「ご存知ですか?これが効くんですよ」
やけに得意気な様子で、和寅は言った。
「蜂蜜が?食べるんですか?」
「いえいえ、塗るんです」
ここに。そう言って、和寅は自分の唇をちょんちょんと指差した。
美由紀も、唇をそっと撫ぜてみる。下唇の傷がひりりと沁みた。
半ドンの午後、美由紀は制服のままで勝手知ったる神保町の探偵事務所へ出向いた。
特に用事があったわけではない。学校から探偵事務所は電車を使えば近い所にあるし、長年の知人の所へ定期的に顔を出すのは人付き合いの基本だと思っている。
何より、そこには美由紀の想い人が居た。出向かないわけにいかないのだ。
最初に出迎えたのはいつも通り探偵の秘書兼給仕の和寅で、開口一番言われたことが
「おや、切れてますよ、唇」
日頃から化粧気がない美由紀だったが、これにはさすがに気が沈んだ。
そこで、和寅が手にしたのが蜂蜜だった。
小皿に取ってもらった蜂蜜を小指で掬って、手鏡を見ながら唇に落とす。
上下の唇を擦って馴染ませれば、蜂蜜の香ばしい匂いと強い甘みが広がる。
口紅を塗るよりも、蜜はしっとりと唇を包んだ。蜂蜜の艶で傷は目立たず痛みも特になかったが、濡れているような感触は心地良いものではない。
何より、唇がやけに艶々と光る。それが美由紀には妙に気恥ずかしいことに思えた。
「やあ女学生君、何の遊びだい?」
美由紀が腰掛けるソファの脇、探偵の自室の扉が勢いよく開くのと、探偵が仁王立ちで登場するのと、探偵の第一声が事務所内に響いたのは、ほとんど同時だった。
美由紀はぱちぱちと二度瞬きをする間に、一時停止した思考を再起動させ、お邪魔してますと本日最初の挨拶をした。
いつだって探偵の登場は唐突だ。
13の歳から4年近く付き合いがあるが、未だ美由紀は探偵の行動が読めないし、慣れない。探偵の古い友人達も同じことを言っていたから、もしかしたら一生慣れることなどないのかもしれない。
「遊びじゃないです。治療です」
そう言うと、探偵はふぅんと鼻から声を出して、興味深そうにテーブルの蜂蜜や小皿や美由紀に視線を走らせた。
今日の探偵は、首元にほっかむりのような帽子をぶら下げた丈の長いセーターに、綿のズボンという格好だ。珍しいデザインの服なのだが、珍妙なりにキマっている。
美由紀は圧倒されつつ見上げていると、探偵はツカツカと歩み寄り隣に腰掛けた。
「僕はお腹がすいた」
装飾性の欠片もない台詞が、完璧な発音、文句なしの低音の美声で発せられると、どうにも間抜けだ。
「今起きたんですか?」
「とっくに起きていたとも。君が来ると思ったから相応しい服を選んでいたのだ。あんまり悩んで昼飯を忘れてしまった」
この雨合羽のような帽子がついた見るからに脱力した服が、どう自分に相応しいのだろう。わからないなりに考える美由紀を放って、探偵は台所へ向け叫んだ。
「カズトラぁ!牛乳あっためて蜂蜜入れたやつ!女学生君にも馳走してやりなさい」
すると台所の奥から、牛乳は今朝先生が飲んじゃったじゃないですかぁと、和寅の声が返ってきた。
「バァカ者!馳走しろと言ったろうが!馳走とは走り回って食材を集め客人をもてなすことを言うのだ!走り回れ!」
探偵の己が下僕に対する扱いが酷いことは毎度のことで、美由紀はさして驚きはしない。しかしこの場合は黙ってもいられなかった。
「あの、私のことはお構いなく」
すると探偵は、制止するように掌を前に出した。
「君が遠慮することはないぞ。お腹が減っているのは僕なのだから、君が泣こうが喚こうがカズトラが北海道の牧場へ牛乳を買いに行くことに変わりはない!」
