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京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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HN:
行葉(yukiha)
性別:
女性
自己紹介:
はじめまして。よろしくどうぞ。

好きなもの:
谷崎、漱石、榎木津探偵とその助手、るろ剣、onepiece、POMERA、ラーメンズ、江戸サブカル、宗教学、日本酒、馬、猫、ペンギン、エレクトロニカぽいの、スピッツ。aph。
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これの続き。ラスト!
※性描写がありますのでご注意を。




 まだ夜、だ。
 目の端に映った窓はカーテンが閉められていたが、その向こうには確かに、夜と、重い雨の気配があるのを益田は感じた。
 ちらりと視線をそらしたところで、ひっきりなしに声があがるのは収まらない。
 室内を満たすのは、くちゅくちゅという雨水というには粘る水音と、断続的ながら果てない細い声、その隙間を埋めるボリュームを最小に絞った雨音と、熱く太い吐息だった。
 長く骨ばった、益田の記憶によればそれは無骨ながらもとても美しい造形である榎木津の指が、奥まった十分に濡れたところをまた撫で回すから、さらに濡れて、音を立てて出し入れされれば、また濡れる。
 横向きに向かい合わせに寝て、片足を榎木津の腰に乗せられた姿勢で、益田は逞しい胸に額を押しつけるようにして快楽に喘いだ。太股をつうっと伝うものを感じて、羞恥に煽られまた快感が強くなる。榎木津の性器に必死に触れている手からも力が抜けそうになるが、そこは染み着いた下僕根性でなんとか力を絞り出した。すると耳元で小さく息が詰まった気配がして、掠れる意識の中でほっとする。先の方まで撫でてやるようにすればつるりと粘液に触れて、互いに心地よさを共有できていると信じられた。
 ふっと榎木津が笑う。
「お前濡れすぎ」
 榎木津の声はあまりに近くで聞いているせいか吐息が混ざり掠れて聞き慣れないが、嬉しそうというのだけはわかった。からかうように、躰に埋められた指が粘膜にそうように一周撫でればちゅと音がして、また粘液が脚を伝った。羞恥心が快感を拒絶したいと叫ぶのに、喘ぐのを止められない。
 何か言い返したいのに、すでに言葉の形に口を動かすさえ億劫なほど、躰の外側と内側の両方から生まれる熱に思考を蝕まれ始めていた。
 こうなれば信じるも信じないもないのだがそれでも――益田は、信じられない、と思う。
 こんなに近くに榎木津がいるのに、殴るでも蹴るでも締めるでもなく、両手を拘束することも当然ない。口付け、躰を撫で、性感を引き出され、性器を濡らされる。榎木津自身の性器を濡らしながら。
 榎木津が「そう言う風に」自分を求めていることも衝撃的な驚きだったが、益田自身がそれを受け入れ、こんなにも躰が受け入れていることが信じられなかった。
 いつか榎木津が言った、覚悟をしていろという台詞を思い出す。今晩は何度も思い出したシーンだった。
 覚悟などしたつもりはなかった。けれど、
 期待は、したのだろうか。
 あの夜わからなかった自分の感情をほじくり返しても、思い出せるわけはない。ただ、そうだといいなと、思った。
 榎木津が、無邪気というには欲望が溢れすぎていたけれども嬉しそうに自分を抱くことを、益田自身が信じられないほど嬉しく思っているのは事実だった。ふつふつと熱を上げ溶けていく躰に反して、浅ましいほどはっきりと、益田は嬉しかったのだ。
 榎木津を愛撫する手は離さずに、ひとつ息を吐き出してから顔を上げた。視線を重ねた榎木津の表情はどこか背筋を冷やすものがあって、怒っている時の顔と似ていると思った瞬間、口が震えた。 
「――ぁ」
 危うく口に出すところを寸出で止める。

