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京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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行葉(yukiha)
性別:
女性
自己紹介:
はじめまして。よろしくどうぞ。

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谷崎、漱石、榎木津探偵とその助手、るろ剣、onepiece、POMERA、ラーメンズ、江戸サブカル、宗教学、日本酒、馬、猫、ペンギン、エレクトロニカぽいの、スピッツ。aph。
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『薔薇十字探偵助手の僥倖』 (2)

 


 春だ。
 そう思ったのは、ライターとの打ち合わせを午前中にひとつ終えて、駅から社へ戻る道でだった。
 春の空の青は、あまりに鮮やかなことがあるものだ。
 神田の枯れた色合いに、空の青ばかりが映えた。
 春だ。
 三月も末である。電車の窓からは、川沿いを縁取るように植えられた桜が、白に一滴の紅を落としたような霞を立たせていた。まだ満開には遠いが、薄紅色を咲き誇らせるのもすぐだろう。
 頭上の青空や電車から見えた景色を思い出すと、やはり「少し残念」だった。
 敦子は今日、知人から恒例の花見に誘われていたのである。電話があったのは一週間ほど前で、電話の主は敦子の兄だった。
 ――アレがまた花見をすると言っているが、お前来れるかい?
 アレ、というのは兄の古い友人で敦子にとっても旧知の人物だ。
 彼は神田の神保町で探偵事務所を構えていて、探偵という職業選択が瑣末に思えるくらいにありとあらゆる部分が珍妙にできている人物だった。加えて騒がしいことが大好きなたちで、気が向くとこうしてイベントを催す。花見は毎年恒例というわけでもないが、昨年も声をかけられ、探偵の無茶苦茶な要望に振り回される部下や友人達(探偵は総じて下僕と言うが)に同情したり可笑しがったりして、楽しい時間を過ごした。だから、今年も参加したいとは思った。思ったのだが。
 校了前なのだ。
 今現在、敦子はものっ凄く忙しかった。
 青い空や咲き始めの桜など、のんびり眺められる状況ではなかった。ライターから受け取った原稿を見てその場で修正を依頼し、昼食も摂らずに社に戻るつもりでいた。こうしている間も、敦子は大きくはない歩幅を広げ、早足で歩き続けている。社に戻ったら、原稿を読み直して、写真をそろえて、構成を見て。頭の中は午後の予定を整理することでいっぱいなのだが。
 考えているのは頭の中であって、目も耳も閉じていられない。春の、清々しい、温かな情報は否応なく五感から入り込んでくる。
 春なのだ。
 満開とは言えぬまでも桜は咲いていて、春の強く吹く風は気まぐれに髪を揺らす。知人達は今夜花見をして大騒ぎをすると言う。
 ふと、忙しない自分が、ひとりぼっちのような気がした。

