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京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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行葉(yukiha)
性別:
女性
自己紹介:
はじめまして。よろしくどうぞ。

好きなもの:
谷崎、漱石、榎木津探偵とその助手、るろ剣、onepiece、POMERA、ラーメンズ、江戸サブカル、宗教学、日本酒、馬、猫、ペンギン、エレクトロニカぽいの、スピッツ。aph。
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★榎木津×益田(益田だけ女の子設定)
※注意!超注意!




 いつもの朝の手前の夜。

 ばちりと瞼が開いた理由がわからず、榎木津はよく見えない目を窓に向けた。
 カーテン越しの空は薄明るく光って見える。
 夜と、一般に言うところの朝の境目、つまりは早朝と呼ばれる時間帯であるらしい。
 広い寝台の上で身体を半回転させ、もう一度目を瞑る。それでも寝苦しいのは、普段は心地よい肌触りだけをもたらす襦袢が脚を拘束するように絡んでいるからか、朝の生まれたての空気が肌に刺さるからか。あと他にも、煩わしいことがある気がした。
 ああそうだ。
 自分が寝る直前まで、憤りを抱えていたことを思い出す。
 榎木津は顔いっぱいを不機嫌にしながら、肘で起き上がった。寝台に残る己の体温には大いに未練があるのだが、寝台の上で胡座をかいてみる。人が見れば呆けているようにしか見えないし、実際にも呆けながら、事務所の応接に接する扉を見る。
 榎木津が抱えているのは、馬鹿馬鹿しく腹立たしくもどうしたって無視できない感情の波だった。それを沈めるには、この扉を開けて確かめるしかない。
 ――居たら蹴飛ばしてやろう。
 寝ぼけた思考で、それだけ決めた。