 好き、だなんて。

 榎木津は感情の読めない顔で益田の前髪に口付けると、一度躰を離した。
「んぁっ」
 躰から指が引き抜かれ、その手で榎木津に触れていた手を掴み引き剥がす。もう片方の手も掴むと、榎木津は益田に覆い被さるようにして体勢を変えた。
 再び指を、益田には見えなかったが恐らく今度は二本入れられするりと一気に奥まで入っていった。かけ上る快楽に、益田の背がしなる。
「あ――あぁっ――や、ぁっ」
 指を器用に扱いながら、獣のように激しく上半身に食らいつかれ、的確に性感を強めていく。
 だめ。だめ、だめ。
 捕らえられたままの右手は動かないが、もう片方はどうともできた。突き放すことはできなくても、意思表示くらいはできる。しかし、押し返すのも、かといって背に回すのもうまくできない。快感に時折びくりと痙攣するばかりで、まるで役に立たなかった。
 榎木津に煽られるまま、自分の内側が反応してきているのがわかる。とろとろと溶けだして、粘液を出して虫を取り込む毒花のようだった。
 ああ、このままでは。
「え、のき、づさ・・・」
 脇腹を舌でくすぐっていた榎木津は、ぎらりとした目で今名を呼んだ唇を見つめた。ふやけそうに熱く濡れたところから指は抜かずに小さく動かしながら、ため息というには熱すぎる息を吐き出す。
「何」
 吊り気味の瞳にたっぷりと涙の膜を張りながら頬を紅潮させている表情に、榎木津の中でぐっとせり上がるものがあった。眉間の辺りがぴくりと動いた程度の僅かな反応を、益田が気づけるはずもない。榎木津はぐっと伸び上がり今にも口付けをしそうな距離まで顔を近づけると、また激しく指の送出を始める。
 益田はすぐに感電したように口をわなわなと震わせ、か細く高い悲鳴をあげるが、次の瞬間にぐっと口を閉じた。
 ――今、自分はなんて声を聞かせてしまったのか!
「ふっ・・・くっ」
 榎木津はとろりとした目で益田を見下ろしながら、実に意図的に愛撫を重ねていった。僅かでも口を開いたら、無様に喘いでしまいそうで、益田はほとんど意地になって快感の衝撃を喉の奥で殺そうとした。
 ん、ん、と無理に飲み込んだ嬌声は、真意を隠すという意味で有効かどうかはともかくとしてボリュームだけは小さくなる。そうなれば今度は、電気的な快楽の向こうでぴちゃと粘着質の水音がよく聞こえてきた。
「こんなに濡らして、何を今更」
 榎木津がくっと笑えば、益田の唇に吐息がかかる。ぎゅうっと目を瞑っても、視界が暗くなるばかりで快楽からは逃れられない。
 わかっている。今この榎木津から与えられている快楽や、温もりから逃れようとするなど、「何を今更」のことであると。

 おかしいのだろうか。益田は、正常か異常か判断できる基準が見つけられない。
 この恋に本気になったら、気が狂ってしまう。一挙手一投足、たったの一言、あるいは視線、それだけで自分の人生を変えてしまう人を相手に、恋をするなど。狂気の沙汰ではないのか。
 だから、戻れないところまで行きたくない。卑怯だと思うし、すでに片足は戻れない所に突っ込んでいる可能性はあった。それでも、益田は悪あがきをやめられない。
 おかしいのだろうか。
 相手を拒絶しながら、相手からの求めに妥協し諦観を持ち、結局相手を愛しいと思う、そういう恋愛などおかしいだろうか。愛情だとは言えないのだろうか。
 今この時、焦がれるほど欲していることだけが純粋だ。
 理性が霧散してしまえば、音を上げるしかない。

「あ、ああっ――ゃ、いっちゃ・・・や、やだっ」
「やじゃない」

 自由に動かせる左手で榎木津の胸の辺りを押すが、蕩けきった体に力が入るわけもない。睦言の代わりにいやだいやだと言う口を、榎木津はその口でもってあっさりと塞ぎ、舌をきつく絡めるようにして吸い上げながら益田が訴えたかったらしい言葉を唾液と一緒に飲み込んだ。
「っく、ふっ・・・」
 下に敷いていた身体がくっと弧を描くように強張ると同時に、指に伝わる圧迫感が強くなる。 
 榎木津はくらくらするほどの欲情のままに、仰け反った身体が弛緩してぐったりと動かなくなるまで唇を貪り続けた。

