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京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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HN:
行葉(yukiha)
性別:
女性
自己紹介:
はじめまして。よろしくどうぞ。

好きなもの:
谷崎、漱石、榎木津探偵とその助手、るろ剣、onepiece、POMERA、ラーメンズ、江戸サブカル、宗教学、日本酒、馬、猫、ペンギン、エレクトロニカぽいの、スピッツ。aph。
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★探偵×探偵助手(♀)
これの続き③
※やっぱりじれったい。長い。





 風を背負わない大粒の雨は、ただしとしとと音を立てながら、建物やそのガラス窓や街の道路を濡らし続けているようだった。
 正常な雨の夜の気配に、少し前の感情の混沌が嘘のように益田は今落ち着いていた。
 枕は榎木津が使ってしまっているし、柔らかい色のベッドライトが点いたままになっていて、家では真っ暗にして寝ている益田にとってはいつもの就寝とはまるで環境が違っているが、不思議と寝心地が悪いとは思わない。布団は雨のせいでほんの僅か湿っているように思えたが、ものがいいのか軽く暖かく、シーツはさらさらと乾いて清潔だ。そもそも、寝ようと思えば応接ソファのような狭い場所でも眠れるのだ。そこに比べれば格段に上質の寝床であることに間違いない。
 寝苦しさをもたらしているとすれば、考えられる要素はただひとつだった。
 益田の隣では、榎木津が背中合わせに寝ている。

 榎木津は益田が布団に入ったのを確認すると、よし寝る、と一言告げてから一切物音を立てなくなり、気付けば寝息が聞えていた。潔すぎるだろう、と益田は本日二度目の感想を持ったのだが、拒否したのは自分だったし文句があるはずがない。
 目を瞑ると榎木津の手の温度や形がふと頭に思い浮かんだり、そそると言った時の榎木津の何故か少し嬉しそうな顔を思い出して、益田は静かな夜をぼんやりと過ごしていた。眠れないというよりは、まだ眠りたくないという方が近い。
 穏やかで、おかしなことばかりの夜だ。冷静になればなるほど奇妙な状況だった。
 ここ数ヶ月頭の片隅を離れず困惑していた男の寝台の中で、静かに眠りにつこうとしているなんて。
 雨で冷えた6月の夜は、人肌一人分の温もりがすばらしい贅沢だった。

 幼い頃に母が読んでくれた昔話の、狐に化かされているのではないだろうか。真っ白い毛をした、つり上がった目の狐の挿し絵を思い出す。見てあなた、この狐この子に似ているの。母がおかしそうにそうに笑いながら、父に絵本を見せて、父は本当だと大笑いしていた。益田はその狐をあまり可愛いと思わなかったからあまり嬉しくはなかったのだけど、両親がそろってよく笑っているのは自分の手柄のように思えた。あの絵本は何処にあるのだろうか。
 榎木津に見せたら、やはり笑ってくれるだろう。
 狐。榎木津。両親の笑顔、男の笑顔。
 
 ベッドが揺れて、益田は目を開けた。視界が明るくて朝かと思うが、朝日にしては橙色が強すぎる。
 ここが榎木津の部屋で、隣には榎木津が寝ていて、さらにまだ夜が明けていないのだと気付くのに、益田は目がぱっちりと開くまで考えなければいけなかった。
 起きてしまったことに後悔してももう遅い。というか無駄だった。
 榎木津が身じろいで起きてしまったのだと思いだし、益田はそっと仰向けになって、横目で榎木津を見た。広いベッドの右と左に分かれて眠った時のまま、榎木津は益田と反対を向いて寝息をたてていた。寝相がいいイメージはなかったから、今のところの大人しさを意外に思う。
 自分が寝返っても寝息が崩れない榎木津に安心して、益田は体が楽になるように、もう一度そっと寝返りを打った。
 目の前には、これ以上ないほど無防備に背中を晒す榎木津がいた。
 ――下僕に警戒心を抱く必要など元々ないけれど。
 これほどに近くで、しかもあの強い目に晒されることなく、ただ側にいたことなどあったろうか。
 枕に埋もれる後頭部や首筋、シャツから浮く肩甲骨の影、それらすべてが、榎木津という人間の生々しい形だと思うと、益田は後ろめたさを伴うほのかな羞恥を感じた。同時に、今見える榎木津は探偵ではないのかもしれないと、何か面白い事実を発見したような気になる。
 榎木津は一見細身ではあるが、首は女の自分と比べるまでもなく太く肩幅は長身だけあって広い。この男にしか似合いそうにない緩やかなシルエットを作る短い髪は、男の割りに柔らかそうな艶を持って枕に散っている。ほとんど毎日のように顔を合わせている男の形を発見するのは、誰に咎められるわけでもないのに後ろめたく気恥ずかしく、心惹かれる遊びだった。禁忌を、夜の闇を味方に犯す、ほの暗い愉悦であり、無邪気な喜びでもあった。
 再び意識の波が凪いでいく中で、ふわりと過去の映像を思い浮かべた。やはり暗い、夜の闇の中で、裸の男の背中を見ていた記憶だった。
 男性と一緒に寝るなどどれくらいぶりのことなのだろうかと、益田は大体の年数を思い出してみて、自分がほとんど過去の恋人について覚えていないことに驚いた。恋人に抱かれて眠りにつく夜、自分が何を思っていたのか、どうしても思い出せない。
 自分を抱いた男を、愛しいと思っていたのだろうか。それとも、寝付けないなあと可愛げのないことを思っていたのだろうか。
 触れられたいと、触れたいと、思っただろうか。

