美由紀が探偵社を訪ねるとお目当てにしていた探偵はおらず、秘書兼給仕の和寅がせかせかと台所を片づけているばかりだった。
尋ねれば探偵は友人の木場刑事と一晩中飲んでいて、日が昇ってからもまた飲み続けていたと和寅は嘆いた。
「私が起き出してからですよ。先生ったら、前に司さんからもらった外国産のお酒があったこと思い出しちゃって・・・。もうどうかしてますよ、一晩中騒いだ朝にまた飲み始めるなんてねぇ」
散々に飲み食い荒らしたものの片付けに追われながら、和寅は饒舌だった。探偵助手の益田は休みをとっているらしく、美由紀が訪ねるまで愚痴る相手がいなかったのだろう。
確かに、その悲惨さは事務所の扉を開けた瞬間から察せられた。
ゴミは粗方片付いていたが、色とりどりの瓶やグラスは応接のテーブルの上にそのままにされていたし、何より未成年には嗅ぎ慣れぬアルコール臭が事務所に充満していた。
冷たい飲み物、ご用意しますね。和寅はそう言って再び台所に引っ込んだ。
間の悪い時に来てしまったと申し訳ない気持ちになりながら、美由紀は洗面所を借りて手を洗った。ついでに鏡を見て、髪を直す。寝癖などはついていない。ついていないが――ついていなかった。
まったく、ついていない。
鏡に写った己の顔は、ため息をついた時のままに不貞腐れている。可愛くない。
和寅の嘆きの原因である探偵は、半刻ほど前に木場と二人でふらりと消えてしまったらしい。まさかまだ飲むわけではないだろうが、いつ帰ってくるのか、今日中に帰ってくるのかさえ怪しかった。
洗面所から応接に戻ると、相変わらず台所からガチャガチャと後片付けの音がしている。
ここは後片付けを手伝って大人しく退散しようか。
応接ソファのいつも美由紀が座る位置に、和寅が用意してくれたらしいグラスがあった。喉の渇きを思い出して、ひとつ深くため息をついてからそれを口に運んだ。
ため息のせいだったのだ――その「水」の匂いに、美由紀が気付けなかったのは。
一口飲み下してからそれが水ではないことを知り、すでに含んでいた二口目を飲み下す時に、喉と食道を通過する高熱に気付いた。
「うっ、くっ―――げほっ」
17年間の人生で経験したことのない衝撃に、思考が、止まる。
咳が止められない。飲み込んだものを吐き出すべきだと判断はついたが、吐き出すには量が足りないのか咽るばかりだった。
それどころか、咳き込む度に身体の中に熱が溜まる。
熱いせいなのか、それとも冷や汗なのか、体中の毛穴があくような気がした。
熱い。頭が、足元が、ぐらぐらと。意識が。
私は何を飲んだ。
いつの間にか――
大きな声に、鼓膜を揺らされた。
大きな手に、グラスを奪われる。
目の前で、美由紀がとてもとても会いたいと思っていた人が、顔を覗き込んでいた。
何だか変な顔をしていると思った。怒っているのか、困っているのか、心配しているのか。そうか心配しているのか。
日頃は僅かでも触れられれば身体が強張るというのに、今美由紀が腕に感じている強い温もりを何故かとても嬉しく思えた。
*
木場が帰ると言い、煙草を買うついでがあって一緒に表に出ただけだったのだ。
うわばみの榎木津にしては珍しく、酒が原因の不快感が頭の片隅に居座っている。明け方の妙にハイになっていた頃、いつだか友人の司から譲り受けた洋酒を開けたのがいけなかったのは明らかだった。
気分転換の散歩を終えてビルに戻る頃には、太陽はかなり高くなっていた。多少はマシになってビルの階段を昇りながら、思い出した。
今日は土曜日。
それだけで、最近の榎木津は自分でも自覚できない微妙な角度で、機嫌を上昇させている。
事務所に戻り応接に入ると、美由紀はソファの脇でしきりに咳き込んでいた。片手では口を押さえ、片手には、透明の液体が入ったグラスを握っている。
「わはははお年寄りみたいだぞ女学生君」
期待していた通りに美由紀がいたことで、榎木津は嬉しくなりながら声をかけた。
それなのに、彼女は呼びかけに反応しない。
目元、額までも赤くして、いかにも苦しそうに咽ている。ただの咳ではないことはすぐにわかった。
駆け寄ってみれば、原因はすぐに知れた。途端、頭の天辺が一気に冷える。
榎木津は美由紀が持っていたグラスを奪い取った。
