中秋の月、か。
小さな足音に振り返れば、飼い猫が歩いていた。
猫の足音にも気付けるほど、この家の中では音を立てるものが少ない。
柘榴と呼ばれる若い雌猫は、千鶴子には目もくれずに通り過ぎて、奥の座敷へと入った。
座敷は戸が閉まっておらず、縁側に明かりが漏れている。
そこでは千鶴子の言うところの「仏頂面の石地蔵」が、十年一日の如く本を開いている。
千鶴子が湯のみを二つ乗せた盆を持って座敷へ行くと、案の定、床の間の前には石地蔵が鎮座していた。
地蔵と言っても、絶えず書の頁を捲り目で活字を追うという奇怪な地蔵であるから、千鶴子は呆れてしまう。
「開け放していて、冷えませんか?」
障子も閉められていないのは、書に興じるあまり無精して昼のままにしているからだ。
「ん。ああ」
中禅寺は綺麗な緑色にはいった茶を差し出されて、やっと顔を上げた。
「こいつがいるからね」
こいつ。
よく見てみれば、中禅寺の胡坐の上に、こんもりと黒い毛玉が乗っている。
尻尾の先まで身体に沿わせ、器用に丸まった柘榴だった。
「これが温かい」
中禅寺は猫を撫でてやるでもなく、ただ、膝に乗せている。
暖をとっているだけという、つれない口ぶりだ。
しかし実際はそうではないことを、彼の妻はよくわかっている。
千鶴子は小さく笑って、中禅寺の斜め隣に自分の分の湯のみを置いた。
しばらく、千鶴子は黙って茶を飲んだ。
聞こえるのは頁を捲る乾いた音、茶をすする音、僅かな衣擦れの音。
縁側の向こうは夜の闇に染まっているが、微かに木々のシルエットが白く浮かぶ。
月灯りだ。
「ぼんやりしてどうしたんだい」
千鶴子ははっとして、庭へやっていた目を夫に向けた。
見慣れた仏頂面である。何もせず黙って茶をすする妻を訝しんでいる顔だ。
千鶴子は穏やかに言った。
「月が、綺麗に出ていたから。秋なのね、って」
「ほお、風情を楽しんでいたってわけかい」
ふふ、と千鶴子は曖昧に微笑む。
「そこからじゃ月は見えないだろう」
「さっき縁側から」
「寒くないのか」
「そうですねぇ」
夜の空気は、確かに座敷に入り込んでいる。
「温かそうで、すこし、柘榴が羨ましいです」
頁を捲ろうとしていた中禅寺の指は、そのまま栞の紐を摘んだ。
ゆらゆら揺れる尻尾が座敷を出て行くのを、千鶴子は首を捻って見送った。
温かな寝床をとられて、彼女は御立腹に違いない。
ごめんね柘榴。
不機嫌な飼い猫とは反対に、千鶴子の耳元では中禅寺が可笑しそうに笑っている。
「月には変身の魔力があると言うが、猫に化けたかい?」
それはいい、と千鶴子は思った。
夫の着物の袷に顔を擦り付け、ニャオ、と啼いてみる。
「恋猫は季節はずれだがなぁ」
中禅寺は、己の腕の中で懐いている猫の顎をひと撫ですると、そっと顔を近づけた。
PR