 こんな風に。

 白いシャツの背に、自分が無意識に指を伸ばしているのを見て、ひやりとしながら手を引っ込めた。
 榎木津に触れたい、などと。
 益田は初めて、意識した。
 手触りのよさそうな綿のシャツに隠された目の前の男の輪郭を、益田は自身の鼓動がばくばくと音を立てるのを聞き取りながら見つめ、目が覚めるほどの強い自覚を持って触れたいと思った。
 己の激しい鼓動の向こうに、穏やかな寝息が続いている。
 益田は、先程自身で静止した指をもう一度同じようにして伸ばし、
 やがて榎木津の背に触れた。
 それは、人差し指と中指と薬指の本の先を触れただけという、我ながら呆れるほどに臆病な触れ方ではあっても、
 肌が粟立つほどに大きく大きく、
 愛しさが開花するには十分だった。
 愛しい、と、喉の奥から感情が音になって漏れてしまいそうなほど、体を感情が侵していく。
 指の先の僅かな接点から、体温や生きる体の振動を感じられることに、これほどの喜びがあるなんて。
 心臓が壊れて静止するのではないかと思うほど溢れてくる。
 はあ、と息を吐き出して逃さなければ、声にして呼んでしまいそうなほどに。

「益田」

 名を呼ぶ声にびくりと震えるほど驚いて、慌てて背に触れていた手を離した。
 しかしその手は、寝返って益田の方を向いた榎木津に簡単に引き出された。
 掴まれた手を間に、榎木津はじいっと益田を見た。寝起きのせいで瞼が重そうではあったが、手に込められた力は容易に放す気がないことを語っている。
「おっ、お、起こしちゃい、ました?」
 ん、という一応肯定の返事をもらい、益田は自分の迂闊さを悔いた。そして、掴まれている手に今さっき心を浸した愛しさが喚起されながら、同時にたった今抱いた重大な違和感で混乱する。
 今、本名を言わなかったか。数ある奇妙なあだ名ではなく、益田と。
 愛しさを自覚した瞬間の展開に、益田は反応がついていけずにただ掴まれた手を見ていた。手首を掴む大きな男の手は、一度拘束を解くと、するりと益田の掌に滑り込んで指を絡めた。それは普段の強引さが嘘のように、優しさに満ちた繋がり方だった。その優しさに、益田が音を上げるのに時間はかからなかった。ばふっと音を立てて、うつ伏せの格好でシーツに沈んだ。
 榎木津の顔も繋がった二つの手も、見ていられなかった。それでも手を解くのは違う気がして、右手だけは臆病者の意固地さでぴくりとも動かさない。榎木津の姿が見えなくなると、今度は触れている手の温度に意識が集中してしまい、開花したばかりで勢いのある愛しさがそこから溶け出して、すべて榎木津に伝わってしまいそうで恐ろしい。
「・・・この間は平気だったのに、何で今度はそんななんだ?」
「こ、この間?」
 シーツに声が吸い込まれて、随分聞き取りづらい声になった。
「踏んだり絞めたりしたけど、今日ほどびくびくしてなかった」
 ――厭がってなかったじゃないか。
 少し恨めしげに響いた声色に、益田は思い出した。前に榎木津と対峙した時、彼は口付ける前に言ったのだ。『厭じゃあないのか』と。
 視覚的には榎木津をシャットアウトして、今は声と掌の温度という繋がりとしては本当に僅かな部位でしかないのに、益田はしくしくと心に染み入るように榎木津の意思を感じた。益田が本気で厭がることを榎木津は決してしないだろう、と今は分かる。それが分かっても、益田を怖気づかせる巨大な足枷は消えない。
「わかった。お前変態なんだな」
「へんた・・・? ち、違いますよ!」
「今だって」
 嗚呼、言わないで欲しい。
「榎」
「お前本当は」
 真綿のように優しく、ベルベッドのように艶のある声が、乱暴に嘘を暴く。
「榎木津さんっ」
「厭じゃないくせに」
 宥めるように優しかった手が、誘惑に絡む手になる。
 視界に入らない手が引かれ、やがて指先に柔らかいものが触れた。中指を唇で食まれる感触に、背筋が甘く痺れていく。
 嗚呼、流されてしまう。
 思考を手放して身を委ねる安楽は、しかもそれが愛しいと自覚した相手ならば当たり前に魅力的だった。しかし同時に、益田には恐ろしい。怖じ気付くのだ。喪失の予感に、項垂れるビジョンに、身が竦む。
 絡む指先への愛撫が手の甲に移り、手首に移り、伝う熱が僅かに高まった頃、益田は酩酊する意識を奮い立たせて言葉にした。