 いつもの朝の手前の夜。

 夢とも言えない夢。目が覚めた瞬間に、益田はそう思った。
 現実に起きたことが夢に反映されることは間々あるだろう。しかし、今見ていたのは反映どころではない。己の、視覚的記憶だった。時間軸を無視してぶつ切りに繋いだ映画のように、ぱっぱっと映像が再生された。まるで走馬燈のように。
 妻の不貞を疑う依頼人が益田に見せた好色な目付きや、簡単に後を付けさせる妻の白い顔や、ナンパ男のごつごつした茶色い手や、手洗いに行った時に鏡に映った己の――夢で見た自分の顔を、益田は何処か恐ろしく思った。
 端の切れた瞳は恨みがましく、薄い唇は血の気がなく冷たそうだ。何の感情も写さぬ素顔に、何故か酷薄さが見える気がした。
 起きよう。益田はそう決めて、干からびたようにくっついた瞼を持ち上げた。そこには藍色に染め抜かれた職場の風景がぽかんと浮かんでいた。
 気が滅入っている。体の芯の芯、それは心と呼ばれるものかもしれない、其処まですべてが疲れている気がした。
 大きな窓のカーテンの隙間から、まだ淡い紫の光が漏れている。まだ早朝よりも早い時間の色合いである。
 終電を逃したので、着の身着のままで寝床を借りたから(正確には寝床でもないが)、始発が動いている時間であれば、一度家に帰って風呂に入りたかった。それに、自分が今日ここで寝ていたことを、今更ではあるのだが上司にはあまり知られたくない。
 益田の上司、探偵社の主である榎木津は、益田がここで夜を明かすことをよく思っていないらしかった。以前調査が長引いて終電を逃した日、不在の榎木津に代わって和寅にだけ断って探偵社で夜を明かしたことがあった。その夜中に帰ってきた榎木津は、ソファで転がっている益田の姿を認めると、夜闇を追い払うような勢いで「お前、何で此処で寝ているんだ!」と怒鳴ったのだ。下僕の癖に生意気に、とも言っていた。
 無理はないかな、と益田も思う。この探偵社は榎木津の住居も兼ねているから、そこに助手であるとはいえ他人が寝ていたら気分が悪いものかもしれない。そもそも、男しかいない所に女の自分が転がって寝ていること自体が一般的にはよろしくない。生憎ここには益田自身を含めて自分を女扱いする者はいないから、危機感を感じたことはなかった。給仕の和寅の方は、二言目には「一応は女性なんだから」とか何とかと言葉を続けたが、半ば呆れ諦めているのは明白だった。ここでは主の榎木津が全てのルールであるから、性別云々関係なく榎木津の周りにいる者は下僕で統一される。さらに、益田くらい四六時中行動を共にしていると、下手をすれば下僕以下だと言われてしまう。その下僕が応接のソファを我が者顔で占拠して寝ているというのは、
 ――不敬かなぁ。
 そんな小さなことを気にする男とは思えないのだが、益田にはそれ以外、なぜあの時榎木津は怒鳴ったのかわからない。 
 榎木津の言動を、理不尽だとも酷いとも馬鹿だとも思う。それと同時に、益田にとって榎木津はどうしても見上げる存在だった。逆らってやりたい見返してやりたいとまったく思わないことはないのだが、いざそのチャンスがあったとしても、自分はそれをしないだろうと思う。
 榎木津だけが持っている圧倒的な力を、益田はこの目で見ていたいのだ。できるだけ長く、多く、傍で感じていたい。
 これは憧憬だろうか。思慕だろうか。
 とにかく、日頃益田は榎木津の機嫌を損ねぬよう(クビにならぬよう)尽力していて、極力終電には間に合うように探偵社を出ている。
 今夜は――。
 ――榎木津さんの、せいでもあるんだから。
 寝る前の、榎木津が自室に入った背中を思い出して、益田は額に流れ落ちていた前髪をぐしゃと掴んだ。
 寝返りがてら脚をだらしなくソファの下に投げ出すと、左の足首がじんと痛んだ。そこに手をやると、寝る間際に自分で巻いた包帯に触れた。    
 初めて、尾行中に怪我を負った。
 思い出して頭を抱えたくなる。実際、いやになって額に手を当てた。
 不倫疑惑の婦人をつけている最中、チンピラに目を付けられたのだ。日頃はそういったことのないように、夜は男装をしてつけるのだが、日中は女性とわかった方が怪しまれることが少ないから、あえてスカートを履くようにしている。短時間で終わらせるつもりの尾行であったから普段の格好をしていたら思いの外時間がかかり、暗い路地の影に潜んでいたら、最悪のタイミングで声をかけられた。
 これがオフの時であれば、上機嫌で笑ってあしらえただろうが、今回はあしらいどころではない。せっかく怪しい行動を取り出したターゲットを見失ってしまう。完全に無視しようと早足になった瞬間に、肩を掴まれた。
 完全に己の失態である。尾行中にナンパされるなどという隙を見せたのもそうだし、あげく肩を掴まれてバランスを崩して転ぶなんて。(そのチンピラは興が覚めたのか人が好いのか、逆に散々心配されてしまった。) 
 我ながら、馬鹿だと思う。