 寄り道の理由とは、そんなものである。
 考えてみればその公園は帰社の道程とさほど離れていないし、一時間に満たないくらいの時間をロスしたところで、校了までの忙しなさは変わらない。ならば、気分転換をしたほうが仕事の効率も上がるというものだ。
 そこまで考えて、軽くため息をつく。寄り道ひとつにいちいち理由を求めている自分が、少し恰好悪い。こんなことで気が沈んでいるのも、やはりまた情けない。こうもうじうじとしているのは、疲れがたまっているからだろうとは思う。自覚をしたって、どうにもならぬこともある。
 大きな通りから脇へ入ってしばらく歩けば、敷地を囲うように並ぶ桜の古木が見えた。兄から聞かされた花見会場は、昨年と同じ公園であった。決して広くはない、子供の遊具がぽつぽつと並ぶばかりの簡素な公園である。
 入り口の正面に立つと、全体が見渡せた。だから、一歩踏み入れるまでもなく、視界は「それ」を捉えていた。
 公園の一番奥に当たる場所に生える、一際大きく枝を広げた桜の下に、見覚えのある大きな茣蓙が敷かれている。(これは兄が準備したものに違いない)茣蓙の脇の方には、畳まれた堤燈もある。(これは開くと白い五芒星が出る筈だ)そして、広い茣蓙の奥、桜の枝が屋根を作るその真下に。
 影のような男が伸びていた。
 黒の薄手の外套を上半身にかけ、そこから黒いスラックスの脚が生えている。履きこまれていそうな革靴は、足に履いたままだった。顔があると思われる位置には、濃い青のチェックのハンカチがかけられていた。
黒い影が固まっているか、もしくは遺体のように見えるのだが、腹の辺りにだらりと置かれた手だけは生気を持った肌色だった。
 益田だ。すぐにわかった。
 わかったが、そうだと確定できる証拠までは見えず、敦子は観察を続けながらどんどん近寄った。茣蓙の縁まで近寄って、腰を屈めて改めて観察する。
 痩せた長い指先に、額から流れる長い前髪。そして、青いハンカチの柄にははっきりと見覚えがあった。
「益田さん」
 それは呼ぶというより、呟きだった。
 事情はすぐに察した。例の探偵――彼の上司である――に命じられて、今夜の花見の場所取りをしているのだろう。自分達以外誰もいない公園内を見渡す限り、何時間も前から場所取りをする必要など到底なさそうなのだが。
 耳を澄ましてみると、すうすうと和やかな寝息が聞こえる。それから、ぐうとなんとも情けない風情の鼾も混じった。
 間の抜けた状況のせいなのか、知人との妙な遭遇への驚きはすぐに過ぎ去って、代わりにむくむくと悪戯心が起きた。敦子はそっと手をのばし、益田の顔にかかるハンカチの端を注意深くつまみ上げる。
 自分がどうしてそんなことをしたのか、敦子にはよくわかっていない。わかろうともしていない。本当の悪戯には意味を付加する必要がないし、本当の悪戯をする者はそんなことを考えもしない。
 ハンカチをすべて取り上げた時、敦子の思考はほんの一瞬だけ停止した。一体、自分が驚いたのか、戸惑ったのか、わからなかった。 
 益田の、日頃顔に影を差す前髪は、仰向けの額からすべて零れ落ちていた。髪の一筋にも守られない寝顔はあまりに無防備だ。光を遮るものが外されて眩しいのか、細い眉と軽く合わされた瞼にきゅっと力が入る。しかし、睡魔が勝ったのだろう、すぐにまた弛緩して、うっすらと開いた口から同じテンポの寝息が漏れた。
 ほとんど呆然と、敦子は益田の寝顔を見詰めた。
 ――直線的な顔立ちだ。
 閉ざされた目の切れ込みや、鼻筋や顎のライン、眉の形も、基本は直線だった。刑事時代はもう少し短かくしていた気がする髪も、重力に逆らうことなくすとんと流れる。それは繊細な造作とも言えるかもしれないし、似顔絵にしやすい単純な作りとも思えた。
 あまりに無防備なのが、哀れだった。無遠慮に見詰めるのが申し訳ないような後ろめたさが、心にゆっくりと浮かび上がってくる。
 考えてみれば、敦子は男の寝顔をまじまじと見た経験などなかった。一緒に暮らしたことのある家族は人前で昼寝をすることはなかったし、家族でない男と寝所を共にした経験は、敦子にはない。兄の家で奇特な探偵が転がって寝ていることはある。しかしそれは昔から目にし続けている当たり前の風景であって、好奇心や、驚きや戸惑いなど生むものではなかった。
 初めて見る男の寝顔は、「そのまま」だった。敦子がよく知る益田という男が寝ていたら、こんな顔をして寝るだろうという想像をまったく越えるところのない寝顔である。ただ、日頃わざとらしく顔に張り付けた泣き真似や、薄っぺらな笑い顔の乗らないその顔は、目の前にいる敦子に対して何も取り繕っていないことだけ確かだった。
 人の寝顔とはこんなにも、非常に素直で、嘘がなく、疑いを完全に忘却させるもの、なのか。