「厭。厭なんです」

 ぴたりと、榎木津は静止した。

「後生ですから」
 やめてください。
 益田は、否を意味する言葉しか忘れてしまったように、榎木津が手を離すまで、擦り切れた声を繰り返し口にした。

 ぱたりと、二人の手が分かれて落ちる。

「早く言え。愚か者」
 榎木津は王者のように言い捨て熱い溜息をつくと、沈黙した。  
 
 益田は自由になった手をシーツについて起き上がり、仰向けで寝る榎木津に向き直った。電源が切れたように静かだった榎木津は、実際はすっかり目が覚めてしまったらしく、ぱっちりと大きな目を見開いて益田を睨み付けていた。不遜な瞳のその奥深く、または目だけではなく、眉や頬の筋力や、そういった表情を作り出すすべてのものに、益田は遣りようのない後ろめたさを感じて心が声を出せずに悲鳴をあげる。不機嫌な無表情の上に、砕いたガラスを散らしたような微細な寂しさの欠片を益田は見ていた。

「榎木津さん」
「なんだ」
 まだ言いたいことがあるのかと言わんばかりに睨まれる。
 端からない勇気を振り絞って、益田は無防備に寝転がる榎木津を見下ろした。
 ベッドライトの灯りの中の短い沈黙の中で益田がまず思ったことは、バカオロカと呼ぶ声の懐かしさだった。  
 益田自身不思議だった。名前や呼び方など、本名や罵倒のような渾名でも、本当にどうでもよかった。ただ、榎木津に呼ばれることにだけ意味がある。
「私、厭なんです」
 同じ台詞を繰り返し、掠れた声を弾き出した。
「――だって・・・全部終わっちゃいそうじゃないですか」
「意味がわからない」
 一言で突っぱねる不機嫌な顔が殊更に美しい。益田は思う。この愛しさのまま目の前の男を手に入れることができたら、どんなにいいだろう。
 身が竦むのは、身を侵す愛しさとは別の話だった。
 じっとりと掌が熱くなり湿っていくのを感じながら、乾いた喉はあははっと間を繋ぐ為だけの笑い声のようなものをあげた。
「わ、わかってます。訳わかんないですよね」
 そうこんな風に。上っ面を取り繕って、柳に風が吹いてはらりと揺れる、長いものには巻いてくださいと願い出る、そういうのが自分であるのに。簡単に笑えるはずだった目は、今は細ることなく歪んだ。
 相手は榎木津なのだ。人の気持ちを測るということをほとんどしない。することと言えば、現象や精神世界を問わず真偽を見抜くことだけである。それが何より怖いと思うのに、榎木津が、自らの拒絶を理由に傷つくなど、悲しい教訓でもって終わるおとぎ話のように、現実世界では我慢ならない。
 俯いていた顔を恐々と持ち上げれば、榎木津が何か言いたげに僅かに唇を開けていたが、何も言わずにじっと益田を見据えて動かない。
 今日は見慣れない顔ばかりを見ているなと思うと、益田はまた少し苦しくなった。
 傷つかないで欲しいのに。榎木津だけには。それだけの理由で、益田は自らの愚かさに半ばうんざりしながら口を開いた。