 なんなら天井の染みでも数えてみようかと、赤く透ける髪や筋の陰影が美しい首の向こう側に目をやってみたものの、いざとなれば結局そんな思惑は、1秒と益田の頭に留まらなかった。
 榎木津という存在に宿る熱が、抱き込まれた背や肩や胸や、もっと身体の奥まった場所から伝わり浸透していくことの心地よさに、ほとんど恐慌状態で酔い痴れた。技巧的な何かがあるわけではなく、ただ、ぎゅうっと抱き込まれながら揺すぶられ、その擦れる粘膜のいちいちが異様に悦び快感を拾う。汗に張り付いた髪を退ける手つきや、その時の切なく泣き出しそうな表情から、いつかのように榎木津の感情はぽとぽとと溢れていて、下にいる益田はそれを受け止めるしかない。覆い被さる方から流れ落ちた汗を拾い、皮膚の上に溜まっては消えていくのを、益田は恐ろしいと思うのに、紛れもなく幸福で、感動的でさえあった。
 少し泣きたいと思う程度には、確実に、二人がした行為は優しく温かく、心のこもったものだった。
 益田が幾度か気が遠くなるような絶頂を通過して、榎木津も熱を吐き出し益田の胸に頭を沈ませた時、やはり二人は身体の当然の反応として理性を揺り戻し少しだけ冷静になった。
 互いに互いの表情を、何か言いたそうだと思いながら、二人は結局どちらからともなく引き合うように終わらせ方のわからない口付けをした。


 まず、随分と静かだと思った。一晩中届いていた雨音に耳が慣れていたのかもしれない。それとも――性行為というものは、何かと物音が止まないものだ。とにかく、夜明け前の仄明るい部屋を静かだと思いながら、益田は覚醒していった。
 布団は胸の辺りまで下ろしていたからさほど暑いとは思わなかったが、背中と頭だけはまた眠気を誘うほどに温かい。もっとくっついていた時には思わなかったが、榎木津は体温が高い。
 益田の視界には、灯されたままのベッドライトに陰影を深くした節くれ立った手が在った。その手は益田が頭に敷いている腕に続き、背後に大きく感じる体温と繋がっている。
 カーテンの隙間から、青白く細い光が漏れていた。晴れた朝がやってくる。
 朝がくれば、榎木津とは違い一般的な時間感覚を自身に採用している益田は、布団から出て服を着て、今日は平日だから仕事をする。
 そういえばここは職場だったなと、感慨を抱くことなく思い出した。
 職場で、職場の上司と。言葉に変換するとなかなかドラマチックなシチュエーションだった。しかし、試しにやってみただけで、とっくに益田はそんな状況設定ができないことを知っている。
 自分は自分であり、そして榎木津の部下というよりは、強いて言えば助手だった。自分にとって榎木津は、職場の上司ではなく榎木津という存在で、強いて言えば――探偵なのだ。

 この人とだけは、恋愛などしたくなかったのに。

 目の前に横たわる力なく丸まった大きな掌に、益田はそっと指を滑り込ませた。いちいち覚えてはなかったが、恐らく今夜は何度も触れた手だった。
 この手ひとつさえ、愛しかった。
 この人にだけは恋をしたくない、とは――益田は敗者の諦観で思う――我ながら哀れなほどの悪あがきだ。

 この人にしか恋ができない。きっと同じ意味なのだろう。

 まったく違うとどこかの謹厳な古本屋に言われてしまいそうだが、心情には言語のルールなど適用されないのだし。屁理屈を思い浮かべながら、触れた掌をそっとさする。くすぐったかったのか、指を握り込むような仕草に慌てて益田は手を引っ込めた。そういえば数時間前も似たようなことをしたと、いささか気恥ずかしくなる。相手が起きていては、無駄にドキドキしてしまって触れたり想ったりできないのだから許してほしい。
 榎木津が身じろぐのが、益田の躰にダイレクトに伝わった。ゆっくりと覚醒していく生き物の気配に、途端に鼓動が早くなる。困惑と、確かな期待で、瞬きさえできなくなった。