酒臭いのは人のことを言えないだろうが、それよりも遥かに美由紀の方が酒の匂いがしていた。
「馬鹿者!酒だぞこれは!」
しかも、ただの酒ではない。日本の酒より遥かにアルコール度数が高いものだ。
女学生、とさらに耳元で呼びかければ、視線だけ微かに反応した。その瞳は咳による涙に濡れながらゆらゆらと揺れている。
「おい女学生、僕がわかるか?」
腕を掴んで揺らして、美由紀はやっと榎木津と視線を重ねた。咳は止まったようだが、かなり動揺しているのか手で隠した口から漏れる呼吸が荒い。それでも、一度こくんと頷いて見せた。その様子に一応は安心する。そして、焦った分だけ腹が立った。
玄関が開く音がして、とぼけた声が榎木津の耳に届いた。
「あら?何かありましたか?先生?」
「和寅お前っ…何してたんだ!」
榎木津の剣幕に、和寅はびくりと肩を震わせた。
「いいから水持ってこい!」
訳がわかっていないに違いないまま、和寅は台所へ走った。
その間に榎木津は美由紀をソファに座らせ、和寅に持ってこさせた水を美由紀に渡した。美由紀は手渡されたものを一瞬だけ不思議そうに見ながら、日頃の鋭敏な受け答えが嘘だったようにのろのろと口に運んだ。それから急に渇きを思い出したかのように、グラスの半分をごくごくと一気に飲んだ。
「ど、どうしたんですか美由紀さん。真っ赤じゃないですかぃ」
「どうしたじゃないこの馬鹿者が!お前この子にウォッカなんか出したのか?」
強い口調で問い質すと、和寅は目を見開いてからぶんぶんと首を横に振った。
「ウォッカ!?だ、出しますかぃそんなもの!」
「じゃあこの子が自らショット喰らったっていうのか?」
榎木津は美由紀の頭上に視線を走らせたが、そこには透明のグラスを幾つか見つけられた程度で回答が導き出せるような映像は見当たらない。
「まさか――あ、これ」
和寅はテーブルの片隅に置かれた、茶色い液体に氷が浮かぶグラスを持ち上げた。
「わ、私が出したのはこれです。ただの麦茶ですよ。ああっ、そうか美由紀さん、水と間違えたんでさ!出っ放しになってたグラスを、私が出したもんだと思って…」
責任を感じたものか、心配そうに歪めていた和寅の表情が、さらに後悔で暗くなっていく。
一方の美由紀は、水を飲んだことによってアルコールの刺激が緩和されたのか、表情から険しさは消えていた。視線を会話する二人に向けていることからも、意識はしっかりとしているらしかった。
「気分はどうだい?」
「…気分…ぼーっと…」
するような。
語尾はほとんど消えかけていたが、受け答えはできている。
「お、お医者呼びましょうか」
和寅はかなり消沈しているらしく、申し訳なさそうに背を曲げながら言った。
「医者は――」
確かに、ウォッカを一息に大量に飲めば中毒になっておかしくはない。その場合はすぐに医者に診せるべきだった。しかし、美由紀を見れば赤い顔をしていて微かに呼吸が荒いばかりで、つまりは酔っ払いの症状である。
「様子を見よう。女学生君、気分が悪くなったらすぐに言いなさい。いいね?」
榎木津は、呆けて座っている美由紀の顔を覗き込みながら両腕を掴んで揺らした。
「はい」
美由紀がやけに嬉しそうに笑うので、榎木津は怒りたいのか困りたいのか、それとも優しくしたいのか、わからなかった。
*
言い訳なら山ほどできる。それでも、人の好い和寅はやはり美由紀に対して申し訳なく感じていた。
酒、特にウォッカなどという、アルコール度数の極めて高い酒など、とっくに成人した自分だってろくに飲めたものではない。そんなものを、酒をほとんど飲んだことのない未成年者が一気に飲めば、中毒になることは想像に易い。美由紀は大人びた娘であるが、それでもまだ17歳の少女で、飲んだ量によっては命さえ危なかったかもしれない。
ゴミなど後回しにして、先にグラスを片付けて置けばよかった。未成年が来訪してきたのだから、酒の痕跡など先に消してしまえばよかった。
ぐるぐるとそんなことを考えながら、和寅は自分の畳の部屋にせっせと客用の布団を敷いていた。せめてもの罪滅ぼし、と美由紀の要望には何でも応えてやりたかった。布団を敷いた後は、蜂蜜入りの檸檬水と、気分がよさそうなら果物でも切ってやろう。