「馬鹿だ」

 思ったことを口に出したつもりは、益田には無かった。そもそもこんな低い声はしていない。この声は、これは。
 なかなか言うことを聞かない瞼を二三度擦った。声のした方、ソファの背もたれ側にぐるりと首を回して焦点を合わせれば、声の主が夜闇に紫色に浮かび上がった。
 白い肌はますます白く、緋襦袢は暗く沈んでいる。
「え、のきづさっ」
「やっと起きたか」
 がばりと起き上がると同時に出した声は、驚きと寝起きのせいで掠れていた。
「あ、お、おはようございます。い、いつからそこに?酷いなぁ嫁入り前の婦女子の寝姿を盗み見るなんて」
 掠れた声でも何でもよかった。仕方なかった。襦袢一枚と夜だけを纏った榎木津という男を前に、冷静でいられるほど益田の神経は図太くできていない。益田がペラペラと喋る間に、榎木津はぺたぺたと歩いて背もたれ側からソファの正面にまわった。
「ど、どうしたんです、こんな、まだ暗いです、夜ですよ夜。ああでも、榎木津さんが起きた時が朝なんでしたっけね」
 視界の中で榎木津が大きくなるから、益田は反射的に身を引こうとした。
 しかし、その瞬間に目に入ったのは、毛布を被った腰骨辺りを思い切り踏みつけた白い――。
「煩いぞマスカマ」
 白い皮膚と、筋肉や筋が作る陰影が美しい脚が、緋襦袢の袷を払い切って益田を踏んでいた。さらに視線を上げれば、両腕を組んで下僕を見下ろす鋭角の視線とぶつかる。
 眠気などとっくに遠くへ飛んで行って、益田はこの不可解かつ気まず過ぎる状況を変える為の言い訳を探し思考を高速回転させた。
「あ、あの、すみませんでした、またソファ借りちゃって、でもですねこれは・・・」
「煩いってば」
 下僕が用意した台詞など、主の一言ですべて塵になる。益田は理不尽だと思いながらも口を噤んだ。
 言い訳、と言うよりは、益田が言いたいのはただの事実だ。
 調査対象を見失い、益田は痛む足首を隠して事務所に戻った。のろのろと歩いていたせいですっかり遅くなり、軽く手当てを済ませたらすぐに帰るつもりだった。しかし、そこに榎木津が自室から現れ不機嫌極まりないという形相で益田の有様を罵り倒したのだった。
 お前は自分が何だと思っているのだ。
 その人にきっちりナンパしてもらった方が余程役に立っているじゃないか。
 志願下僕第一号の益田も、さすがに悔しかった。本当のこと過ぎて腹は立たない。ただ、自分が情けなかった。それに、ナンパされた方がいいと榎木津に言われたことが、自分でも意外なほどにこたえていた。己の不甲斐なさと、出所の知れない硬く絡まった感情が渦巻いて、榎木津が機嫌を直さぬまま自室に篭ってからも、益田はそこから動けなかった。気付けば、とっくに終電に間に合わない時間になっていたのだった。ぐちゃぐちゃとした感情を引き摺りながら、和寅にだけ断りソファの上で毛布に包まった。それが、数時間前のことである。
 踏みつけられながら、益田はやけに頭が冴えるのを感じていた。寝る前のことを鮮明に思い出したからかもしれないし、目の前の刺激的な情景のせいであるのかもしれない。
 益田を踏みつける、肌蹴たというよりは剥き出しの榎木津の脚は、マネキンの脚のような質感でありながら、筋の陰影やシルエットは確かに男のものである。踏みつけられて喜ぶという趣味は己にはないはずだが、視界に広がる絵にはいやに惹きつけられるものがあった。
 ぼんやりと益田が見上げると、榎木津は表情を変えぬままそれを見詰め返してから、鼻でため息をついた。
「お前がここに居たら蹴ってやろうと決めていたのだ」
「え、ええっ」
 まさに踏みつけられているのだから、このまま蹴り上げられる展開は想像に易い。実際に榎木津は日常的に益田を蹴ったりぶったりしているから、やろうと思えば躊躇いなど微塵もなくやるだろう。
 起き上がって逃げるべきかと思うが、榎木津の顔を見た瞬間に無理だと悟った。
 逃げられない。
 逃げるという選択肢など、益田には与えられていない。
「け、蹴りますか?」
 何とか搾り出した声は、酷く間の抜けた問いかけをした。
「…やめた。お前、物分りが悪すぎだ。それとも」
 榎木津は言いかけたまま、言葉を区切った。乗せられていた足がはずれる。引っ込められるのかと思えば、それは益田の体とソファの背もたれの間に滑り込んだ。そのままソファに乗り上げると、益田か被っていた毛布を剥がして床に放った。
「わざとなのか?」
 近い。膝立ちをするようにして腰に跨っているのだから、近いのは当然だ。
 ――如何してこんなことに。
 益田はただ、よく見知ったはずの男を、そうと信じられない気持ちで見上げた。見知らぬ顔をした探偵の方も、ただ益田を睨みつけている。
 何を言っているのだろう。
 何の冗談なのだろう。
 頭の中は混乱して熱を出しそうだが、毛布を剥がれた身体は冷えた。白いブラウスと紺色のフレアスカートだけ、さらに包帯を巻いた時にストッキングも脱いでいるから、秋も深い夜の空気は殊更冷たく感じた。
 上半身を支えていた腕からふいに力が抜け、益田はがくんと後ろへ倒れた。かろうじて肘で起きている。自ずと鳶色の瞳から視線が外れ、益田は言葉を思い出した。
「わざと、って、何がです?」
 何が何だかわからないが、恐ろしかった。恐ろしいと言えばいつだって益田にとって榎木津は恐怖の対象になりうるのだが、いつもは絶対に感じることのない種類の、もっと本能的な種類の恐怖だった。
「わざとじゃないなら、やっぱり馬鹿だな」
 探偵らしくない、低くそれでいて細い、粘膜に浸透するような声に、益田は思考を停止させた。
 昼日中では、探偵は可笑しな言葉で罵り、罵られた助手が調子のよい台詞で返す、そういう、付かず離れずではあるが粘着力は少しもない関係だ。それが、今この時の空気は泥にも蜂蜜にも似た粘度がある。対峙する男の目は濃く融けた飴の色で、吸い込まれるようにして益田はそれを見詰めた。
「教えてやろうか」
 何の抵抗も示さない両手は、榎木津がその無反応さえ許さないと言うように奪い去られ、益田の耳元で押さつけられていた。