 ――あなたって人は、ですね。
「私の、人生変えた人なんです」

 やはり所詮下僕なのかもしれない。口にしてみて益田は自虐ではなくしみじみとそう思った。
 ぱちりと一度瞬きをした榎木津の瞳は、瑞々しく輝いた。
 益田はずっと思っていた。人生、それは価値観であり、過去の生き方であり未来の生き方であり、紛れもない今だ。それを根こそぎ変えてしまったのが榎木津という男だった。
 崇拝などではない。榎木津は神ではなく崇め奉る存在ではない。同じ人間だと厭と言うほど知っているから、余計にかなわないと思う。感謝はしているかもしれないし、慕うことを愛だと言うなら、ずっと愛し続けている。愛しているだなどと、映画や小説の台詞を口にしてみたいなどと思ったことはない。ただ、ただ、この世に二人といない、絶対に特別な存在だった。一生の恋などその存在には大いに疑問を持つのに、益田にとっての榎木津の立ち居地というのは一生変わらない気がしていた。僅かな疑問も挟む余地なく、きっと一生「特別」なのだと。
 そんな人が。そんな人に。
「そういう人に、恋愛なんて、したら、私は」
 私は――。
 続く言葉がわからなかった。
 益田は何か言おうと、あのそのと格好の付かないことを呟くが、時間稼ぎをしても何も思いつかない。何も、取り繕う言葉が見つからない。
 黙っていた榎木津が、喉の奥で笑った。それは益田を震え上がらせるのに十分なほど「彼らしい」仕草だった。腹筋だけでむくりと起きあがると、片膝を立てて益田と向き合う。立て膝に肘を乗せて、子供っぽくそこに顎を置いた。悪っぽく笑っているのに、どうしてか無邪気に見えたのは、きっとその目がきらきらと光っていたからだ。
「お前は」
 榎木津は益田が無くした語尾を浚う。
「全部暴かれるぞ」
 僕に。
 益田の思考は恐怖に停止した。

