バラの葉ひらひら
京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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【掌編】あなた方の顔に書いてあります。
2010/09/15 [Wed]
『薔薇十字探偵の私事』(2)
「探偵っていうのは、つまり、秘密を暴く役柄なんだね」
松枝は、彼にしては珍しく幾らか感慨深げに呟いた。
「職業としての探偵とは別で。素人探偵なんて奇妙な存在が、推理小説には登場するじゃないですか。あれは、物語の謎を暴く者、という意味の探偵なんだね」
”探偵は職業じゃなくて称号である”という、例の探偵の主張はつまり、
「そういう意味だというなら――理解できないこともない」
松枝が語尾を極丁寧に濁したことを、美由紀は賢明だと思った。松枝を侮る訳ではないが、松枝は噂の探偵とは面識がないのに対し、美由紀は数年来の付き合いがある。そういう意味では美由紀の方が探偵について語ることの難解さを知っている。だからこそ、断言を避けた松枝に好感を持った。松枝はさらに、まあ真意はご本人にしかわかりませんがと区切り、美味しそうに珈琲を啜った。美味しそうにと言っても、傍目から見れば無言で無表情のまま珈琲を飲んだだけに過ぎないだろう。松枝は感情表現のバラエティに乏しい。
松枝青年と、姿を見かければ声を掛け合うようになってから、幾らかの月日が経っていた。いつの間にか、互いの感情の機微を察せられるくらいには親しくなっている。
今の松枝の見解は、ほとんど正解なのではないだろうか。そう思える程に、美由紀自身納得している。しかし同時に、確実に物足りなかった。あの”探偵”がそれだけだろうか、と。そう思いたいだけ、という可能性も捨てきれはしないけれど。
とにかく――美由紀は絶望的な気持ちで呟いた。
「その探偵に、隠し事をしても無駄、ということですね」
松枝は、やはり私情を挟まぬ医師のように表情がない。
「・・・無駄、というか・・・」
秘密を暴かない探偵なんて、
探偵ではないんでしょう。
津々と静かな低音の発言に決定打を見て、美由紀は正面を向いたまま、堂々とため息をついた。
名前を松枝翔平という。
存外に長い間見知っていたのに、美由紀が彼の名前を知ったのはつい最近だ。
14歳の時に東京に越してきて、神田神保町にある探偵事務所に遊びに行く時には、ほとんど必ずと言っていいほど古書店街を寄り道して歩いた。気が向けば書店に入って興味を持った本を買い、気が向かなければ立ち読みだけして出ていくこともあった。
そんなに頻繁に通っていたわけではない。なじみの店があるわけでもなかった。そうだというのに、馴染みの「客」ができた。
何がきっかけだったのか、今となっては判然としない。
古書店独特の、天井まである本棚に向き合って、背伸びして本を取ろうとしたのを助けてもらったことは覚えている。美由紀は女性にしては背が高い方だったが、彼はそれよりもずっと背が高かった。探偵と同じくらいの背丈はあるだろうと思う。
「これですか?」
そう言って手渡してくれたその表情からは何も読みとるものがなかった。能面のような無表情が、かえって印象深い。
二度めに会ったのもいつだったか定かでない。恐らく、初対面の時とは違う古書店だった。美由紀がぼんやりと立ち読みをしていると、「失礼」と言って丁度面前にある本に手を伸ばした青年がいた。その詰め襟の青年に美由紀は見覚えがある気がして思わず凝視すると、彼は視線に気づいて目を合わせてきた。特に話もなかったので、その時は軽い黙礼を交わすだけで店を出た。
三度めに会った時には、17歳になっていた。
何かに急かされながらもふわふわとした気分を落ち着けたくて入った探偵事務所に一番近い古書店で、詰め襟の制服ではない開襟シャツを着た彼が声をかけてきた。
記憶にあるよりも伸びた髪が、少しだけ大人びて見せていた。同世代だと大ざっぱにくくっていたが、どうやら年上であることが知れた。
「それ、この間僕も読みましたよ」
肩越しに声をかけられ振り返ると、いつかのように能面のような無表情がそこにあった。
「・・・よく、お会いしますね」
驚くままにそんなことを言うと、彼の目が本の僅かに細くなった。笑ったのかもしれない。
「覚えていらしたんですね、私のこと」
「まあ、記憶力はいい方ですし。あなたは結構目立ちますから」
「はあ、そうですか?」
案外はっきりとものを言う男だと思った。
それ以降は、見かける度にいくらか会話をするようになった。美由紀は勿論、彼も遭遇を装って待ち伏せしているわけではなかったと思う。松枝はほとんど毎日のように古書店に寄っているものらしく、彼の存在を知人として認識した後は、さらに遭遇する回数が増えた。今では時間があれば二人で喫茶店に入って談笑することもある。
「この間はどうでした?」