牛乳ひとつに北海道まで行かせるというのも、この探偵なら冗談にならない。どう探偵を宥めようか美由紀が迷っていると、和寅はさすがに慣れているのだろう、駅前の商店街で買えますよぉと実に常識的なことをぶつぶつやりながら台所から出てきた。
「じゃあ買い物に行ってきますからね。美由紀さんごゆっくりどうぞ」
和寅は割烹着で手を拭きながら、にっこりと笑った。なんだか嬉しそうに見える笑い方である。
そこで、美由紀はあることに気付いた。
気付いた時には、和寅は財布を持ってスタスタと玄関の方へ向かっていた。呼び止めるのも妙だし、何と言ったらいいのかもわからない。探偵はいってらっしゃーいとひらひらと手を振って和寅を送り出している。暢気なものだ。美由紀は少し恨めしかった。
玄関の鐘が鳴り、扉が閉まった。探偵秘書も助手もいない事務所、美由紀と探偵、同じソファの上で二人きりになった。
二人きりになっちゃったじゃないか。
美由紀は、そっとそっと、体を探偵がいない方へ傾がせた。あまりにそっと動こうとしたから、実際にはほとんど動けていない。
あんなに顔を見たかったのに、二人きりになると辛くなる。美由紀は、自分のころころと様子を変える心が不思議でならない。
会えない日は一日中会いたいと願って、会える日はいつもより早く目が覚めるほどそわそわとしていて。今は望みどおり、探偵と会って顔を見て、声を聞いて、近くにいるのに、それが叶った瞬間には息が詰まるのだ。苦しくて、逃げ出したいほどに。しかし、逃げた瞬間には会いたくなるのを知っている。
好きって苦しいってことなんだろうか。
美由紀はこのところ、そう思うことがある。
おかしいな。好きとか恋しいとかって、もっと、
「お腹減ったけどねえ、蜂蜜をそのまま食べるのは厭だなあ。どうしよう女学生君」
探偵は金色の蜜が入った瓶を陽に透かせてみながら、のんびりと言った。
美由紀にはそれも少しだけ憎たらしい。努めて淡々と言った。
「お腹減っているなら、何か作りましょうか?おやつだって、探せば何かしまってあるかも」
「今は甘いものが欲しい。おやつは煎餅しかないから欲しくない」
子供だってもう少し遠慮するだろう。美由紀は呆れながら、じゃあ我慢してくださいと唇を尖らせて言った。
呆れるのだが、探偵が子供っぽい仕草や物言いをするからと言って、彼が幼稚だということにはならないのを美由紀は知っている。美由紀は時々、探偵の眼差しの鋭さや優しさに、彼が生きた年月や、経験や思いを見てしまう。そんな時は決まって、自分がもっと大人の女性なら、尻込みせずに、緊張せずに探偵の傍らにいることができて、甘くて幸福な恋愛ができるのだろうかと夢想する。つまらない仮定だった。考えても仕方がない。
探偵はむっつりしている美由紀を見ながら髪を揺らしてくつくつと笑うと、突然美由紀の片方の頬を摘んだ。むにむにと、摘んで離して伸ばすのを繰り返す。
「可愛いなあ女学生君」
「な、にふるんれす!」
「嬉しそうだったり、困ったり怒ったり、どんどん変わる」
そう言う探偵の顔は、美由紀には嬉しそうに見えた。
探偵にとって何が嬉しくて何が可笑しいのか、美由紀にはさっぱりわからないのだが、それでも今は自分を見て嬉しそうにしていた。まるで玩具にされているのに、美由紀は探偵が嬉しそうだと、心が、身体の中が満ちていく。隙間なく満たされて、今この時、少しだけ息苦しかった。
「面白がっているだけじゃないですか」
人の気も知らずに。
摘まれた頬をさすりながら、照れ臭さや憎らしさやもっと複雑で温かな気持ちを誤魔化すために、わざと生意気な目で探偵を睨みつけた。
睨むのと見詰めるのと、やっていることはそう変わらない。
探偵が返した視線は柔らかい。
じゃれている間に、二人の距離はかなり近付いていた。どちらかが腕を伸ばせば、きっと簡単に、相手を包み込めるくらいに。
