寝台で眠る関口は、普段より幾分かさっぱりとしているように見えて、千鶴子はそう思った自分を恥じた。
関口が静かに横たわる白い寝台の横、簡素な作りの木製の小椅子には、関口の妻であり千鶴子の友人の雪絵が座っていた。その顔色は、同乗した京都からの車中よりさらに青白くはあったが、表情は幾分か引き締まったように見えた。雪絵の、一文字に閉ざされた白い唇、血が通うかも怪しい白さの頬には、何かしらの意志による張りさえある。その変化の理由を、千鶴子はわかるような気がしていた。
千鶴子の夫、中禅寺は、関口の足下で毅然と立っていた。臙脂の着流しは、ほの暗い病室では黒に見紛う。千鶴子が立つ病室の入り口側から夫の顔は見えなかったが、低く通る彼の声は聞こえた。関口がどういった経緯で拘留され、暴行を受けたのか。拷問は違法で、雪絵や関口の判断次第では訴訟を起こすこともできる。温度の低い声で、淡々と語っている。
扉を挟んだ反対には、榎木津が腕を組み壁に背を凭れさせ立っていた。日頃賑やかな夫の友人も、病室に入ってから一言も喋らない。ちらりと横目で様子を伺えば、眠たいとも怒っているとも取れる顔で、ぼんやりと寝台の辺りを見ている。
「身体の傷よりも」
雪絵の細い声が、中禅寺に向けられた。
中禅寺は、一度、雪絵に頷いて見せた。
千鶴子はそこで、静かに病室を出た。夫は、雪絵にだけ言いたいことがあるはずだった。
扉を閉めてすぐ後、千鶴子が予想した通り、榎木津も病室を出てきた。榎木津はさも退屈と言わんばかりに腕を伸ばし欠伸をしてから、涙目のまま、こういうのは本当に体に悪いよねえ千鶴さん、と同意できるようなできないようなことを言った。
不安というのは主に、未だ来ないものに対して抱くものだ。
京都へ向かう車中から、伊豆へ向かう車中まで、雪絵の表情は一貫して不安そうだった。気丈に振る舞い、千鶴子にも千鶴子の両親達にも笑うのだが、本当は笑いたくなどないという笑顔だった。悲しそうとも辛そうとも言えるようで、どこか違う、やはり不安そうとしか表現しようのない雪絵の表情は、関口の病室に入った瞬間に変わった。
千鶴子には、その理由がわかる。
雪絵は、未だ来ぬ不安だったものを、あの瞬間に目の当たりにしたのだ。彼女はずっと、事実を把握したがっていた。関口の身に何が起きているのか、怪我をしているのか、心を壊されているのか。それらを含む現実と対面したがっていた。わかれば、対処法が見えるから。
雪絵は現実を等身大で愛せる人だった。不安が視覚化されれば、どんな厳しい現実も愛することができる。
千鶴子はそういう雪絵を尊敬するし、気持ちは、よく理解できた。愛する人、大切な人がいるからだ。しかし、自分が雪絵の真似ができるかと言ったら、できないと思った。雪絵ほど、自分は強くない。そう思う。
千鶴子もまた不安だった。いつからか判然としないが、ずっとずっと不安で、そして今、夫の無事を確認し宿に落ち着いた今でも、不安なのだ。まだ、未だ来ぬものを胸に抱えている。
それは夫のせいだとも思うし、素直になれないでいる自分のせいだとも思った。
関口が警察の取り調べで暴行を受けることとなった原因である、夫の周辺で起きた難解な事件について、千鶴子は詳しく知らない。それでも、関口の拷問の遠因に夫が関係しているだろうことは、確かだと察していた。
中禅寺の妻として、関口や雪絵に対し申し訳なく思うのは、そうなのだが。
それよりも。
千鶴子は、静かに息を吐いた。
警察が手配した宿は、古びて狭い部屋ではあったが、掃除は行き届き居心地は良い。それでも窓から景色を眺める気にはなれず、ただ座って、夫を待つ。
千鶴子は未だ、見ていないのだ。
未だ来ぬものと対面するため、千鶴子は静かに夫を待っていた。
自分で意外と思うほど、それはすぐに見つけた。
着流しの裾に隠れるか否かの、右の足首に走る、一筋の赤だった。
「雪絵さんは関口の病室に泊まるそうだよ」
中禅寺は部屋に入るなりそう言って、卓袱台の隅に正座する己が妻に近寄った。
千鶴子は顔を上げ、じっと夫の顔を見た。不機嫌な顔である。そして、疲れた顔だった。目の下の隈も眉間の皺も常態だからわかりづらいが、妻の目は誤魔化せない。
中禅寺は視線を避けるように目を逸らし、彼にしては珍しく、立ったままで話を続けた。