 何故私に、この人が、こんなことをするのだろう。
 
 何が何だかわからない。愈々もってわからない。益田が知っている榎木津は、女性に、特に益田には絶対に、こんなことをしない。
 夜中に己が下僕を組み敷いて、榎木津が楽しい訳が無かった。男が女を押さえつけてどうこうということなら有り得ないことはないが、この場の男というのは誰あろう榎木津で、その相手は益田である。榎木津にとって、自分が女である筈が無かった。自分が女では無く一人の下僕としか見られていないことは、好都合であると思うと同時に不本意でもあったけれど、とにかく疑いようがなかった。

 ある訳が無い。

 身体は完全な緊張状態で、背筋は突っ張るように伸びきっている。恐る恐る目を開ければ、視界に入るのは事務所の素っ気無い白い天井ではない。その異常な景色に、益田は思わずもう一度目を瞑った。
「こら、寝るな」
「ね、寝てないですよぉ」
 寝ていられる筈がない。誰もが見蕩れる程の美形が、鼻先数センチのところで己を見据えていた。高温を宿して青く燃えるような、それとも青く凍りついたような、とにかく下手をすればこちらが怪我をする目だった。両の手を押さえ込まれている今、それは決して間違いと言い切れない。
 益田は抵抗するというよりは確認するように、軽く手首を持ち上げようと力を入れた。強く掴まれているという感覚はないのに、榎木津の手はびくりとも動かない。それに反応したように、榎木津は言った。
「お前のような弱い奴に、この手がはずれるのか?」
 問われるまでもない。榎木津に勝てないことなど、益田はとっくに分かっている。たとえ益田が男であったとして、身体能力が人並みはずれて優れた榎木津には勝てないだろう。
 手どころではない。榎木津が跨る腰も太腿も持ち上がらない。痩身の女一人の筋力で、彫像のように完成された肉体を持った男から逃れることはできなかった。
 まるで、夜這いでもかけられたみたいだ。
 益田は混乱しきって泥泥の思考の片隅で、他人事のようにそう思った。有り得ないからこそ、そんな例えができる。早朝の冷えた薄闇に、益田が感じる榎木津の体温も、吐息も、自分の心音も、まるで似合っていなかった。
「何を、するんです?」
 疑問はそれしかない。榎木津が、何を思ってこんなことをしているのかわからない。
 問いかけは大きな薄い色の瞳にかかった瞼に跳ね返された。
 榎木津は無言のまま、拘束する益田の手首を持ち上げ右手にまとめると、益田の頭上で押さえ付けた。強張りきった手を無理に持ち上げられたせいで、今度ははっきりと痛みを感じる。思わず眉を顰めるが、榎木津はその表情を見ても少しも動じない。
「こうすると、片手があくな」
 そう言って、榎木津は空いた左手をひらひらと振って見せた。その手が益田に迫ってくるように見えて、反射的に目を瞑る。
 怖い。
 自らを守る術がない。
「これならお前を殴れるし」
 そう言って、榎木津の指が益田の頬に触れた。熱い手である。
「絞められるし」
 頬から熱が離れて、首が絞まった。太い血管の上に、正しく指が当てられているのがわかった。
「趣味悪いけど、」
 ブラウスの襟元を思いきり掴み上げられて、後ろ首が浮いた。
「これ、破くことだって簡単だ」
 胸の布地が引き連れて、釦が本当に飛びそうだった。
 体の何処にも力が入らなかった。榎木津に乗られているから当然ではあるが、脚も腰も動かない。動かせる気がしない。掴まれたブラウスに圧迫されて息苦しい。
 益田にできることと言えば、せいぜい泣いてみせるか泣き言を口にしてみるか。
 しかしそれすらも、できる気がしなかった。
 このまま殺されてしまいそうだ。物騒な思考が過ぎるが、それ自体は然程恐ろしくなかった。然もあらんという程度である。
 それはすべて、榎木津だからだ。
 普段だって、榎木津に何かを求められたら、益田はふざけた調子で文句を言いながら差し出してきた。
 結局そうだ。
 逆らわないのは、見上げる強大な力が恐ろしいから。逆らって痛い目をみたくないから。言うことを聞かないなら要らない、と言われたくないから。
 榎木津だから、益田は下僕でいる。
 榎木津でなければ、そんなことは――。
 益田ははっとして、榎木津と目を合わせた。その瞬間に、ぎり、っと再び手首が絞まる。同時に衿を放されて、益田の頭はソファに沈んだ。

