残暑が続く9月の日曜日。
私は洗濯物と布団を干すと下宿を出た。
行き先は決まっている。電車で二駅先の神田神保町にある、3階建てのビルヂング。その3階に事務所を構える、薔薇十字探偵社。
別に、人捜しをしてほしいわけでも浮気調査をしてほしいわけでもない。
私は恋人に会いに行くのだ。
手土産に駅前の洋菓子屋でフルーツゼリーを買った。数は4つ。恋人と、和寅さんと益田さんと私の分。日曜だから益田さんはいないかもしれないけれど、それならそれであの人が食べてしまうだろう。(若くはないのだし甘いものの食べ過ぎはよくないと思うのだが、仕方ない。)
ビルの中は外より随分涼しかったが、それでも階段を上るごとに背中から汗が滲んだ。
3階にある金縁の扉の前に立つ頃には額に汗が浮かんでいて、慌ててハンカチで押さえる。
もうここには何年も通っているのに、未だにこの扉を開ける時には心臓が高鳴る。いい加減慣れたらいいと思うが、身体は言うことを聞かない。
だって、扉の向こうに恋人がいるのだ。
そっと扉を開けると、ドアに備え付けたベルが高らかに鳴った。
「やぁいらっしゃい女学生君!」
私の恋人は、巷じゃちょっと有名な、薔薇と十字を冠した探偵だ。
和寅さん作の昼食をご馳走になって、食後のデザートにゼリーを食べた。益田さんは休みをとっていて(と言うより、土日も職場に入り浸る普段の方が心配だと思う)彼の分は探偵が躊躇うことなく片付けてしまった。
「ごちそう様、女学生君。美味しかった」
オレンジの香りをさせ機嫌良く笑う探偵に、私は嬉しくなる。
私が女学校を出てすぐに就職をしたのは、こうして探偵の所へ遊びに行く時に自分の給料で土産を買いたかった、というのが大きな理由のひとつだったりする、のかもしれない。
お勝手の片付けは和寅さんと一緒に済ませた。この自称探偵秘書には私が手伝おうとするのをいつも遠慮されてしまうけれど、これくらいはさせてもらえないと、かえって居心地が悪いのだ。
「美由紀さん、私ちょっと買い物に行ってきていいですかね?小一時間程度で済むと思いますが」
「ええもちろん、私のことはお気遣いなく・・・毎週のように押し掛けてお昼までごちそうになって、それでお客扱いしていただいては申し訳ないですから。探偵閣下のお世話は私が引き受けますから、ゆっくりお買い物なり気分転換なりされて下さい」
気を遣ったつもりでそう言うと、和寅さんは前掛けをはずしながら、ふふっと思わせぶりな笑い方をした。この顔をする時、彼はろくなことを言い出さないのを、私は身を持って知っている。
「そうそう、そうですよね。私も気が利かなくっていけない。まぁその、お節介かもしれませんが、榎木津邸に行く用事でも作りますし、何なら私ゃあちらに泊まっても」
「か、帰ってきて下さいちゃんと!」
本当に、ろくなことを言い出さないのだ。
和寅さんを見送って居間に戻ると、探偵は応接用の長ソファに仰向けに寝ころび新聞を読んでいた。珍しいことにフレームのない細身の眼鏡をかけていて、その小さなレンズがよく見知った恋人の知らない顔を見せている。
私は探偵の書棚から流行の小説を一冊取り出してから、応接スペースに近寄った。すると彼は目を合わせないまま、肘掛けにひっかけていた長い脚を外して起きあがり、座り直して一人分のスペースをあけてくれる。
「お邪魔します」
「邪魔じゃぁない」
探偵の隣が私の定位置、とは彼の言による。
ふわああぁあ、という動物の咆哮じみた欠伸と新聞が擦れるカサカサと乾いた音が、活字の世界から私を引き戻した。
ああそんなに適当に畳んだら紙面が皺くちゃになる。
そんなことを考えて、本から探偵に視線をずらす。
畳む、というより折り曲げて無理矢理新聞を小さくしている探偵は、私の視線に気づいて眼鏡の奥から眠そうな目を向けた。
視線には質量があるのだろうか。時たまそんな思いつきにとらわれてしまう。
探偵の視線と自分の視線が、細い二本の糸のように絡まり合って、
こうやって引き合う。
探偵が新聞をテーブルに放ったのと私が本を閉じたのは同時で、
私が重心を取るためにソファに手をついたのと探偵が私の顔をのぞきこむように背を丸めたのは同時で、
たぶん同じ速度で顔を寄せ合い、やがて唇が重なった。
触れるだけのキスを二度、互いの唇を啄むようなキスを幾度も。
いつの間にか探偵の掌が頭の後ろに添えられていて、その手に促されて、また口付けが深くなる。
彼の唇のふわふわとした感触が一瞬離れ、濡れた舌が私の唇をそっと撫でた。
舌先が僅かに硬くなり、私の上下の唇にあいた隙間に差し込まれる。私は従順に口を開き、彼を導き入れた。