 自分の髪が風に吹かれて、顔に降りかかるのを指で払い耳にかけた。
 いつの間にか、敦子は益田の顔の脇で横座りになり、身を乗り出して観察している。左手には、益田が顔に乗せていた青のハンカチがはためいていた。
 そっと、手を伸ばす。
 あまり良いと言えない顔色をした、薄い頬に。
 何だか気になった。
 この人の顔は、冷たいのか温かいのか。頬は、例えば自分のように、柔らかいのか。(そうは見えないけれど)
 一陣の温かな風が吹いた。
 さらさらと揺れる髪の感触はどうだろう。
 敦子の中指が、益田の髪に触れようとしたその瞬間。
 はためいたハンカチが先に、益田の顔を撫でた。慌ててハンカチから手を離すと、青の布切れは柔らかに益田の肩に落ちた。
 同じリズムを刻んだ寝息が乱れ、途切れる。
 触れるために伸ばした手は、目的を達しないまま引っ込めた。
 覚醒のために瞼が痙攣した瞬間に、もうそれは寝顔ではなくなってしまった。敦子は何か失くし物をした時と似た気分になりながら、益田の瞳がころころと揺れ、やがて敦子に焦点を合わせるのを見守った。 
「起きちゃいましたね」
 そう口にしてから、ここは起こしちゃいましたねと言うべきだったと気付いた。
「え、あ、」
 益田の口から無意味な声が漏れた。見る見るうちに、細い目がいっぱいに開かれる。
「おはようございます」
「敦っ、敦、敦子さん!?」
 益田は敦子の名をようやくのことで口にしながら、まさに文字通りに跳ね起きた。体にかけていた上着がばさっと落ち、同時にハンカチもひらりと舞って、益田は上着より先にそちらを目で追っていた。
「・・・こんにちは益田さん。場所取りですか?」
 できるだけ何でもないことのように尋ねた。益田もそれに習ったものか、一度唾を飲み込むと、上着とハンカチを抱え込み胡座をかいて、少しばかり落ち着いた顔つきになった。
「え、ええこの通り」
 寝起きのせいなのか、それとも日頃の不摂生のせいだろうか。益田は幾分か顔色がよくないように思えた。白の開襟シャツと英国風の柄の入ったカーディガンという服装は、春らしくはあるが少しだけ寒そうだ。
「な、何で、ここに敦子さんが」
「帰社のついでの…散歩です」
 平気な顔で笑って見せた。実は少しだけ照れくさい。悪戯を完遂する前に見つけられた子供は、こんな気分になるのかもしれない。
「はあそうですか」
 そんな説明で納得できるものなのか、益田はかくんと頷いて(脱力しただけかもしれない)垂れ下がった前髪をかきあげて敦子を見た。それから、そうすることを今やっと思い出したように、軽薄にケラケラと笑った。
「いや何だか、お恥ずかしいとこ見せちまいましたね。やだなあ起こしてくれたらいいのに。敦子さんとはあれ以来ですか?あの雨宿りした日」
 どの日のことを言っているのか、すぐに検討がついた。益田と前回会ったのは、取材先で雨に降られた日だった。雨宿りをしようと入った商店の屋根の下、一人いた同じ境遇の先客が益田だったのだ。
「あそこの珈琲、なかなか旨かったですよね」
 雨宿りの際、益田は見事な、あるいは半ば強引な手口で、敦子を喫茶店に誘ったのだった。確かに、冷えきった身体に熱い珈琲はありがたかったし、店の雰囲気も悪くなかったのだが。
 互いの髪や足下が濡れているのが妙に気恥ずかしく、同時にそれまで益田に対して持ち得なかった、例えば連帯感や、場を共有しているような感覚――どう表現するべきなのか、未だよくわからない――をあの店内で抱えることになった。
「まあ喫茶店の珈琲のようにはいかないですが」
 益田はそう言うと、茣蓙の片隅に放置されていた大きな風呂敷包みを引き寄せた。包みを解くと、金属性の水筒と、竹の葉の包みがたくさん、それとアルミの弁当箱が見えた。
「真っ昼間っから意味不明の場所取りを命じられた下僕に、和寅さんから武士の情けです」
 細い眉を八の字にして情けない顔をしながら、水筒から温かそうな液体をカップに注いで、敦子に差し出した。深い茶色をした、香ばしい液体である。
 礼を言って一口飲むと、確かに薔薇十字社で飲んだことがある珈琲の味がした。熱々とまではいかないが、何も口にしていなかった身体に滲みた。
「おいしい」
 素直に口にすると、益田は風呂敷の中身をごそごそとやりながら、そうでしょうそうでしょうと何故か得意気だった。
「まだまだあります」
 まだまだ?
「敦子さんお昼は召し上がってます?」
「え?いいえ」
「ああそうなんですか?弁当とかお持ちで?」
「持ってない、です」
 益田は今度は顔を上げ、敦子にへらりと笑った。
「じゃあ丁度いいすね」
 そう言うと、茣蓙に出した竹の包みや弁当箱を開けだした。そこからはつやつやとした大きなおにぎり、出汁巻き卵や野菜の煮物など彩りのよいおかずが現れ、たくさんあった竹の包みの一つを開けば――。
「わあ、桜餅」
「そう、桜餅」
 竹の葉の中には、餅米の粒も艶やかな淡い桜色の餅を深緑の桜の葉がくるりと包んだ、小振りの桜餅が行儀よく並んでいた。
「今日の花見の口直しです。駅前に旨い甘味屋がありましてね、榎木津さんがここの桜餅じゃなきゃ嫌だって我侭言って。すんごい人気で早い時間に行かないと売切れちゃうってんで、昼前に追い出されてこれ買って、そのままここで場所取りです」
 上司の愚痴を言いたいのか、滑稽譚として笑わせたいのかわからぬ口振りだったので、敦子は仕方なくご苦労様ですとだけ言った。 
「道明寺、なんですね」
 小さな桜餅が、何とも懐かしいものに思えた。
「へ? どこの寺です?」
「いえ、お寺の名前ではなくて。この桜餅、餅米の質感が残っているでしょう?こういうのは関西風で、道明寺と呼ぶんです。関東のものは小麦粉が入った薄い皮ですよね」
「ははあ、そう言えばつるっとした桜餅の方が馴染みがある気がするなぁ。よっくご存知ですねえ。やっぱり女性は甘味に詳しいものなんすね」
「と言うより、私幼い頃、京都の菓子匠に預けられて育ったものですから、和菓子はよく食べさせてもらっていたんです」
「はいはい、兄上の奥様のご実家でしたね」
「あら、知っていましたか」
「はあ。誰かっから聞いたなあ。関口さんか、鳥口君か青木さんか」
 ふいに耳にした青木の名に、敦子は唐突な心の揺れを自覚した。しかしそれも、一度瞬きをすればやり過ごせるような些細な「揺らぎ」に過ぎなかった。もう長いことこんなことはなかったのだが――。
「ささ、敦子さん」
 呼びかけに、我に返った。
「おやつは後。まずは飯です。和寅さん手づからのものでよければ召し上がってください。朝もちゃんと食ってないんじゃないですか?なんか顔色よくないですよ」
 じっと見詰められて、どきりとした。
「締め切り前とか?」
「ええ、その通りです」
 何故か気まずくなり、敦子は意味もなく自分の髪を撫でた。
 益田は、どうせ寝不足しているんでしょういけないなぁ、とまるで世話焼きの近所のおばさんのような口振りでぶつぶつと言いながら、おにぎりの包みを差し出した。
「はい、食ってください」
「でも、これ益田さんのお昼ご飯ですよね?」
「まあそうですが、今日の僕の仕事なんてご覧の通り花見の場所取りですから。ちょっと書類書いたら後は寝るばかりです。腹もすきません。敦子さんはそうもいかんでしょ」
 敦子はそれまで昼食のことをほとんど忘れていたが、やはり目の前に出されると直接五感が刺激されるものらしく、久々に空腹を感じた。素直におにぎりを受け取ると、益田は風呂敷から取り皿と箸を取り出して、まめまめしい仕草で弁当箱からおかずをいくつか取り、敦子に渡した。準備もよければ手際もよく、さらには皿の上の彩りまでいい。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 益田は満足そうににっこりと笑った。そうして、珈琲を飲むばかりで、食事に手をつける様子がない。
「益田さんこそ、食べないんですか?」
「ああ、僕のことは気にせず」
 ――人のことは言うくせに。
 あの雨の日の喫茶店内で得た感覚が、ふっと蘇った。
 他人のことには敏感で、自分のことには、たぶんやや鈍感だ。人のことは言えない。敦子もそうなのだ。
「顔色悪いです」
「え、そうですか?」
 益田は本当に吃驚した顔で聞き返した。
「食べてください」
 わざと毅然とした口調で言えば、益田は抵抗する理由もなかったのだろう、畏まってはいと答えておにぎりに手を伸ばした。