この間、とは、直近の探偵社への来訪を意味している。このところ、美由紀は松枝に探偵社の面々の話をすることが多くなっていた。何しろ愉快な話題に事欠かないのである。もちろん、その探偵社の長に美由紀が恋心を抱いているというような、愉快すぎる話まではしていない。
「火傷の手当を命じられました。男に治療されるくらいなら腕が腐り落ちた方が良いと言って」
「へえ、医師には男性が多いけどねぇ」
大病を患ったらよくよく病院を選ばないと。
眉をしかめるわけでも笑うわけでもなく、松枝はただしみじみとそう言った。そろそろ美由紀はこの青年も珍妙であると気付いている。
「――それで、進路の相談をしました」
「進路?その手の話は探偵氏とはできないと言っていたのに?」
そうなのだ。あの奇矯な探偵が、美由紀の話を聞いて、助言も与えてくれた。これが松枝であれば、感謝はしても感動はしなかったかもしれない。人の話を聞かない、長い話が大嫌いな人が、美由紀の話を聞いて考えてくれたことが、掛け値なしに嬉しかった。
「できたんです」
照れくさいのを誤魔化したくて、少し笑った。すると、松枝の能面のような無表情が、笑ったように見えた。彼の笑顔は、能面が見方によって表情を変えるのに似ていると美由紀は思う。
「よかったね」
「はい。――それから、映画を観て・・・」
二人きりで、流行の映画を鑑賞し、喫茶店で珈琲を飲みながらたわいないお喋りに興じ、たまたま通りかかった店で買い物をし――
「可愛い帽子があったんですけど、ちょっと高くて」
「買ってもらったらよかったのに」
「そう言ってはくれたんですけど、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないですよ」
「ふぅん、呉さんは遠慮深い人なんですね」
ほとんど表情を変えぬ淡々とした様子の青年に、美由紀はぶんぶんと首を横に振って至極はっきりと否定の意志を表した。
遠慮深いなど滅相もない。今美由紀がしている行動を省みると、かなり厚かましい部類に入るような気がする。
ただ“会いたい”から毎週のように会いに行っている。それのどこは慎ましいだろうか。日常的な接点は何もないから、遠慮していたらただ面会するだけでも叶わないのだ。
話し相手の青年は、まるで患者の話を聞く医師のように深刻そうに頷いた。それからゆっくりと珈琲を啜り、
「しかしそれは――まるでデートですね」
そりゃあ風邪ですね、という台詞の代わりに、彼は言った。
「で、デートっ!?」
硬派過ぎる松枝に似合わぬ単語に、美由紀は慌てた。
「違うの?」
何故そんなに慌てるのかまるでわからないという不可解そうな顔で首を傾げた。
尋ねられると、美由紀はまた困ってしまう。肯定はしづらいのだが、否定することはない気がする。
「別に、その人は恋人ではないですよ」
「恋人でなくても、デートする人達はいっぱいいます」
それはそうだ。美由紀の友人にも、恋人が欲しいという理由で、好きではないが嫌いではない人と”デート”をする者は居る。珍しくもおかしくもない。
「まあ、そうですけど」
珍しく口ごもる美由紀に、松枝は切れ長の目を僅かに細くした。
「呉さんは、好意的な下心がある者同士が遊びに出かける、というのをデートと言っているのですね」
「下心、ですか」
「好意的な、です」
「はあ」
松枝の言うことは、いつものようにすんなりと美由紀の頭に入った。
好意的な下心。松枝が言うと哲学書の専門用語のように響くのだが、しっかり咀嚼して考えれば、疚しいような健やかなような言葉だった。
「デートしよう、と言い出すのはその人です。ただ、それがそういう、好意的な下心を踏まえたものかどうかは――わかりません」
好意的な下心とは、恋心のことだろうか。もしもそうであれば、抱えているのは自分の方だ。
まとまらない美由紀の独白を、松枝は静かに小さくうなずきながら聴いていた。こういう所作が、彼を年齢不詳にさせている。格好は今時の若者らしい趣味だから老け込んでいるようには見えないが、話をしていると遙かに年上のようにも思えるのだった。
松枝は首の後ろを少し掻いた。
「うぅん、まぁ、その探偵氏が呉さんに対して下心があるというのも考えにくいですしね」
抑揚のない低音が、説得力ある私見を語る。
十代の女学生に、あの探偵が下心を抱くなんて。
続く言葉に美由紀が嫌な予感を覚えたとしても、松枝の語りは終わらない。
「話に聴く限り、その人はなかなか個性的な人らしいから。彼なりの言葉遊びなんだろう」
松枝は多くの言葉を使わない。最低限の言葉を使って、漏れなく告げる。だから、松枝の私見をどんなに残酷に感じたとして、美由紀には逃げ道がない。
それはそうですよね、と言って、美由紀は笑って見せた。
どちらともなく景色が暗くなったのに気付いた頃、喫茶店に入ってから一時間以上も経っていた。美由紀は松枝と話していると、いつも時間の経過を忘れてしまう。松枝が、特別に調子のよい語りをするわけでもなければ、興味深い妖怪話を披露するわけではないのだ。淡々とした語り口、変化の乏しい表情で、時に自身の意見を語り、専門的な見解を織り交ぜ、会話の相手に意見を求め語らせる。ただ当たり前の会話をしているのに、いつの間にか夢中にさせられている。