探るように慎重に舌を使っていた彼は、徐々に大きな質量を持った肉として、私の咥内や舌をかき回した。私はその凶暴な熱と感触に、今にも振り落とされそうに意識を揺さぶられている。
頼りない思考で、オレンジの香りを嗅ぎ取った。
「ふ、ぅ」
上顎を柔らかに撫でられ、痺れるような感覚に喉の奥で喘いだ。探偵はなおも角度を変え、私の舌を絡めとるのをやめない。
ソファに突っ張って体を支えていた腕から力が抜けた。すると探偵の腕が腰に回りぎゅうと引き寄せられ、私は彼の肩に縋った。
唇の角度を変えた時、探偵の眼鏡に眉間がぶつかった。透明なレンズさえ彼の体温が伝って温かい。
猫科の大型動物が捕食するような舌使いが、飼い猫のおねだりのような愛撫になり、小さな水音を最後に、口を放した。
唇が離れた瞬間にはもう寂しい。それを快楽に淀んだ思考で感じた。
探偵の唇は濡れていて、陶器のような質感の艶が乗っている。濡らしているのは自分だということに耐えられず、視界を遮るために私は探偵の肩に頭を乗せた。すると額から胸から、互いの体が血を循環させる震えを感じることができた。
探偵の胸が、常より早く大きく上下しているように思えるのは、私の願望が多分に含まれた気のせいなのかもしれない。
背に回されていた彼の腕が緩まり、代わりに大きな掌が背中を温める。耳元に彼の吐息がかかった。
美由紀と呼んだ探偵の声は、悩ましげに掠れていた。ほんの僅か顔を起こす。余裕のない私をからかうつもりに違いない。
しかし、探偵は何も言わぬままで、私の耳の縁に口付けた。そのままゆっくりと唇で撫で、耳朶を甘噛みする。その刺激と言うにはあまりにも緩慢で優しい感触は、彼の吐息の熱と合わさって私から力を奪った。探偵に縋るまま、彼の膝の間でぺたんと横座りになってしまう。
「ごちそう様」
今度は本当にからかっているらしい。見上げると探偵は、おかしそうに嬉しそうに笑っている。
ガラスの向こうにある宝石の瞳には、今私だけが映っている。
「なんだか悔しい。悔しいけど、嬉しい」
バカ正直な感想が、バカのように口から出た。
「嬉しいかぁ、そうかそうか」
「嬉しいですよ嬉しいですとも」
この親密な雰囲気とは不釣り合いな色気のない態度だと思ったが、私は言ってやる。
だって私は可愛らしい仕草も慎ましい愛の言葉も苦手なのだ。
だったらせめて、本当のことを、あなたのそばにいるのがたまらなく嬉しいということを、可愛くない口振りでだって伝えたい。
「好きなんですもの、本当に」
恥ずかしかったり照れくさかったりするけれど、そんなことは言っていられない。伝えたいなら、伝えるのみ。あなたにきちんと伝わるように、目をそらさずに。
探偵は、その大きな目をさらに丸くした。
それから突然、横を向いて目をそらす。
「何でそっぽ向くんです」
「うん」
彼は不機嫌な子供のように返事をして、素直な態度で私に顔を向けた。眼鏡のせいで普段より年上に見える分、子供じみた仕草が余計にちぐはぐだ。
「美由紀」
「はい」
探偵は名前を呼んだまま何も言わない。
時々彼が人形のようだと言う人がいるけれど、こうして近くで見ると全く違う。人形は、自分の熱で溶け出すような、こんな熱い瞳をしていない。
私は腕を伸ばして彼の眼鏡を取り上げた。顔を寄せると彼は目を瞑ってくれたので、その左の瞼にそっと唇を落とす。
私を祝福する貴方の瞳に、祝福を。
私が顔を離すと、探偵は両手で私の肩を掴んで栗色の頭をすりつけた。ものすごく身体の大きな、小さな子供か子犬のようだ。
「美由紀君」
「何です?」
「君は僕を殺す気か」
「はい?」
探偵は顔を上げないまま私を頭ごとぎゅうと抱きしめ、その大きな胸と長い腕で包み込んだ。どんどん力が強くなって、息苦しい。ふざけているのかもしれない。
「あ、の、苦し」
ふふ、という笑い声がして、腕の力が弱くなる。やはりふざけていたのだ。多分、何か誤魔化すために。
「死ぬかと思いました」
「僕もだ」
「何でです」
私は探偵に殺意なんて持っていない。
探偵の顔が見たいが、頭をしっかりと抑えられていて動けなかった。彼の心臓が私の耳元にあるのがわかる。
美由紀君あのね。
本日幾度目かの呼びかけは、身体全体で聞いた。
「あんまり嬉しいと照れくさい。照れくさくて死ぬかと思った」
わかりづらい。でも、そのままなのだ、この人は。
華奢な眼鏡を握った手で、私は彼の背中を抱きしめた。
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