「ご苦労だったね」
「私は、里帰りをしただけですわ」
千鶴子の声は単調だった。
「石榴は?」
「あのこはまだ、京都です」
中禅寺はすぐにその言葉の意味を察した。
「ああ、戻るのか」
「そのつもりでしたけれど」
千鶴子の実家は京都の菓子匠だ。一番の繁忙期である祇園祭では、毎年一家総出で手伝う。千鶴子がこの季節に里帰りをするのも毎年で特別なことではなかったが、今回は少し事情が違っていた。
「大丈夫ですか」
凛と涼しい声が、中禅寺の足元に投げかけられた。
千鶴子は何かあっては大事だと飼い猫も京都に連れて行ったが、雪絵を伊豆に送らねばならなかったし、行き先は病院である。どうせまたすぐに戻るのならばと、飼い猫は京都に置いてきたのだ。しかし、今はそれを少しだけ後悔した。
千鶴子は手を伸ばし、夫の足首の、赤く腫れた傷にそっと触れた。
「平気だよ」
千鶴子の問いに対しての大丈夫なのか、触れた傷についての大丈夫なのかはわからなかった。
「このところ、生傷が絶えませんね」
「関口君ほどではないよ」
きゅ、と千鶴子の眉頭が詰まった。
「そういうことではないでしょう」
穏やかで、厳しい、千鶴子にしては珍しい声色だった。
中禅寺は僅かに口を開いたが、そのまま言葉を呑んだ。
千鶴子の胸に巣食っていた不安が、少しずつ形を変えていった。不安の思いは夫の輪郭と重なっていき、やがて小さな傷に収斂された。夫の傷は細く、既に乾いて、血も出ないから目立ちはしない。しかし、ふっくらと腫れているのを見ると、意外に深いのかもしれなかった。
「痛そう」
「痛くはないよ。枝に切られただけだ」
どこで何をしてついた傷なのか、千鶴子にはもちろんわからない。
聞いた所で、何になる。
だから、千鶴子は聞かない。聞かない自分が、少しだけ哀れに思えた。気になって仕方ないくせに。
「手当てもしないで」
「いらないよ。大した傷じゃない」
口振りから、本気でそう思っているのがわかった。
千鶴子はそのまま、赤い筋を幾度かさすった。白い指は頼りなげに細いのに、その触れ方には退けるのを許さない力が込められていて、中禅寺は身じろぐこともしなかった。
ふいに千鶴子は顔を上げ、己の夫の顔を見た。
中禅寺は、自分がどんな感情も顔に写していないと思っていた。実際、その表情にはいつもの不機嫌そうな特徴は見えない。
千鶴子は、見上げた先の弛緩した眉間や険しさの消えた目を、痛ましく見た。
そして、二人はお互いが考えることを、同じように察してもいた。中禅寺は妻が自分を思って心を痛めているのを知っているし、千鶴子は夫が己の心痛を知っていることを知っている。
通じ合うから気を遣う。言うまでもないから言わない。いつからか、そういう夫婦になっていた。
――どちらかが、もっと鈍感で、言葉に出さなければ何もわからず、何もかも言葉にしなければ気がすまない人間だったなら。
――痩せ我慢など、
――させないし、しないのに。
その思いだって二人は、互いに察している。
見詰め合った一瞬は、夫婦の、家族としての日常に埋没しようとする境界の時間だったのかもしれない。
「あなたちょっと」
先に口を開いたのは千鶴子だった。ひらひらと、手招きをする。近くに座って、という意味らしい。中禅寺は首を傾げながら、乞われるまま千鶴子の正面に膝をついた。
千鶴子の着物の膝が、すっと伸び上がった。
膝立ちの恰好で中禅寺の首に腕を伸ばし、細い手首から繋がる決して大きくはない掌が、彼女の夫の頭を抱え込むように、抱き締めた。
「お疲れ様でした」
千鶴子は夫の耳元で労うと、からかっているとも大真面目とも取れる調子で、よしよしと言った。
よしよし、優しい声がもう一度そう言って、手の下の、脂気のないさらさらとした髪を梳いてやる。
思わぬ妻の行動に中禅寺は言葉を失って、されるままになっていた。
よく知った、妻の着物の匂いに、温かさ、視界に広がる着物の青、正体のわからぬものは、面前に何もない。
髪に千鶴子の指の感触がある度、中禅寺は強張らせていた体から力を抜いた。
甘やかしてもらっている、それに気付いたのだ。
「うん、疲れたな」
小さく呟いて、中禅寺は妻の胸に凭れた。
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