華奢な指先が、結露した滴ごとアイスティーのグラスを撫でるのを眺めながら、益田は何とも言えない歯がゆさと、災いの前触れかと疑いたくなる程の甘い照れくささを頭の中一杯にごっちゃまぜにしていた。
「はあ、満腹になったらすっかり温かくなりました」
そう言った敦子の頬は確かに紅色に上気していて、その頬がまた何故か後ろめたい。
自分なんかの前でそんなに顔を赤くしていいのか、もったいないと思わないのか、と問いただしたくなる。我ながら卑屈だ情けない男だと思うのだが、とにかく分不相応だと思うのだ。
ねえ敦子さん。
益田はここ数週間、何度も敦子に心の中で問いかけた。
クリスマスなんですよ。日本じゃ恋人達のフェスティバルです。街は恋人達のパレードです。レストランのテラス席は恋人達のショウウィンドウです。そうなんですけど。
敦子は言葉を捜していた益田より先に、にっこりと笑った。
かわいい。このままツリーの飾りになりそうなくらい、かわいい。
「美味しいお店、予約してくれてありがとうございました」
ぺこりと首を下げてみせた仕草が、子犬や子猫に似ていると思った。
「いや、その、そりゃあ、敦子さんを喜ばせる為ならグルメ本の三冊や四冊!」
「それは読みすぎ」
ふざけて笑われ役にでもならなければ、今この状況は耐えられなかった。
照れくさくて、死ぬ。そうでなくとも、明日辺りバチが当たるのではないかと心配なのだ。
益田が十二月二十五日を中禅寺敦子と過ごすことになるなんて、誰が予想できただろう。益田本人が夢にも思わなかった。
一週間前に敦子と約束をしてからクリスマスのこの日まで、メールと通話履歴を何度だって確かめた。一週間寝て起きて顔を洗ってを繰り返しても、どうしてもこの夢だけは覚めなかった。
今居るカジュアルな雰囲気のカフェレストランは、約束をした日に一晩かけてネットで検索してすぐに予約した。クリスマス仕様のランチは、女性向けのボリュームではあったが味はよく、益田も敦子も料理のおかげでさらに話は弾んだ。今は料理の皿は片づけられ、益田はコーヒーを、敦子はアイスティーを飲んでいる。
「これ、お星様に切り抜かれているのは、クリスマスだからでしょうか」
アイスティーのグラスの縁に星形のオレンジが刺さっていて、敦子は屈託ない表情でそれをつついている。敦子は待ち合わせた時こそ少し緊張しているように見えたが、今ではとてもリラックスしているようだった。
「そうじゃないの?あ、ほらこれも星」
コーヒーのソーサーには小さな星形のクッキーが添えられていて、かわいいと無邪気に笑った敦子の手元の紙ナプキンの上に置いてやる。
「はいどうぞ」
「いいの?」
「もちろん」
ありがとう、そう言って笑った敦子こそ、どんな星形の何かよりもよっぽどかわいかった。
まるで本当のカップルみたいだ。そう思った途端に身体が熱くなった気がして、益田は急いでコーヒーを啜った。
ことの発端は友人の青木だったのだと思う。親友が片思いをしている女の子、それが敦子だ。
敦子は同じ高校に通う後輩で、共通の知人友人がいた縁で顔を合わせば話をする関係だ。可愛らしい顔立ちに好奇心に満ちた人懐こさで、敦子は男女学年関係なく人気があった。益田にとっては、親しく話はするもののどこかアイドルのような遠い存在だったし、さらに友人の想い人であれば尚更、敦子と親密な関係になりたいとは思えなかった。一瞬の妄想くらいはしたかもしれないが、望んでいたわけではない。それなのに――現実とは時に、ドラマチックを飛び越えファンタジックだと益田は思った。
青木の誘いを、敦子は断ったのだという。
益田は青木の憂いをちょっとでも晴らしてやれたら、そう思って敦子に声をかけた。本当に、それだけだった。
