恋に落ちた。
つまりそういうことだと、榎木津は自覚している。
言葉にすると、その響きのこそばゆさや耳障りのあまやかさに落ち着いていられない。しかし、体中がうずうずして仕方ないというのに、それが少しも不快ではない。
むしろ最高に機嫌はよかった。
探偵と彫られた三角錘をちらりと見てから、机に突っ伏した。
探偵さん、と呼ぶ声が聴きたい。
いや、なんでもいい。
なんでもいいから、彼女の声が聴きたかった。
顔が見たい。動いている彼女が見たい。会話をしたい。会いたい会いたい。
今元気だろうか。笑っているだろうか。授業中だろうか。何を考えているだろう。
脈絡のない欲求や疑問はひっきりなしに沸いてくるから、頭の中は少しも冷えない。
会いたい会いたい。声が聴きたい。笑顔が見たい。
「うぅ。あぁぁぁぁぁぁぁ」
突っ伏したまま机にしがみついて、ついでに唸って気を逸らす。
体中がうずうずした。会いたくて会いたくて、油断すれば脚が勝手に会いに行ってしまいそうだった。
「先生・・・とりあえず珈琲でも」
漂う香ばしさに顔を上げれば、まるで中野の古本屋のような眉をした和寅と目が合った。
見飽きた顔を見たせいで、急激に現実に戻される。榎木津はもちろん、それを望んではいない。
何も言わずに出された珈琲を啜れば、いつもの味だが確かに旨い。
「・・・明日ですよね?」
いつまでも探偵机から離れなかった和寅が、さりげない口調で聴いてきた。何のことかはもちろんわかっているから、適当に答える。
「ん」
「どこに行くんで?」
「日比谷。映画が観たいって」
明日のことを思うと、少し楽しくなった。
「・・・何にせよ、もうちょっとの我慢じゃないですか」
宥められていると思うと悔しいのだが、和寅は確かに主の扱いを心得ているようだった。
「ふん」
榎木津はため息をついてから、珈琲をずずっと啜る。
会いたい会いたい。宥められても、起きているから思い続ける。会えたら会えたで、居ても立ってもいられないのだが。
終
PR