美由紀は水を一杯飲んだ後は多少落ち着いたように見えた。中毒症状は出ていないが、完全に酔っ払っているものらしく、赤い顔で終始ぼんやりしている。何か聞けばぽつぽつと答えるし、時折笑ったりもする。普段はあまりにこにこと笑うタイプの娘ではないから、いつもよりもいくらか機嫌がよさそうにさえ見えた。案外、酒には強い性質なのかもしれない。
もちろん、だからといってこんな間違いがあって言い訳はないのだが。
綺麗に布団を敷いてやり、応接に向かう。買い物に行く、と主に言うつもりだった。
「先生、私――」
その時、応接のソファで繰り広げられていた光景に和寅は――絶句した。
*
あの一杯がどうしてなみなみ注がれたままでいたのか、榎木津はその経緯をしっかりと覚えていた。
あれは木場の分だった。ショットの一気飲みを二人で比べていて、何杯目かで木場が飽きたと言い出して、焼酎に戻したのだった。さすがに、相手が木場でなければやってみようとは思わなかっただろう。
木場があの一杯を飲み干していれば。
和寅があのグラスをさっさと片付けていれば。
自分が――
それまでぴたりと静止していたものが唐突に動き出し、榎木津は反射的に振り向いた。
榎木津の隣で俯きがちにソファに座っていた美由紀が、まじまじとこちらを見詰めていた。
「どうした?」
普段なら絶対にしないだろう不躾な視線である。
白と黒のコントラストが印象的な目だった。僅かに釣り気味の、猫のようなアーモンド型の目が、自分より少し低いところからまっすぐな視線を向けている。
からかったり悪戯をした時の美由紀の反応が榎木津は気に入っていて、普段から睨まれることは少なくない。しかし、今目の前の瞳は睨んでいるのではなかった。
全然違った。
こういう目は――。
「探偵、さん」
美由紀は視線をそらさないまま、弱々しい掠れ声で呼びかけた。体に力が入らないらしく、ソファの背もたれにくったりともたれかかる。
「迷惑を、かけて、すみません」
そう呟くように言って、かくん、と首だけで頭を下げた。謝りたいらしい。
榎木津としてはいろいろと言いたいことはあった。それなのに、その仕草がどうにも意地らしく見えて、鼻でため息をついたらどうでもよくなってしまった。
「謝らないでいい。頭が痛いとか気持ち悪いとかないのか」
「えーと、ない…の?」
そう言って、今度は首をかくんと横に傾げる。聞かれても困る。突っ込むべきところだったが、またも言葉は発する前に消え失せてしまった。結局榎木津は、困った顔をして見せることしかできなかった。
「たぶん、私、酔っぱらっているだけです」
「見ればわかる」
恐らく、美由紀は短い人生で初めて酔っぱらっているのだろう。今の様子を見る限り、体質的に酒には強いように思えた。弱ければもっとはっきりと異常があっていいはずのアルコール量である。今の美由紀は明らかに、酔っぱらっている。
美由紀は自分の頬を何か探るようにぺたぺたと触れては、何やら不思議そうな顔をしていた。華奢な掌の下の頬は、まさしく薔薇色に火照っている。重たそうに伏せられた瞼の下では、黒い瞳がころころと転がっているのが見えた。二人の付き合いは短くないが、美由紀の漆黒の睫の縁取りまでも榎木津が観察したのは初めてだった。
やけに目に付いた。
それは、あまりに無防備だったからで。
榎木津は思わず手を伸ばした。可愛らしい子猫が道の真ん中で堂々と寝ころんでいたら、誰だって触ってみたくなる。そういう気軽さで。
窓から射す僅かな日差しを光源にして光る黒髪を、天辺から髪の流れに沿って撫でた。猫のようにふわふわとはしていない。それはつるつると触り心地がよく、まさしく女性の――そうそれは少女ではなく女性の――。
肩下まですとんと落ちた黒髪に指を差し込み、毛先まで梳く。
美由紀の大きな瞳は、動くものを追う動物の素直さで、榎木津の手を追っていた。
二人の間では覚えのない静かで濃密な空気が、榎木津にはやけに煩わしく思えた。
「今、和寅の部屋に布団を敷くから、少し寝なさい」
美由紀の視線もまた面倒な気がして、はぐらかすためにぽんぽんと頭をたたく。美由紀の方は、上目遣いも上の空の無表情も改めないままである。それが余計に、馬鹿馬鹿しかった。
ああ、煩わしい。バカバカしい。