 榎木津は目が開かないまま小さく呻くと、腕の肩近くがやけに重たいのに益田が居ることを思い出した。
 居るならいい。もう一度意識を手放そうとしても、微睡みはするがいまいち眠りに落ちきれない。
 睡眠不足だろうと実際に体が疲れていても、心がわくわくしてしまっては眠れるわけがなかった。
 しぶしぶ目を開ければ見慣れた薄ぼんやりとした景色で、左に視線を流して漸く黒い頭が見えた。寝る前、散々触れて梳いた髪が、シーツの上に広がっている。あちら側を向いて寝ている益田の顔が見えないのは当然だったが、なんとなく面白くない。顔が見たいと思っている自分自身についても、何だか面白くなかった。
 起こすのもシャクだが眠りにつけないのも事実で、しばらくそのまま、榎木津は益田のことを考えていた。
 なんとなく、起きている気がした。
 なんとなくだった。息遣いや、部屋の空気をほんの僅か揺らす振動や、腕から直接伝わる体温と、布団に篭る二人分の温度の具合、そういったものをすべてつぶさに榎木津が感知できるわけがないのだが、なんとなくという感覚で榎木津は確信をしていた。
「なあ」
「はい」
 息継ぎくらいの間を持ってから、益田は寝起きではない声で応えた。
 榎木津は、少しだけ室内の気温が高いこと、今日は晴れるのだろうということを考えながら、左に寝返りして益田の背中を抱き締めた。
 益田の髪の匂いは、数時間前よりも甘ったるさを増した気がした。
 ただ起きているのを確認するために呼び掛けただけだから、そう生真面目に返事をされても既に榎木津の用事は済んでいた。新しくできた用事といえば下半身の方にないこともないのだが、別に口に出すことではない。ただ目の前に白い肌があったから、榎木津は益田の頭に敷いた腕はそのままに、抱き込んでいた手で肩甲骨の辺りを一度撫でて、ぴくりと身じろいだ瞬間にできた影に唇を押し当て強く吸った。
「ひっ、ちょ、榎木津さん」
 特に意図などなかったがこの夜初めてつけたキスマークに、榎木津は自身の執着心を見た気がして、ふむと一人ごちる。痕をつけてしまうほど、今夜のことを忘れてほしくなかった、。こんな鬱血、つけるだけ無粋だというのに。
 益田の気持ちなどどこまでもお見通しだったが、どこまでも侭ならないのも事実だった。下僕というポジションに安寧を見つけているらしい益田が榎木津と恋愛関係になることを不安に思っているというのは知っているし、榎木津自身も日頃殴ったり蹴ったり下僕として使役しているものをいきなり今日から恭しくエスコートすることなんて出来ない。
 けれど、仕方ない。益田はわかっていないようだが、避けられないし逃げられない。
 想い合うとばれてしまった二人は、きっとその瞬間から、誰がなんと言おうと恋人同士なのだ。
 榎木津は益田の首に顔を埋める姿勢で落ち着いてから、ゆっくりと語り始めた。
「益山ぁ」
「あなたさっき益田って言ったじゃないですか」
 急ぐことはないのだし――そう思えば、口調も自然と穏やかになる。
「僕はまだ眠い」
「・・・寝ていて下さい。私、そろそろ起きますから」
「うん?もう?」
「だって・・・和寅さんが起きたら、応接にいない私をあやしむでしょう。この部屋から出てきたと知られた日にぁ貧血で倒れんじゃないですかね?」
 無理に軽い口調を作っているのが明白な言い方は、いっそ健気なのかもしれない。
 益田の悪あがきなど無駄だと強く思って腕に力を込め、別にいいよと耳元で言ってやった。
「勝手にすればいい。ここ出てソファで狸寝入りするなり、始発で帰るなり」
「・・・はい」
 好きにしたらいいと思った。実際のところ、二人でいい加減寝飽きるくらい睡眠を貪って、セックスをして疲れてまた眠る、そういうのもいいと思うのだが、別に「次回」にしてもよいのだ。
 ――それよりも今日は、