こういった器用さも、美由紀が松枝に知人の古本屋を重ね合わせる要素には違いなかった。
店を出て、会話を続ける内にいつの間にか美由紀を駅の改札まで送り届けているのも、これまでのパターンであった。徒歩で帰る松枝に、美由紀はいつも見送りを辞退したいと思っているのだが、何分会話が途切れないのである。
「今日はありがとうございます。松枝さんのお陰で徒労にならずに済みました」
美由紀は律儀そうに頭を下げた。松枝は落ち着いた動作で片手を振り否定した。
「礼なんていいですよ。誘ったのは僕ですし」
やはり、松枝は無表情だ。それでも、視線の強弱や方向、瞬きの回数、首の傾げ方に、美由紀は表情を見つけられる。無感情な人間ではないのだ。
「おもしろい本があったら、また教えてくださいね」
「よければ貸しますよ」
「でも、いつ神田にくるかわかりませんから」
何となく――美由紀は、約束をするのは避けたかった。
偶然顔を合わせる者同士という関係を越えて松枝に接近することに、美由紀はリスクがあると直感している。男女の間で友情を成り立たせるには、ある程度の距離感が必要だと美由紀は思う。それは、美由紀が男という性を無意識に憎んでいるせいでもあるし、一般常識や冷静な状況判断なども関係している考えではあった。
一人の男への片想いに手一杯である美由紀は、とにかく恋人が欲しくて手当たり次第にデートをしている級友達の真似はとてもできないのだ。
松枝も敏感にそれを察したらしく、ふっと表情を消してそうだねと言った。いつも以上に控えめで優しい声が、美由紀に痛ましく響いた。だから、甘い言葉を口にしたくなる欲求に、逆らえなくなったのだ。
「今日、とても楽しかったです」
そう、楽しかった。だからこそ、美由紀は松枝に寂しそうな顔をしてほしくなかった。
すると、青年は電柱柱のように真っ直ぐ突っ立ったまま、彼にしては珍しく、品の良い薄い唇で弧を描いた。
それは確かに、笑顔に見えた。
「僕も」
その瞬間の松枝は、歳相応かそれより下にさえ見えた。
美由紀は、どんな顔をしていてよいかわからず、ただ訳もなく、はいと言って頷いた。
*
益田はそれを目にした瞬間、記憶を消したいと思った。
自分の脳味噌のことである、努力すれば消せるかもしれない。咄嗟にそう思うのだが、冷静に考える前に諦めた。
忘れられそうにないくらい、印象的だったのだ。
駅前の、夕陽に照らされた一組の若い男女。遠目だから、はっきりと表情まで見たわけではない。しかし、良く見知った少女の輪郭は、どこか痛々しいほど可憐に見えた。対峙した長身の若い男は、景色にとけ込むような静かな空気を纏いながら、濃い影を作り存在を主張する。
一服の絵画、もしくは写真家が反射的に捉えるに相応しい、完結した景色のように益田には見えたのだ。
できれば、この景色は益田の中で誰にも曝されないもので終わってほしかった。
「あ!マスオロカ!」
益田はその声に背筋が粟立った。今最も顔を見たくない人物と遭遇してしまったのだ。
「え、榎木津さん!今日は事務所に居たのでは・・・」
「馬鹿親父に呼び出されたのだ。ああ!お前なんで此処にいるんだ!和寅まで着いてきたんだぞ、お前が此処に居たら事務所が留守じゃないか!!」
「え、まあ」
当たり前である。和寅が榎木津に同行したというなら、当然事務所は留守だろう。そこでやっと、益田はあることに気付いた。
今日は土曜日なのだ。
「ああ、美由紀ちゃん・・・」
榎木津は怒鳴るのを止めて、益田の頭上を注視した。
益田は今、榎木津にはあまり見せたくない視覚的映像を抱え込んでいる。しかしそれはわざわざ益田を介して視なくとも、榎木津が少し視界をずらせば見えてしまう。これはもう、どんなに逃げ隠れしても無駄だった。益田は半ば投げやりな気持ちで上司をこっそりと見返す。すると、
榎木津は笑っていた。いつもするように、不敵に。
「女学生君じゃあないか!」
榎木津の視線は既に益田の背後、実際に在るものを映していた。そこにはもう、美由紀しか立っていない。あらぬ方向を向いている美由紀は、一緒にいた男の背を追っているのかもしれなかった。
榎木津が「おーいそこの可愛い女学生!」と恥ずかしいことを大声で喚きながら走って行く。駅を利用する人、電車を降りた人達が振り返って訝しげに見て行くから、他人事ながら居た堪れない。立ち尽くしているわけにもいかず、益田も榎木津の後を追った。
振り向いた美由紀は、半分沈んだ陽に横顔を照らされ、益田の見知らぬ女のように見えた。それも一瞬で、次には慎み深く咲いた花のように笑う。もちろんそれは、一直線に榎木津に向けられていた。そうしてひとつ、益田は安堵のため息をついた。
この笑顔ひとつで暴ける秘密を、二人が共有する日が来るだろうか。こればかりは、探偵助手ではわからないものらしかった。
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