 そうだ。
 ――あなたに恋愛なんてしたら、私は暴かれてしまうじゃないか。

「や、止めて下さいよ」
「お前が言いだしたんじゃないか」
 人の言葉を奪っておいてと思う。しかし、益田さえも言葉にできなかったことを具体化されて、初めて何が本当に恐ろしいのかを自覚する。
 ベッドライトに照らされ照り返す、橙色の瞳が恐ろしい。ぺらぺらと薄いからこそぴたりとくっついて剥がれづらい、顔を覆う仮面を見破り奪われてしまう。怖いからこそ、目が離せない。目を離したら、何を見られるのかわからないのだ。益田の視線が榎木津を捉えるのは見つめ返したのではなく、ただ見張っているだけだった。
 渇いた喉で、あはっと笑った。
「私なんか、面白くないですから」
 虎に下手な命乞いをする兎のような台詞だと益田は思った。
 己を暴いたところに榎木津が喜ぶものなど何も持っていない。益田の「内」にあるものには、きっと厭がられるものしか入っていない。
 だから厭だと言っているのに!
 榎木津は口にする。恋愛をするのなら、その面は無駄な抵抗だと。益田の想いなどとっくに知っているというように。
 益田は抵抗を続けた。
「なーんもないですよ私なんて。暴露したって何にも。・・・あなたにいいことありません」
 榎木津は先の悪い笑顔をどこかへ消し去りどこまでも美しい顔で、益田をじいっと見据えている。真偽を見極める目は、今は己を見ているのだと思うと、居ても立ってもいられない。視覚的映像などいっそどうでもいい。ただ、仮面の下にある、偽るべき自分を見られてしまうのが恐ろしかった。
 思考はいつだって陰鬱だ。自己愛が強く他人からがっかりされたくないから無能を装い、無能と思われたくないから余裕を装う。特技と言えば「大体においてそこそこにできること」。役立つものは、中途半端な正義感と、縋るつもりで抱えている忠誠心。卑屈で卑怯で、だから逃げ足が速い。特に不便なのは、ほとんどが柔軟なのに局地的にある頑なさ。そして、他人の不幸を散々目にして慣れたような顔をしながら、本当は同情して同調してわかったような気になって、そういう己を嘆き蔑む被虐趣味かと疑いたくなる理性だ。
 人の心など誰しも綺麗なばかりではないだろう。そう思うからこそ、益田は装わずにいられない。仮面をつけずには人と挨拶を交わすことさえきっとできない。家族にだって明かしたくない。
 愛しいと思う人には、尚更。
 獣の接近に雀が飛び退くのに似た反射で、宛もなく逃げようと腰を持ち上げた瞬間、腕の付け根を強い力で掴まれ、声も出せないまま引き寄せられた。
 榎木津の胸に肩からぶつかる。身体を立て直す間もなく、強い腕が益田の身体に巻き付き、押し潰すような力で抱き締められた。
 肺が潰され泣き声もあげられない。小さく漏れたのは息苦しさによる呻き声だ。苦しい。痛い。次に感じたのは、場違いな温かさだった。
「今更だ」
 鼓膜に直に触れるような囁きに、益田は自分が今何処に居るのかに気付く。触れているのが誰の胸なのか、それを自分が感電したような衝撃をもって心地よいと思っていること、それらに気付かされていく。
「僕を誰だと思ってる」
 聞き覚えのある台詞を、聞いたことのないほど優しい声で言わないで欲しかった。力加減など知らないように巻きついていた二本の腕は、先の乱暴さが嘘のようにゆっくりと緊張を解き、やがて壊れ物を包む程度の優しい抱擁になった。捕らわれた瞬間に突っ張った手は、どんどん指先から力が抜けて、やがて白いシャツに縋り付く。
 榎木津の溜息の理由は、呆れたのか安堵したのか益田にはわからない。先に口を開いたのは榎木津だった。
「お前なんかのどんなもの見たってそれが何だって言うんだ?」

 ――嫌いになるわけないじゃないか。

 夢なのだろうか。
 榎木津の言うことは益田にとってすべてフィクションのようだった。現実味がない。榎木津が、益田にとってこれ以上ないほどに都合のよいことを次々に言葉にし、揚句の果てに、このような心地よい場所を提供してくれている。夢であるなら自分は随分と器用に夢を見ているものだと感心してしまいそうだった。
もしも夢ではないのだとしたら。
 肩を包んでいた掌が後頭部を撫で、益田は素直に榎木津の肩に額を乗せた。
 
「私のことなんか、好きなんですか?」

 やけっぱちという気持ちはなかった。ただ、榎木津が嫌いになるわけがないと言ったから、では好きなのかと思っただけだった。
 口に出してみてやっと、これはいつかの夜に聞きそびれた質問だったと気付く。あの夜には確信があったことも、その確信をもたらした要因も、益田はまざまざと思い出した。
 頭にあった手が頬を滑り、顔を上げた益田はその仕草に飲まれてぼんやりしていると、唐突に頬を摘まれた。
「いっ」
 思わず榎木津を見上げてすぐに後悔した。榎木津ははっきりとその目元や口元に困惑を滲ませていて、怒りというよりも照れくさくそれが悔しく、威圧感はそこにない。驚きでじっと見詰めていれば、頬を引っ張っていた手はやがて摘んだところをするりと撫で耳を伝い、やがて項の髪を掬い上げるように益田の頭を引き寄せた。
 一瞬、ぱくっと一口唇を食んで、放れた。
「え」
 感触の余韻をそのままに、鼻がぶつかる距離で視線が重なる。吐息が唇にかかる距離で、榎木津は言った。

「好きだよ。お前なんか」

 益田はその瞬間の榎木津の顔をまじまじと見てしまって、榎木津は嫌そうに眉間に皺を寄せると益田の目に掌を被せた。
 唇が再び重なり、掌の闇が払われてからも、温度や柔らかさや感覚のすべてを共有しようとするような貪欲な口付けに、益田は目を開けることなど思いつかないほど夢中になっていった。


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