 榎木津が何に怒っているのか、わかった気がした。

 思い上がりなのかもしれない。それでも、益田が知っている榎木津は、無茶をやるし下僕に容赦はないし優しくもないが――正しいことしかしない。
 絡まった視線の先で、榎木津はまだ不愉快そうな鋭い表情を見せている。
「お前は自分が何だと思っているのだ」
 先にも言われていた言葉だった。
 乾ききった喉からは、胡乱な声しか出ない。反論なら幾らでもできたが、逡巡して、益田は結局口答えはしなかった。
「・・・すみませんでした」
 目を逸らしながら、弱々しくも声に出たのは謝罪の言葉だった。

 こんな異常事態になってやっと、益田は榎木津の考えていることがわかった気がした。
 女が夜遅くに街中を尾行して歩くことも、間抜けな理由ではあるが怪我をしたことも、榎木津は結局のところ気に食わないのだろう。きっと今までだってそうだった筈だ。和寅が自分に零す小言も呆れた表情も、同じ理由からに違いない。
 心配をかけてしまったのなら、謝るべきは自分だった。

「あの、以後、気をつけますから」
 心苦しいところではあったが、益田はそうとしか言えなかった。益田にとって、調査も尾行も仕事だ。幾ら危ないからと言ってそれをしないのでは仕事にならない。仕事にならなければ、榎木津の傍にはいられない。
 やり方はある筈なのだ。女装も男装も変装も得意だし、戦意を喪失させる調子の良さには自信があるし、使えるモノなら友でも使えばいい。
「・・・どうしてそこでコケシやらトリ頭やらが出てくるんだ?」
「へ?ああ、いいえ別に」
 へらりと笑って誤魔化す。榎木津の目に益田の思考が映りこんだものらしい。 
 榎木津は冷たく細めていた瞼や目尻からふっと力を抜いた。
「本当にわかっているのかなあ」
 榎木津の右手に力が入り両手が押されて、ぎしっとソファが軋む。骨まで食い込む程に締め付けられて、益田は小さく悲鳴を上げる。
「痛っ」
「おい、何か他に反応はないのか?」
「は、反応って」
 榎木津の口調はやっていることの乱暴さの割りに単調で、余計に不気味だった。
「きゃあきゃあ悲鳴を上げるとか逃げようとするとか、喜びに舞い踊るとか、いろいろあるだろうが」
 何だそれは。
「お、踊、踊りませんけど」
 助けを呼ぶとか逃げ出すという選択肢は、最初の最初からなかったように思った。そうかと言って踊ろうとも思わない。
「厭じゃあないのか」
 独り言のような言い方だったから、益田は返事をするか一瞬迷った。少なくとも手は解いて欲しい。
 益田が逡巡していると、榎木津が笑った、ように見えた。はっきりとしないのは、次の瞬間に視界が完全な闇で閉ざされたからだ。夜闇よりももっと濃い、そして温かい、重い。
 榎木津の掌であることは、すぐにわかった。それよりも、