「ぴかぴか光って綺麗だ」
「え?」
美由紀は探偵の言うことがわからなかった。
逆光のせいで、面前の色素の薄い瞳はいつになく深い茶色で、覚えず息を飲んだ。美由紀を一番苦しくさせる、世の中のたくさんのものを見てきた目だった。
探偵の手が、指が伸びて、美由紀の唇に触れた。
身体がびくりと震え、思わず目を伏せる。
ようやく美由紀は、探偵が何を綺麗と言ったのかわかった。
甘く味付けた唇は、その吐息が探偵の指先にかかることを恐れて、呼吸を放棄した。
とろけるような緊張が、ほんの一瞬、酷く甘い蜜になる。
唇と指と、触れたところから蜜に溶けて混じった。混じって何か浸透するものなのか、美由紀はひとつ思いついた探偵の思惑にはっとして、伏せていた目を大きく開いた。
暗い色に澄みきった瞳とかち合った。こういう目は、見たことがない。
何。如何したらいい。
すると、探偵の引き結ばれた唇は、ゆっくりとゆるく弧を描いた。
とろとろと濃密だった緊張は、一瞬で融解してしまった。
探偵の指が唇の上をすうと滑り、離れる。美由紀は、長く白い指が離れていくのを目で追った。
その指の先に、蜜の滴。
美しい唇から、赤い舌。ぺろりと嘗めた。
「あ」
「甘い!」
まるで摘み食いを成功させた子供のように、探偵は笑って見せた。美由紀はただ呆然とそれを眺めた。
あまりのことに、美由紀は怒って誤魔化すという簡単なことも思いつかなかった。恥ずかしがるのも上手くないし、笑い飛ばすことはできなかったから、結局ただ漫然と、平気な素振りをした。
口付けを乞われた気がしたのだ。あるわけがないのに。
「蜂蜜、食べたいなら」
瓶から取ってくださいよと続ける代わりに、美由紀はテーブルの上を指差した。
探偵はソファの背もたれに片肘をゆったりとかけて美由紀へ向き直った。
「蜂蜜は甘くて美味しいけどね、別に食べたくないんだってば」
むしろない方がいい。
探偵は一度黙って、目を細めた。眩しそうに。それから
「わかっているくせに」
さらりと言った。
美由紀は探偵から目をそらし、一言、からかわないで下さいと返した。
自分がわかっているはずがない。頑なに、美由紀はそう思った。探偵の言葉を否定し、否定したことを鋭敏に疑い、疑ったことを鈍感に見過ごす。そうしなければ、とろとろと己のかたちを失くしてしまう気がした。とろとろととろけた後、自分がどうなってしまうのか。自分ではないものになるのを、無意識に恐れていた。
探偵は口をへの字にすると、鼻でため息をついた。正面を向き深々とソファの背にもたれる。その表情は硬く、隙のない美貌のせいか佇まいには物寂しさすら宿っていた。
美由紀は理由が判然としない後ろめたさに、紡ぐ言葉を失くした。
数秒の間の後で、探偵は口を開いた。
「からかってなんて」
言葉を切らせた探偵に、美由紀は少し驚いた。日頃痙攣的にものを言う探偵が、言葉を選んでいた。やがて、同じ姿勢、同じ表情で続けた。
「よし。ひとつ君が知らないことを教えてあげよう」
それはいつもの、軽い陽気な口調だった。探偵は唐突に、首だけ回して美由紀を見据えた。
「僕はね、時々、君にからかわれているんじゃないかと思うことがあるよ」
探偵はにこと笑って終いにした。
美由紀は一度、唇を噛んだ。香り高く、甘い。
「そんなわけないじゃないですか」
「まあね」
探偵は手を伸ばし、小皿の蜂蜜に指先を沈めると、美由紀の唇に塗りつけた。
指を甘い雫が伝い落ちる。
また、蜜に溶けて伝わることがあるだろうか。
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