「ごめんなさい、クリスマスは家で過ごす予定なんです」そう青木に言った敦子の真意を知りたかった。善意と言うには気が引けるが、決して興味だけだったわけではない。益田自身は、敦子が青木の誘いを断る筈がないと思っていたのだ。それくらい、益田の目から二人は親しくしていたのに。
「あ、どーもー敦子さん」
クリスマス一週間前の放課後、一年生の教室がある一階の階段下で、
「え?あ、益田さん、こんにちは」
少しの世間話の後、益田は我ながら呆れ関心するほど滑らかに、敦子にクリスマスの予定について切り出したのだ。
「それで敦子さん、クリスマスは誰とデートのご予定なんです?」
そういったプライベートに関する質問はお調子者のノリで聴くに限る。益田の狙い通り、敦子はカラカラと笑いながらそんな予定はありませんと言った。
「家で過ごすだけです。兄貴も呼ぼうと思って」
なるほど青木に言ったことは嘘ではないらしかった。青木に報告するべきほどではないが、実際少しほっとした。
敦子との会話は、そのまま和やかに挨拶をして終わるはずだった。
「でも、いいですね、クリスマスに好きな人とデートなんて。私なんて昼間はガラ空きなのに、どうせだらだら過ごすんですよ。益田さんこそ彼女とデートですか?」
益田は、冬の校舎の気温とは無関係に凍り付いた。だって、
そう聞かれてしまったら、益田の売りは芸人ノリな訳で、古い言葉で言えばタイコモチで、
「いやあ今年は」
益田には何も予定がなかったのだ。なければないでクラスメートと集まるか、先輩が主催するパーティでも潜り込もうと思っていた。
「何も予定がないんですよ」
言い切ってしまって、益田は少しの後悔をしてから、やけになった。腹を決めたと言ってもいい。
――笑われちゃえばいいか。
――だって、この流れで言わなかったら、女の子に対して失礼でしょ。
「それ・・・なら、敦子さん、僕とデートしちゃいません?この益田龍一、全身全霊でおもてなししますよ」
黒糖キャンディのような大きな丸い目が一瞬大きく開いて益田を見つめると、敦子はおかしそうに笑った。あはは、と少女らしい軽やかな笑い声が冷えて澄んだ校舎の空気を揺らす。笑われるのは望み通りだったくせに、ずきんと心の奥底が痛んだ気がした。同時に、安心した自分もいた。
笑い声の余韻も倍音も消え去った頃、敦子は言った。
「では、お願いしてもいいですか?」
敦子の発言の意図を、益田はすぐにはわからなかった。
そうして今現在、益田と敦子はクリスマスの午後を巷のカップルのようにデートしている。
敦子の要望は、クリスマスの町並みを我が物顔で闊歩したい、ということだった。それはつまりきっと、クリスマスの街をデートしたい、だけだ。益田はそう解釈している。そうでなければ、敦子が自分とデートをする現状の説明がつかないのだ。決して、自分に都合のよい風に受け止めてはならないと気を引き締める。
ただし益田だって忘れているわけではない。
敦子は、青木の誘いを断っている。
何故、青木は断られたのか。何故、自分の社交辞令的な誘いに乗ってくれたのか。
もちろん益田自身は嫌ではない。益田だって敦子を好ましく思っているのは間違いないのだ。ただ、クリスマスをこうして二人で過ごせるなんて、思ってもみなかった。本当は今は二十六日の深夜で、これはすべて夢で、目が覚めたらすべてがなかったことになっているのかもしれない。そうして、青木や鳥口や榎木津辺りにこんな都合のよい夢を見たと、泣き顔を作ったり笑ってもらったりしたのかもしれない。そっちの方が余程現実味がある気がした。
それなのに。
レストランの会計を終え(奢るつもりでいたが敦子の固辞によって割り勘になった)、二人はまさにクリスマスの街を闊歩している。
街灯もデパートのショウウィンドウも、街の全てがクリスマスを主張していた。金や銀の星飾り、クリスマスツリーの緑、天使達、サンタクロースの赤、それらが灰色の街を彩っている。その下を行くのは、思い思いに繋がり合うカップル達だ。