「昨日まで、立て込んでましてね」
 食べる合間で語る益田の声は、素直に疲れを滲ませていた。
「飯食べ忘れたり、夜中の張り込みとかしていたんで…そういやあんまり健康的な生活送ってなかったなあ」
 もそもそと喋りながら、旨いすねえこれ、とおかずを摘む。
「ちゃんと休まないと、身体壊しちゃいますよ」
 この台詞も、人のことは言えないのは承知の上だった。和寅が作った煮物を摘むと、確かによく味が染みていて美味しい。ふいに、最近自炊をしていないことに気付いた。
「お互いにね」
 そう言った益田は、敦子の表情から何か察したのか、ふざけてはいなかった。
 何だろうか。本の少しだけ胸が温かい気がするのは、仄かな温みのある珈琲のせいなのか。
「・・・いいもんですねぇ」
「え?」
 おにぎりを食べ終えた指先を舐めながら、益田は俯きがちに言った。
「ちゃんと休めとか、ちゃんと食べろとか、言ってもらえるのっていいですね」
 益田はそう言って、少し照れ臭そうに、そしてそれを誤魔化すように姿勢を正した。
 その気持ちは、敦子も独身だからよくわかる。よくわかるのだが、この、胸の温かさの説明にはならない気がして、戸惑った。
「青木さんや鳥口君には黙ってよう」
 いや、それより自慢しようかなあ。そう言ってケラケラと笑った顔は、いつものお調子者だった。
 
