「ああもう、歩くの速い!」
「ああ、悪い悪い」
沸き起こった既視感に、榎木津は前を歩く若い男女を凝視した。
どちらの顔にもさっぱり見覚えがない。彼らの頭上に浮かぶ”そこには無いものたち”にも、注視するべきものはない。
ああ違う。
榎木津はすぐに間違いに気付いた。
見覚えがあるのではない。自分自身に覚えがあるのだ。
場所は定かではない。いつだったのかさえも。
すいすいと、榎木津は早足で雑踏を歩いていた。今と同じように。
一人ではなかった。しかし、面前には道行く人以外に誰もいない。
――榎木津君、歩くの速いわ!
声に反応して横を見ると、一緒にいる人物の姿が見えなかった。さらに首を動かすと、恋人が憮然としながら小走りで近寄ってくる。
――なんだ、宏は鈍足だな!
榎木津はそう言って、恋人を笑った。
横を向いた時に恋人が見えなかった瞬間の、心を掠めた冷たい風、その正体には己の笑い声でモザイクをかけた。
――あの後、自分は歩調を緩めたのだったか。
その答えは自身と無数の他者の様々な記憶に埋もれて、思い出せそうになかった。
「探偵さん?」
声に反応して横を見る。
切りそろえられた前髪の下、少し吊り気味の大きな黒い瞳に、榎木津の目は吸い寄せられた。
「急に黙って、どうしたんです?」
美由紀の息はほんの僅か上がっていた。
土曜日の昼下がり。半ドンで午後の自由を得た人々で、街は賑わっている。決して歩きやすい通りではなかった。
「女学生君」
「はい」
「君は、ついてくるんだなぁ」
ぼんやりとした調子の榎木津の発言に、美由紀は一瞬だけ呆れた顔をした。それから見る見るうちに眉間の辺りが険しくなる。
「――え。ちょ…はあ!? 探偵さんが急に着いて来いって言って今私連れ出されているんじゃないですか!」
「そういう意味じゃない」
「じゃどういう意味です」
「そんなことより、君は歩くのが速いねえ」
「そんなことって・・・!」
未だ収まらないところを、美由紀はふんっと鼻から逃した。
「癖なんです。さっさと歩いた方が気持ちいいでしょう?」
榎木津もそう思う。のろのろぶらぶら歩きたい時はそうするが、そうでなければ大概早足だと言われた。早く歩けばぐんぐんと景色が変わって愉快だし、心地良い風をたくさん感じることができる。楽しいものを発見できる機会が増えるかもしれない。不愉快なものをいつまでも見なくて済む。
そうやって、榎木津は歩いている。一人の時も一人ではない時も。だから、恋人には時々怒られた。
――私と貴方は――が違うのだから――。
何と言っていたのだっけ。かつての恋人の俯き気味の横顔だけしか、思い出せなかった。
榎木津はあっさりと回想を諦めて、美由紀に笑いかけた。きっちり隣にいるから、美由紀の表情はよく見える。
「そうだね!」
僕もそう思う!
美由紀も榎木津の顔を見ながら、にっこりと笑った。それは彼女がするには少し珍しい類の、無邪気な笑い顔だった。
「でも、今はスピード三割増しなんですからね!」
探偵さんが遅い遅いって言うんだもの。
はてと榎木津は首を傾げた。そんなことを自分がこの娘に言うだろうか。
「そんなこと僕が言うか?」
だって、今にも追い抜かされてしまいそうなのに。
「言います。言っていました」
榎木津は急いでいないのだ。ただ、好きに歩いているだけである。止まりたい時には止まるし走りたい時には走る。美由紀は違う。華奢な脚でさっさと歩いて、自分よりもずっと脚が長い男の横に並んで歩ける。追い抜こうと思えば、追い抜けるだろう。ただ、美由紀が榎木津に合わせているだけである。
他人と合わせることをしない者に合わせられる他人は、実はそんなにいないことを、榎木津は知っていた。
靡く横髪を見ながら、榎木津は何かすとんと胸の底に落ち込んだのを感じた。
その昔横を向いても恋人がいなかった時に感じた寒気の正体。あれは恐怖だった。当然知っていたけれど、本当に恐ろしいことだったから、榎木津はあの時に無視したのだ。
そうして時間が経って、今隣を歩く人がいる。自分はきっと、この娘が見えなくなれば恐怖を感じるだろうとわかる。
わかったことはまだある。
もう、自分は彼女を待っている訳ではない。
美由紀の方から追いかけてきて、自分の目の前にいるのだから。
榎木津は思わず、ふふっと笑った。胸の底の底にまで落ちていった何かくすぐったいものが、ぽかぽかと発熱している。身体を動かすエネルギーに変換されて、少しだけ歩幅が広くなる。
ほんの僅か二人の間の距離が広がる。
「じゃあ、褒美にかき氷をご馳走しよう!」
「まだかき氷には早くないですか?」
「西口の甘味屋はやっていた!」
「じゃあ練乳イチゴにアイスクリーム乗せ!」
「なんだそれ美味そうじゃないか」
美由紀はからりと笑いながら革靴の踵を鳴らし、一瞬で二人の距離を詰めてしまった。
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