デートのプランはフレキシブルなほうがいい。
敦子は夜から予定があったし、解散の時間は決めていなかったから、プランは詰め込まずに敦子の要望を聞きながら決めるつもりだった。敦子がどんなデートを望んでいるのかよくわからなかったし、確かめる勇気もなかったから、無難なものはいくつか候補にあげていた。 流行の映画なら駅周辺に映画館は多いから、予約券がなくてもなんとかなるだろうと思ったし、美術展や写真展は幾つかチェックしている。天気がよければウィンドウショッピングでもいいと思っていた。
そんな風にいろいろと悩んでいたのに、益田は端的に言えば、拍子抜けしている。
「わあ大きなクリスマスツリーですねえ。どうやって飾りづけしてるんでしょう?」
「あ、このお店知ってる。え、いえいえ無理です。こんな小娘が入れるお店じゃないんですから!」
「あ!サンタさんがいますよ!小さい子にお菓子配ってる」
敦子はそれこそツリーの飾りのような丸い目をきらきらとさせて街を眺め、感想を口にして、また数歩も歩かない内に次の感想を口にしては笑った。始終楽しそうなのだ。
箸が転がるだけでおかしいお年頃、とはまさに敦子くらいの少女のことだが、益田は、敦子にはないところだと思っていた。
あんまり楽しそうで、行き先を決める暇がないくらい。
益田自身、行き先を決めることなど、とっくに忘れている。それくらい、楽しいのだ。
「そういえば」
「え?」
一瞬だけ感慨に耽っていた益田は、敦子の声で我に返った。横目に敦子を見て、また目を奪われる。今日の敦子は当然ながら制服姿ではなく、赤のAラインのコートにベージュのファーのマフラー、足元は丸い爪先の茶のブーツで、益田は待ち合わせ場所で対面した瞬間に心底感動した。思わずサンタさんだと呟いてしまって、敦子は口をへの字にしながら右眉をくいっと上に持ち上げた。恋人のいない高校生(童貞)へ、最高にかわいいサンタさんが自らをプレゼントにして現れたと思った。どん引きされるに決まっているから言わないが。
他人からすれば、この敦子と自分がカップルに見えるのだと今更ながら感動する。
益田は密かに抱き続ける感動を悟られないように、敦子には真剣な顔をして見せた。
「うちの兄貴、祖父から神社を継いでるんです。だから、クリスマスは祝わないって結構頭でっかちなところがあって」
「ああ、中禅寺さんらしいなあ。あれ、でも今夜は」
「そう、今回は気が向いたみたいです」
千鶴子姉さんのお陰で。
その一言で、益田はぴんときた。敦子の実兄である中禅寺と敦子が同居し姉のように慕っている千鶴子はどうも微妙な関係なのだ。恋人のような、友人のような、まるで夫婦のような所帯じみたところもある。
私思うんですけどね、
益田が敦子の家族に思いを馳せる横で敦子が言った。
「クリスマスは、まあイエス・キリストの誕生日なわけですけど、日本じゃそんなの通用しないんです。実際的に」
敦子は偶に、血筋であるのか大人も驚くような弁舌を披露する。益田は特に頻繁に敦子と会話をする仲ではなかったが、幾度か聞いたことがあった。
「うん、それで?」
敦子の話はわかりやすく、素直に敬服するし、そしてそんな話をする凛とした声が、益田は好きだった。かっこいい。
「外食業も、デパートも遊園地も、あまねくクリスマス商戦が煽るのは敬虔なクリスチャン達ではないんですよ」
うんうんと益田は頷く。話は見えているのだが、敦子にもっと喋らせたいから口は挟まない。
「日本のクリスマスって、恋人達のものだと思いませんか?」
問いかけに、ふむと益田も考え込んだ。
