そりゃあ遠目で見ればいいかもしれませんが、あれが落ちたら死んでしまいます」
「屋内にいれば大丈夫だよ」
「それはそうかもしれませんが、屋内にいてもこうして停電になってしまったら困ります」
「すぐ点くよ」
「・・・そうでしょうか」
疑問系で口にして、すぐに後悔した。今の言い方はまるでこの状況を怖がっているように聞こえる。本当はそうではないのに。
別に、怖くはない。
風の向きによって、時たまガラス窓に叩きつけられる雨粒は、少し凶暴だと思う。空にひび割れを起こす神の電光やその轟きは脅威だと思う。それでも。
いずれは収まるのだから。
榎木津が近づき横に並ぶのを、美由紀は何とはなしに見ていた。灯りがないから、輪郭が白く浮かぶ程度ではあったが姿は追える。
はたと気付く。榎木津は視力が弱い。
「探偵さん、本当に危ないですから、うろうろしないで」
そばにいてください。
美由紀は手を伸ばして、闇に浮かぶ白いシャツに触れた。探偵の腕はシャツ越しに温かかった。
「別に危なくないけど」
本当に何ともないという声に、美由紀は少しだけ苛立つ。本気で何ともないと思っているのだろうし、実際にそうだろう。それでも、美由紀は言いようのない不愉快さを抱いた。
何か口に出すのも面倒になって、ぎゅっと、先より少し強く榎木津のシャツを握りしめる。
美由紀の頭より高いところから、気抜けしたため息が聞こえた。
「怖いのは君じゃないか」
呆れたような物言いの後、大きな掌に肩を掴まれ強い力で引き寄せられる。後ろにふらついてぶつかった背後から、嗅ぎ慣れないけれど知っている香りがした。
煙草の匂い、珈琲の匂い、他の、何やらいい匂い。
「こう言う時はさ」
左耳の上、とても近いところから低い声が降って、次には両目の上を乾いた掌が覆った。
「うわっ?」
「こうすれば怖くない」
子供がだーれだとふざけるような目隠しに、呆気にとられて動けない。
温かい掌の中で目を開けても、当然何も映りはしなかった。それでも睫の先がかさかさと探偵の手に触れているから、目の前に闇が広がっているのではないとわかる。
背後では、自分の制服と探偵の上等なベストの生地が擦れる感触と、人の温度があった。
ここ一年程の間に慣れた気配なのに、美由紀は感じる感覚のどれも知らなかった。
言葉を失ったまま、ただ瞬きをする。何度シャッターを切っても、温かい闇は終わらない。怖くは、なかった。
「まだ怖いの?」
何も言わずにいた美由紀をいぶかしんでいるらしい。慌てて、怖くはないと答えた。本心だ。
「睫が長いね」
「え?」
「さっきから掌がくすぐったいぞ」
「ああ」
思いも寄らない訴えに、美由紀は思わずまたぱちぱちと瞬きをして、それがくすぐったいのか榎木津はまたくすくすと笑う。
暢気な人だと思う。美由紀の方は、少しだけ緊張していた。人の体温に触れることなど、まだ子供とはいえ十六歳になってはそうそうあることではないのだ。
だから、忘れていた。
人の手や、その感触や、温かさというのは、即効性がある。
心底ほっとしていて、両目の上の掌や背中にある感触が何やら心地よいと思う今だからこそ、自分が停電の暗闇と雷雨に怯えていたのを自覚した。
かっこ悪い。恥ずかしい。
そして、親類や同性の友人以外の体温というのは、どこか照れくさく気まずい。それは後ろめたいとも言い換えられるかもしれない。
「もう、大丈夫です」
身じろいで離れたいという意思表示をしたが、榎木津はだーめと笑いながら言った。その低音がまた、聴きなれた声だというのに何故か気まずい。
「下僕が無能なせいでまだ真っ暗だ。それに、女学生君はあったかくて良い匂いがして気持ちいい」
うふふと満足そうに笑う声が、美由紀の気まずさを拡散させる。また少し、ほっとする。
それから口をへの字にしてみて、やっぱり恥ずかしい人だと心の中で呟いた。
終
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