 二人で弁当を綺麗に食べ終え、桜餅を差し出されて初めて、敦子は自分があまり桜を見ていなかったことに気付いた。(益田の寝顔を眺めていた自分が盛大に間違っていたというのも初めて自覚した。)
 頭上を覆うように伸びる枝を見上げれば、確かに花は咲いているのだが――。
「まだ…せいぜい五分咲き、ですよね」 
「そうですねえ。満開にゃあ見えません」
 過去に開催された花見の時期と比べて、今年は随分と時期が早い。主催者である男を思い出せば、咲き始めや散り際ではなく、まさに満開の桜を好みそうなものだと思うのだが。
「榎木津さん、満開まで待てなかったんでしょうか?」
 益田は桜餅を摘みながら、無感動に首だけ傾げた。
「まあそうなんじゃないですか。我慢きかないですからあの人。あーでも、開催日決める時――」
 そこで益田は言葉を切り、頭上を見上げた。釣られるように、敦子もまた桜を見た。
 まだ白味の強い花、染料で染めたような青空、黒く走る細い枝の筋、春風はさあさあと吹いて、花や枝や雲を揺らす。
 ぼそりと声がしたのを、敦子はすぐに聞き取れなかった。幾度か頭の中で再生して、ああ呼びたかったのか、そう言ったのを知った。
 意味がわからず呟いた当人を見詰めれば、益田は一瞬だけ真剣な顔を見せてから、それを打ち消すようにへらりと笑った。
「五分咲きの桜もいいもんですね」
「…ええ」
 釈然とはしないが、益田の言ったことには共感できた。
 五分咲きの桜の木は、満開の桜の圧倒的な美しさを持たない。その代わり、温かな生命力と、空や枝や幹や、その下にいる人を包み込むような優しさがある――ような気がした。
 えらく感傷的な感想を思い浮かべた自分が意外だった。
「早く満開になればいいなあと思いますけど、これくらいのだって綺麗ですよね。あ、ひねくれてますかね僕」
「いいえ。いいんじゃないですか?」
 ほんの一時間前まではまだ味気なく思えた五分咲きの桜が、今は希望に溢れた美しいものに見えた。
 益田は照れ隠しのつもりか軽薄な笑い方をして、敦子さんもどうぞと桜餅を差し出した。
 摘み上げた桜餅は、小振りなりにしっとりと水分を含んで重く、敦子の小さな掌に馴染んだ。
 公園で茣蓙を敷いて、お弁当を広げおやつを食べて――なんだか可笑しかった。
「まるで遠足みたいですね」
 含み笑いでそう口にした敦子を、益田は幾度か瞬きをしながら見て、ふっと息を吐いて笑った。
 よくよく見ていると、益田は軽薄でない笑い方もするらしい。敦子がそれに気付いたのは、つい最近のことだった。
「遠足じゃあないですよ敦子さん。こりゃあ花見です、花見」
 ――花見。
「あ、そう、ですね」
 なるほど。そうなのだろう。確かに花見だ。
 当たり前のことにやっと思い至って、また可笑しくなった。
 校了前で、時間の余裕など少しもないと思っていて、花見など参加できるはずがなくて、そういう自分の生活が少し寂しい気がして――そうしてたどり着いたのが此処で。
 ――花見ができるなんて、思ってもみなかった。
「今日のお花見、行きたかったんです、ほんとに」
 益田はもぐもぐと桜餅を噛んでいて、視線だけで相槌をした。
「此処に、寄り道してよかった」
 独り言みたいにそう口にした敦子は、自分がどんな顔で微笑んでいるのか知るはずがない。そのまま、いただきますと益田に告げて、懐かしい感触の菓子を口に入れた。
 桜餅を半分齧って制止した男は、ぽかんと気の抜けた顔でごくりと餅を飲み込むと、不自然に敦子から目を逸らした。

「最近、ラッキーですよね僕」
「そうですか?」
「何だか、バチが当たりそう、です」

 五分咲きの桜の下。
 僅かに頬を熱くしている小心者の探偵助手は、己の僥倖を持て余していた。一方、彼の向かいで好奇心を持て余す雑誌記者は、今はひとまず、桜餅の甘さに口元を綻ばせた。


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