(2)
関口の誤認逮捕とそれに伴う暴行により、皮肉なことだが、警察は関係者に宿場の部屋を用意するなど、かなりの優遇措置を取っている。千鶴子は当初雪絵のために警察が用意した部屋に泊まろうと考えていたが、雪絵が病院に留まったから、結局部屋を断って中禅寺にあてられた部屋に泊まることにした。
宿場が用意した食事を取り浴場で身体を流した後、千鶴子が部屋に戻ると、中禅寺はまるで家にいる時と変わらぬ様子で、恐らくは家から持ち込んだのだろう本を読んでいた。
「まるで家に帰ってきたみたいですねぇ」
細いため息混じりの、呆れた声で千鶴子が言った。
中禅寺は顔も上げず、何でだいと尋ねた。
千鶴子は鏡台にかかった布を持ち上げ、その前に正座した。鏡の中の夫に返事をする。
「あなたが居て、本を読んでいるものですから」
「僕が本を読んでいたら我が家なのか」
鏡越しに、中禅寺は妻と目を合わせた。
千鶴子の指先の柘植櫛が、塗れ鴉に光る黒髪を梳く。
それを見ていたら、中禅寺は妻の返事を聞く前に、ふと勝手に得心してしまった。何か言いたげな顔で千鶴子が口にしたのは、結局、ええ、という肯定の呟きのみだった。
千鶴子は櫛を鏡台に置くと、すっと立ち上がり夫を振り返った。
「さ、お地蔵さんになっていないで。お布団敷きますからちょっと退いてくださいな」
にっこりと笑う妻の笑顔を、中禅寺は懐かしいような気持ちで見た。
いつもの、二人の日常で見せる顔、仕草、言葉遣い。
貴様も――後生大事にして来たものを切り捨てる覚悟までして――
死んだ男の声が、中禅寺の耳に蘇った。
死人の問いかけに答えるように、口を開く。
「――千鶴子。一組敷くのでは狭いかい」
千鶴子は少し驚いて、夫の顔色を伺った。
他人が見たらとりあえず謝り倒したくなるような、不機嫌そうな顔である。
「私は構いませんよ」
「そうか」
構わないと言ってやっても、夫は目の前に三行半を突きつけられたかのような顔をしていた。
いつものことである。千鶴子の心が、少し浮上した。
「そんなしかめっ面じゃ、大概の女性は逃げてしまいます」
「・・・お前が逃げなきゃそれでいいじゃないか」
非常に珍しくも可愛い気を見せた夫に、千鶴子は大きな瞳をさらに丸く開いてから、口に手を当てて笑った。
中禅寺は居心地悪そうに腕を組んでさらに眉間の皺を深くしていたが、やがて立ち上がって布団がある押入れの襖を開けた。
両隣の部屋に知人が泊まっているという状況を考慮したとしても、二人の交わした情事は静かなものだった。
喘ぎはため息になり、漏れる声は互いの唇に吸い込まれる。さらさらと布団を擦る音と、二人のため息ばかりが夜闇が忍び込む和室に溶けて、消えた。
千鶴子の浴衣の袷を開いた最初の指先は、温かく柔い肌には随分と冷たく感じられたが、今絡めた手はそれがどちらの熱かわからないほど、互いに熱く融けている。触れ合う肌はすべて、初夏の夜気を纏いしっとりと濡れていた。
下から夫の瞳をのぞき込むと、与えられた愛撫や、荒い息遣いには似合わぬ静寂があった。背を撫でていた手を、律動に合わせて揺れる夫の前髪にかけた。それに応えるように、中禅寺は滅多にしない柔らかな目で千鶴子を見る。
光源は月だけという暗い室内で、日に焼けない中禅寺の肌は青白い。首筋や肩の骨のおうとつが、黒い影をつけている。千鶴子は自分の熱を与えるかのように、夫の肩から腕を撫でてやった。細く、骨ばかりだが張りつめた腕である。
くらくらと、快楽の波が立ち、泡になって、弾けて消える。
官能の合間を見つけて、千鶴子は口を開いた。
まだ早いとも思ったが、どうしても今言いたくなった。きっと今を逃したら、もう言わない。言わないでも済んでしまうほどに、二人は夫婦だったからだ。
「お帰りなさい」
妻の囁きに、中禅寺は律動を止めた。常より大きく呼吸しながら、穏やかに目を細めた。酷く切なそうな表情が、千鶴子には少しだけ意外だった。
「ただいま」
中禅寺の呟きは、すぐさま細かな粒子になって、二人の唇の間で消えた。
心配したではないですかという恨み言も、心配かけたねという労いも、お互いに的外れな気がしていた。
無事でよかった、そんな台詞は当たり前すぎて滑稽だし、また会えてよかった、そんな台詞は照れ臭すぎて、互いに口に出す気になれない。
家族だからこれでいい。そういう了解が、互いにあった。
それでも、言葉にして伝えたいことはある。やっぱり二人とも、そう思っている。
いつもの時間に千鶴子が目を覚ますと、いつもと同じように中禅寺は目を開いた。ひとつの布団で寝ていることだけは、いつもと同じと言えるほど日常でもなければ、珍しいと言うほど馴染まないことでもない。ただ、かけているのが薄い布団一枚とは言え、この季節の添い寝は蒸し暑かった。
夫を見れば汗一つかいていないようだったが、布団の端を翻すのを見ると、それなりに暑いのだろう。
「おはようございます」
「おはよう」
起きた瞬間から不機嫌な顔が、ごく近い。
にわかに千鶴子の中で悪戯心が起きた。うつ伏せに体を起こすと首を伸ばして、夫に口付ける。甘えたかったのだと、千鶴子は唇を与えてから気付いた。
口付けられた中禅寺はひとつ瞬きをすると、困った顔をしながら抜き出した手で髪をかいた。
「・・・何時の電車に乗るんだい」
不貞腐れたような声だった。本当に不貞腐れているかは知れない。
「お昼の電車に乗ろうと思っていたんですけど、寂しいと言うならもう少し残ります」
からかうような口振りだったが、千鶴子は本気だった。むしろ残りたいような気がしていた。
中禅寺は肘を枕にして、妻と向き合うように体の向きを変えた。
「あちらもそろそろ忙しいのだろう。早く行ってあげなさい」
世の中に面白いことなど何もないとでも言いたげな、真摯で息苦しそうな顔である。
千鶴子は、ゆったりと笑った。
「敦子にも、よろしく言っておきます。店屋物ばかり食べていてはいけませんよ。たまには、お掃除もしないと。お布団なんかも、万年床にしないで偶には干して下さいね」
「わかったわかった」
「お鍋は炭を作るものではありませんよ」
「・・・去年のことをいつまでも。もうしない」
「今年はお釜まで焦がしたりして」
「焦がさないよ」
米くらい炊ける。中禅寺はうんざりした声でそう言って、口をへの字にした。その顔のまま、細い腕で妻を抱き寄せ、自分の胸で受け止める。
「そんなに心配なら、早く帰ってきなさい」
千鶴子は夫の台詞に半ば呆れながら、しかし素直に、夫の薄手の浴衣に頬をすり付けた。
「やっぱり寂しいんじゃあないですか」
「寂しいものか」
まったくもう、と千鶴子は笑い声で言い、中禅寺は何も言わずに少し笑った。
私だって寂しい。
そう言おうか言うまいか、千鶴子はしばし悩んで、やめた。
終
フリーリクエストby織子さま
「傷心の中禅寺と、夫を日常に戻す千鶴子のお話」
PR