無数のイルミネーションに飾られた夜景は、誰のためにあるのだろう。既に考えたことはあった。本当は神様の誕生日であって、彼女が彼氏におねだりをする日ではないし、夜中空きのあるホテルを探し歩く日でもなかったはずだ。(益田にその経験はないのだけれど)
でも実際は、こうなのだ。
益田は目線だけで、周りを見渡す。思い思いに、つながるカップル達のパレード。
「なるほどね」
クリスマスは、彼らのものだ。
そう割り切った敦子の考え方が、無理に聖夜を語るよりも、益田はずっと好きだと思った。そうしてここで、やっと頭の中で宙ぶらりんになっていた回路が繋がる。同時にするりと、心が静まる。
「ああだからか、敦子さん」
「え?」
敦子に気を使わせないように、柔らかく笑ってみせる。
「いやあ、誘っておいてなんなんですが、ずぅっと不思議で。どうして僕に誘われてくれたのかなぁ、と」
「あ」
カップルを気取って恋人達の祭りの主役になりたい、そういうことなのだろう。
何せ敦子は好奇心が旺盛で、友人からの話に寄れば女性としては相当の実践主義者だ。それなら、誰かというよりは適当な男でよかったはずだ。勝手がわかって、話好きで、適度に気が利く、そう自分のような男なら適役だろう。
なぜ青木が断られたのか。その疑問は残るのだが、一瞬だけ考えて、青木の気持ちは重かったのかもしれないなと推量をつけた。
これで、ずっと抱えていた歯がゆさに蹴りをつけられる。酷く、心はまっ平らに凪いだ。同時に、自らの言動を戒める足枷を、自らで重くした。
いけない。禁則事項だ。駄目だ。恋をしてはいけない。
――だってこの子は、青木くんの好きな女の子。
「今日この日にデートがしたかった、わけですね」
益田は言ってから、ふふっと笑った。
自虐ではなく、可笑しかったわけでもなく、ただ少しだけ胸の痞えがとれたことに安堵しての笑いだった。
「まあ、そうなんですけど」
不自然に黙った敦子に、益田は視線をずらした。
少し上から見える敦子の睫は驚くほど長く、触れてみたくなるほどだ。
閉ざされた、小さな果物のような唇がぷかりとふるえ、黒く艶めく睫が揺れた。
「だって。誘ってくれたから」
その時益田の横にいたのは、益田の知らない敦子だった。年相応の戸惑いに言葉を詰まらせ、会話の相手から逃れるように瞳を伏せた、益田とそう歳の変わらない女の子である敦子だった。
距離感なんてものはなく、実質的な距離が数センチあるだけだった。幻影としてのアイドルのような存在でもない、誰にでも愛されている高値の花とかではない、手を伸ばせば髪を撫でることができるだろうし、その長い睫に触れることもできるだろう。そういう敦子を、益田は今初めて見ていた。
――こんなに可愛い子、見たことない。
「・・・青木くんも、誘ったじゃない」
このタイミングはずるい、益田はそう思っていたが、言わずにはいられなかった。
温度は低いのに脳を焼くような感情の渦が、体を支配しつつある。
「・・・やっぱり、知ってましたか」
「まあ、友達だから」
「ですよね」
いつも益田はそうなのだ。
低温の、低空飛行の、速度だって超鈍足の、流されたり巻かれたりすることにばかり長けている感情なのに、気付いた時には激情になっていたりする。自ら流れていたくせに、ぬるま湯が好きなのに。
「青木くんは断って、僕の誘いをオーケーするなんて、思わなかった」
「駄目もとでしたか」
「いや。・・・駄目が前提、でした」
失礼なことを言っているという自覚はある。それでも、恋人達のパレードに流されたせいだろうか、益田を煽る激情にはまだ頑丈な足枷がはまっていて、建前や嘘を口にするのを恥じている。
聡明な彼女は、益田の一言ですべてを察したらしかった。
「・・・なぁんだ」
ぽつりと、敦子が言った。つまらない、とも。
益田の足枷が、強く軋んだ。
かあっと頬と脳天に熱が駆けあがる。