 ――どうして微笑むの。

 一瞬だけ見えた榎木津の顔を思い出すのと、唇に柔らかな感触を覚えたのは同時だった。
 
 ――口づけ。

 体温の闇の中で、ひとつふたつと、口づけが降った。
 戯れと言えるほど冷たくもなく、情欲と言えるほど濡れていない、さらさらと乾いていて温かい感触の口づけが、みっつ、よっつと降る。

 今にも唇から震えだしそうで、益田は時が過ぎるのを祈るように待った。
 ぎりぎりと絞めあげられた手首の痛みと、生々しい程に優しい、まるで何よりも愛しい恋人にするような口づけに、あと少しで頭がおかしくなってしまう。狂う。
 口元に笑ったような吐息がかかった。
 手首を束縛していた手が離れる。
「やっぱり馬鹿だ、バカカマオロカ」
 ばーかばーか。
 身体が軽くなり、榎木津がソファから降りたのを知った。囃し立てるような子供っぽい声も僅かに遠ざかるのに、視界はまだ暗い。
 寒いと、益田はまずそう思った。
 目隠しを外されて見えたのは、榎木津の後ろ姿だけだった。
「ば、馬鹿馬鹿って、言わないでくださいよ」
 馬鹿というなら、榎木津も馬鹿だ。益田は沸騰しそうな頭でひとつ確信している。
 益田の方にも言いたいことは山ほどあった。
 どうして口づけた。どうして優しくした。どうして、どうして、
「どうして――」
 言わないのか。好きだとか、愛してるとか、そういった言葉を。
 結局益田は、聞きたいことをひとつも聞かなかった。ほとんど確信していたが、思い上がりという可能性は否定できなかったし、それを尋ねてしまえば最期だと思った。

 ――貴方、私のことなんか、好きなんですか。

 聞いてしまえば、蹴られるだけでは済まされない。今と違う関係になるしかない。もう手遅れであるという可能性には、益田はとりあえず目を瞑った。
 どうしてと中途半端に問いかけた益田に、榎木津は自室の扉の前で横顔だけ見せた。

「・・・今度ここで寝ていたら、問答無用で部屋に連れていくよ」
 覚悟しろバカオロカ。

 榎木津にしては静かな仕草で扉が閉まってから、益田は乾いて張り付いた口を開いた。
「覚悟、しておきます」

 榎木津に対して抱く感情が何か、益田にはわからない。
 わかることは、 榎木津だけにしか抱けない感情だということだった。
 夜が明け、和寅が起きる前に探偵社を出て、部屋に戻ってからも考えたが、冷静になるには一度寝るべきだと思い至って布団を敷いた。寝て覚めたら夢だったというオチを恐れていたのかもしれない。
 憧れだろうか。あるいはやはり恋だろうか。
 覚悟をすべきだろうか。
 しているのは、期待だろうか。


 そしていつもの昼日中。

「取れたな!それで付けたんだなマスオロカ!」
 榎木津が指差した先は、益田の白いブラウスの第二釦だった。
 益田は自分の顔に熱がたまっていくのを感じながら、思わず新しく付け替えた釦に触れた。
 そこは間違いなく、先日榎木津が掴んだせいで緩んだ釦の箇所である。
 当の榎木津は、愉快そうに目を細め、口元には意地悪なほど華麗な微笑を浮かべている。
「ざまあみろ」
「・・・意地悪いなぁ」
 漸くのことでそれだけ言うと、榎木津は高らかに笑った。
 本当に、意地悪だ。
 あの異常な夜は、己の夢でもなく榎木津の夢でもない、益田はただ事実だと思うしかなかった。


(終)


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