思い切り悪態をつきたいのに、内容が内容だけに口に出しづらい。
不満を紛らわすように、榎木津はぽんぽんと美由紀の頭をたたき続けた。
「探偵さん、怒ってます?」
「なんで」
「頭痛いです」
「酔ってるからだ」
「いえ、たたく力が、だんだん強いです」
榎木津はぴたりと手を止めた。きちんと美由紀を見れば、きゅっと目を瞑って体を小さくさせている。とうとう、榎木津は無意識に静止するに至った。
何なんだろう何事だろう。信じがたい事実を目の前にしたような顔で、榎木津は美由紀を凝視した。
驚いていて戸惑っていて、とにかく困ってもいた。
普段の美由紀は巷の女学生がするようにちょこちょことは動かない。どちらかと言えば、背筋を伸ばしてぴしぴしと歩き、視線は下から上なんてまどろっこしい進路をとらず一直線だ。
それがどうしたことだろう。
先程から、美由紀がやけに可愛い。
自分が美由紀の頭に手をのっけているから上目遣いになるのだろうか。そう思って手を退けてみるが、もともと身長差があるし、美由紀は首にも背中にも力が入っていないらしく微かに首を傾げるだけで、うるうると濡れた瞳で見上げられることは変わらなかった。傾いた上半身をソファに着いた手で支えている様子も、美由紀らしからぬ儚げな風情を漂わせてるし、さらりと垂れる黒髪や伏せた瞼、火照った頬、ふっくらとして赤い――。
「口開けていると指突っ込むぞ」
「やぁめてください」
赤さが増した唇は、吸えばウォッカの味がしそうだと、半ば本気で思えた。
面倒だ。バカバカしい。相手は美由紀だ。
頼りなく染み出る湧き水のような感情を、榎木津はいやだ面倒くさいと思って打ち消そうとするのに、美由紀の閉ざされた唇からふいに熱い吐息が漏れるものだから、また煩わしい感情が湧き上がる。
「探偵さん、なんだか暑くないですか」
美由紀はだるそうにそう言って、斜めになっていた上半身を少し起こした。
「暑くない」
「暑いですよ」
そう言いながら美由紀は、首元で結ばれた臙脂のリボンをするすると解いた。失礼します、そんな無意味な台詞を添えて、手慣れた仕草でブラウスのボタンにまで手をかける。
「――まっ、待て!それは駄目!」
美由紀は大きな声を出した榎木津をぼんやりと見た。そうしながら、二番目までの釦がはずされた襟元を肌蹴る。鎖骨の影と白い肌が露わになった。
「大袈裟だなあ。寮じゃみんなこんな格好してるのに」
「ここは寮じゃあないだろうが!」
「ここには校則ないじゃない」
確かに第一ボタンまでしっかり止めろという校則はない。ないが――。
「僕は男だぞ?」
実に当たり前のことを改めて訴えなければならないことが情けない。しかし、美由紀は存じていますがと真顔で言い返すだけで、言外に込められた意味は少しも察していないようだった。
さらにはブラウスの襟を掴んでぱたぱたと扇ぎ始め、細い、白い首と鎖骨が、見せびらかしてでもいるように晒される。少女の体温で立ち上る酒の匂い、髪や肌の匂い、石鹸なのか人工的などこか媚びた匂い、その全てを榎木津は知覚できた。
榎木津は、女性の“こういう”状況には割りに慣れている方だ。誘惑することもあればされることも多い。誰の迷惑にもならない“弁えた媚態”は、好ましくありこそすれ汚らわしいとか破廉恥だとか思ったことはなかった。
だから、もしも目の前の女性が――
榎木津はゆったりと腕を組み、口を開いた。
「あのねえ、女学生君」
「なあに?」
まるで子供の返事である。表情も、いつものきりりとしたところがないので、幾分かあどけないところがあった。その無防備さ、危うさは、明らかに媚態である。
目の前の女性が、
美由紀が、例えばもう二年早く生まれていたならば。
“女学生”でなければ。卒業していたら。
少女でなければ。
酒の力など借りずとも、無意識の色香でこちらを誘うような、少女にはできないことを、美由紀ができるようになったら。
「不本意だが――僕が待とう。僕を待たせるなんて罰当たりもいいところだが、そんな付け焼刃で僕が悶々とするなんて、そっちの方が馬鹿馬鹿しいじゃないか」
言い切ると、榎木津は組んでいた手を美由紀のブラウスに伸ばした。
一番上の釦に指をかけて、さっさと温かな肌を隠す。
「え?待、つ?付け焼刃?」