友情や義理、なけなしの正義で作ったお手製の足枷が、ぶっ壊れてしまう。
シリアスなくせに曖昧なやり取りの後も敦子は機嫌よくしていて、デパートのウィンドウショッピングをし、海外発のファストファッションを見て歩いたりしていれば、時計はくるくると回った。
益田は全力でさり気なさを装い、店を出る時に敦子が真剣に眺めていた安いヘアアクセサリーを渡してやった。敦子はいつもの溌剌とした笑顔ではなく、少し困ったような顔で益田を見上げてから、小さく礼を呟いた。
「嬉しい」
その声は、まるで心の底から零れたようにか細く響いて、その瞬間に、益田の頬の熱を上昇させた。
辺りの暗さに腕時計を見ればすっかり夕暮れで、寒さは刻々と増している。それなのに、横にいる敦子を見れば、そして今日の敦子の表情や言葉や仕草を思い返せば、汗が出るほど熱くなる。
――勘弁してよ。
そう思いながら、益田は駅前のコーヒーチェーンを指差した。そこで手に入るのは、時間稼ぎの悪あがきにうってつけのアイテムだ。温かいカフェラテのMサイズは、席に着く時間はなくても改札前で立ち話をする時間くらいは与えてくれる。
混雑から離れた切符売り場の横で、遠くなったクリスマスの街を二人して振り返る。日が落ちたクリスマスは、昼間よりも強く光り輝いて、瞳に眩しいほどだ。先まで町中で流れていたクリスマスソングも今は聴こえないはずが、体に染み込んででもいるのか油断すると口から出そうになる。
「明日になったら全て撤収されるなんて、信じられないですね」
敦子のコメントは実際的で、言ってしまえばロマンがない。だから、益田は言えてしまう。
「聖夜の魔法なんですよ」
ふざけたつもりだったけれど、あながち間違いでもない気がした。敦子との時間も、クリスマスの街にかかっている魔法と同じ種類の、明日になれば跡形もなく消え去る魔法なのだと言われた方が、余程納得できる。
「益田さんはロマンチストなんですね」
「はは、まあ、今の台詞は気障です」
日頃から益田はロマンチックなシチュエーションや格好良い台詞のストックを作り続けているから、気障なことは言おうと思えばきっといくらでも出てくる。しかし、今台詞などはどうでもよかった。
どうやって伝えるか。何を伝えるか。何と伝えるか。
どうしたら、今この時のこの感情を、正確にそしてお互いの利害に一致するように、伝えることができるだろう。
ぽかぽかと発熱する砂糖を多めに入れたカフェラテを一口含んで、柄にもなく引き結んでいた上下の唇を解いた。
――何つったら、いいんでしょうかね、こういうのは。
己の感情の正体も、明確ではない。それだと言い切ってしまうには、まだ早いと思うのだ。青木に対しても申し訳なく思うし、下手をしたら大事な友情の危機である。
敦子はぼんやりと街の方を眺めていた。駅の蛍光灯に照らされた頬と、指先が赤い。
「寒い中随分歩かせちゃいましたね。風邪引かないでくださいね」
「ああ、平気ですよこれくらいは。それに、益田さんのお陰で満喫しましたよ、クリスマス」
そう言って、敦子はにっこりと笑った。
それは、今日のデートがもう数分で終わってしまうことを告げる締めくくりに相応しい笑顔で、文句のつけようもなく可愛らしかったはずなのに、益田は嬉しくはならなかった。全然足りない、そう言ってほしかったのだと気付く。
もう少し、敦子と一緒にいたかった。
もう一回、クリスマスをやり直してみたかった。いくつかあったデート案の別ルートを行くのだ。
もう一度、
あと何度かは。
「それじゃあ、次は初詣かなあ」
「あ、え」
お調子者のノリで、若手お笑い芸人のように、軽く軽く、振り払えば手が触れる前にさっと引く程度の誘いの手だ。本気の本心だからこそ、こうなる。
大きな瞳を丸く開いて動かない敦子に、へらへらと笑いかける。
どうか警戒しないで。下心なんて、あるようでいてそんなにない。ないと言ったら大嘘だけれど。
「年末年始、バレンタインにホワイトデイもありますよ。何もクリスマスばかりが恋人達の祭典ではないです」
「はあ」
敦子は未だに見慣れぬ生き物を見つけた小鹿のようにじいっと益田を見つめている。
呆れているのだろうか、驚いているのだろうか、後ろ向きな想像ばかりができたが、違うのかもしれない。カフェラテを握る両手に落ち着きがないのは、何故だろう。まるで照れているように。
そんな思い上がりが、後ろ向きで卑屈な男に、小さな小さな決意をさせる。
この気持ちを何と伝えるか。
「次も、デートをするのは、僕とにしませんか?」
「え、っと」
敦子は紙のカップを握る指に力を込めて、視線を下げた。
「次って、いつなんでしょう」
ご尤もの質問だ。
「初詣でもいいですし。何でもいいです」
そう言えば、伏せられた瞳がゆっくりと益田の瞳をとらえた。
「何かその、言い方に含みがあるように思ったんですけど。デートをする相手が益田さんだと言うのなら、それ以外のことには別の人がいるということなのでしょうか?」
的確過ぎる指摘に焦りを通り越して感心した。さて何と答えようかと、益田は何故か少し楽しい気分で考えている。
「・・・いないに越したこたぁないんですが。まあ順々に」
思うところを誤魔化すために、益田はへらりと笑って見せた。
ずるいとは思う。けれど、では敦子と今すぐ恋人になりたいか、青木を差し置いて告白をしたいのか、というと、答えはイエスとはいかないのだ。ノーというわけでもない。ただ、他の男とデートをするのを指をくわえて見ているだけではどうにもすまない。
敦子は兄貴とそっくりの右眉だけ上げた仏頂面をすると、すっと益田の脇をすり抜けた。
「え、ちょ」
怒らせたのだろうか。不安になって後を追うが、敦子の足取りはゆっくりで、益田を置いていくつもりはなかったらしい。改札に向けて数歩歩いた所でぴたりと止まり、ちらりと振り向いた。短い髪からちらりと覗く耳が赤い。
「どうせ社交辞令でしょ?」
拗ねたような言葉に、耳を疑う。ぶるぶると首を横に振ると、敦子はまた正面を向いて、すたすたと歩き始めた。
敦子と益田は別方向の電車に乗るので、改札に入られたらもう言葉を交わすことは難しい。しかも、時悪しく乗り換えの客が押し寄せてくる。二人で立ち話をするには厳しい立ち居地だった。
益田は自分の根性のなさに情けなさを感じながら、呆然と敦子の背を追う。
「あ、敦子さん!?」
我ながら哀れっぽい大声で、呼び止める。
再び振り返った敦子は、不機嫌そうに唇にきゅっと力を入れていた。
「いろいろとまどろっこしいんですよ」
「・・・すみません」
その通り過ぎて弁解が浮かばず、ただ首をがくりと垂れた。
「ご存知と思いますが、私、引く手数多なんです。だから、
早めに連絡くださいね」
敦子はそれから早口で今日の礼を述べると、改札に滑り込んだ。益田を一度も振り返らずに早足でホームへの階段を上っていく。
赤いコートが見えなくなった頃、改札に入る人と肩がぶつかり、慌てて端へ寄った。
――こりゃぁどうしたもんでしょうか。
壁に寄りかかって、項垂れる。カフェラテを飲んで落ち着こうと思ったが、喉を通りそうになくてやめた。
まずは、帰路で頭を冷やす。そうして、今後のことを考える。青木や中禅寺や榎木津など、敦子を大事に思う人間は多く、そして曲者ぞろいだ。
自分のように適当なことを言ったりやったりしてきた男が、敦子を本気で落とそうとしているなど、どうやったらわかってもらえるのだろうか。
――それからじっくりと、いいや迅速に、
デートの日取りと、プランを練ろう。
(終)
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