「わからければいい」
美由紀は正にわからないという顔をしたが、その時やっと自分のブラウスが直されて幾らか息苦しいのに気付いた。
「ああっ。ナニするんですかぁ暑い!」
「暑くないっ!」
美由紀が身体を引いて逃げようとしても、榎木津は負けずに美由紀の制服を正していく。リボンを結ぼうとしたところで、美由紀の退化しきった忍耐力は限界を迎えてしまった。
「もーしつっこい!」
大声と共に、美由紀は思い切り榎木津の手首を掴んだ。
「えっ」
相手は細身の少女である、榎木津なら簡単に振り解くことができるはずだった――。
できなかったのは、単純に油断していたこと、理性の箍が緩んだ人間の力は強いということ、美由紀に対して応戦する気が湧かないこと、それまでの経緯から多少は動揺していたこと、など原因は幾つもあった。
*
その信じられないような光景を、和寅は完全に失語しながら眺めた。
あの、我侭で傍若無人で天下無敵の我が主が、
年端も行かぬ女学生に両の手首を捕らえられて、
押し倒されているなんて。
その相手がまた、長く付き合いのある聡明な少女であるということも、俄かには信じられない。
「ふふ、勝った」
ソファの上で榎木津に乗り上げた美由紀は、楽しげにくすくすと笑いながら己が組み敷いた男に向けて言い放った。よくよく見れば、美由紀の制服のリボンは解けていて、釦も上二つがはずれている。火照った赤い頬や唇に浮かべた薄笑いにはどこか妖艶さまで見えて、日頃の美由紀とのあまりの違いに和寅は幾度も目を瞬いた。
榎木津も和寅同様に、彼が滅多に見せない驚愕だとか呆然だとかが混ざった表情で美由紀を見返していた。しかしそこはさすがと言うべきなのか、すぐに気を持ち直したらしい。
「何が勝ちだ、未熟者め」
低い声でそう言ったと同時に、己が手首を掴む美由紀の手を幾分か乱暴に振り解いた。バランスを崩した美由紀は、うわぁと悲鳴をあげながら榎木津の胸に倒れ込む。榎木津はそれを両腕で抱かかえるとくるりと寝返り、あっという間に形勢逆転となった。
和寅は長年連れ添う主のことながらその手法の鮮やかさに感動すら覚えていたが、そこは自称榎木津の第一助手で、冷静さは失っていない。
「せ、先生そりゃいけません!」
どんな事情があれ、いい歳をした男が歳若い少女を白昼堂々(それも人前である)組み敷くなど許されない。
榎木津は和寅を振り向くことなく、どこか不機嫌そうな顔を美由紀に向けたままだった。
「何がいけませんだ愚か者。暴れる酔っ払いを取り押さえただけだ」
そう、美由紀は酔っ払っているのだ。
この普段の美由紀ではあり得ないような言動も、すべて過ぎたアルコール量のせいなのだろう。和寅はそう思って、すべてに納得しようとした。当の美由紀は、榎木津の腕で顔が隠れているがくったりとして動く気配が無かった。
「だ、大丈夫なんですかい?やっぱお医者を…」
「医者はいい」
榎木津は平坦な声で返答しながら起き上がった。美由紀を見れば、先の妖しさは消えて穏やかに瞼を下ろしている。押し倒されてそのまま寝てしまったということか。この性格も外見も規格外の探偵に押し倒されてすやすやと寝入るなど、なかなか度胸のある娘だと和寅は妙に感心してしまった。
「ああ、布団は敷いてありますんで」
「それもいい」
「へ?」
榎木津は眠っている美由紀の耳元に顔を近づけると、
何事か囁いたらしかった。
ううだかむうだかという寝言を言う美由紀を榎木津は軽々と抱え上げる。すたすたと歩いて行った先は榎木津の自室であった。
「ついでに僕も寝るから、お前は買い物でも何処へでも行ったら」
榎木津の振る舞いに耐性がある和寅でも、さすがに焦った。
「ええっ!?いやぁあの、やっぱりまずいでしょう同衾というのは」
すると、榎木津は自室の扉の前で振り返り、嫌そうに眉を顰めた。
「同衾ってお前なあ…」
面倒臭そうに言いながら、榎木津は美由紀を抱えたまま開けっ放しになっていた扉の向こうへ消えた。
心配なら居たらいいだろう、そんな声が部屋の奥から聞こえてきてからも扉が閉められる気配はなく、和寅はやっと安堵のため息をついた。
美由紀は聞いてはいたけれど、もちろん、覚えてはいない。
「僕を押し倒そうなど、まだ二年ちょっと早い」
(終)
PR