「目が覚めて服を着て、この部屋を出れば、お前はまた仕事をしているよな」
「まあ、平日ですから。出勤しますけど」
「そうしたら、」
 キスしよう。長いやつ。

 榎木津の部屋というある種の特別空間ではなく、真昼間のいつもの二人が居る所、例えば事務所か台所かビルの屋上でもどこでもいいから、誰も見ていないタイミングでキスをする。そうしたらきっと、お互いに何も言い訳ができなくなる。
「わかったか?」
 益田は片手で顔を隠すような仕草さをしながら、小さく頭を縦に振った。泣いているのかと思い榎木津が覗き込んでみると、目をぱっちりと開きながら困りきった時のように眉を八の字にしていて、これはどうも照れているのだとわかる。
 見なければよかったと、榎木津は思った。
 安心したら眠くなってきたというのに――照れくさくて、眠れない。

 
 口付けの約束をした意味を考えながら、益田は一時間だけまどろんで、榎木津の寝台を出た。音を立てないように部屋を出ると幾分か事務所の空気が冷たく感じられて、人二人がいた部屋が随分と温かかったのだと知った。
 晴れた朝の青白い空気を纏う事務所には、もう台風の気配はない。台風が過ぎれば、気温はどんどん高くなるだろう。
 ――抱き合うにも暑い季節だ。
 ぼんやりとそんなことを思って、その相手が誰かを思い出し慌てて思考を切り替える。ソファの上には、昨夜榎木津が戻ってくるまで使っていた毛布が丸まっていて、それを丁寧に畳んだ。
 奥の和室の扉が開く音がした。寅吉の起床に、訳もなく慌てる。
「あれ・・・おはよう益田君。早起きだな、もう行くかい?」
 身形もきちんとして起きてくる辺り榎木津のお守りが長いだけあると関心するが、ごしごしと目を擦る様子はいかにも眠たそうだった。
「ええ、始発も出てますし」
 壁の時計はもう少しで六時と指している。寅吉が起きてくるまでには起きると決めていたが、結局ぎりぎりになってしまった。やはり寝不足だったし、久々の性行為に(しかもあれはなかなか長丁場だった。)疲労感もあって、頭がぼんやりとしている。
「うち戻って、お風呂入ったら出社しますね」
「朝食くらい食べてったらどうだい?」
 なんだかんだと言いながら面倒見のよい薔薇十字探偵社の給仕(兼秘書)は、百パーセントの善意で益田を労ってくれる。しかし、今の益田にはほんの少しだけそれが後ろめたかった。食欲の方も寝不足が原因なのか減退しているし、そして何より。
「いやいや。ありがたいお申し出ですけど、ご飯食べてたら出社遅れちゃいますからねぇ」
「ふん、ここに出社時刻も何もあるかい」
「何を仰います。私はいつも決められた時刻までにきっちり出勤していますよ?そりゃぁたまぁにやむを得ぬ事情で」
「ああはいはいわかったわかった」
 呆れた顔をする寅吉に、益田はへらりと笑って見せて、茶を一杯だけ所望した。
 やがて出てきた熱い茶をちびちびと飲めば、だいぶ体が起きてくる。よしと思って、益田はバッグを持ち上げた。
「和寅さん、では、また来ます」
 できれば早く帰って風呂に行きさっぱりさせて――榎木津が起きるまでに、ここに戻ってきたかった。
 はいはい行ってらっしゃいという合っているような間違っているような声を背に聞いて、探偵社を出る。扉の前とビルの階段のところどころで、昨夜で乾ききらなかったらしい水滴があった。
 ――昨日、榎木津さんが帰ってきてくれてよかった。
 益田は、数時間後にするのだろうキスの後に言えたらいいと思いつつ階段を降り、そしてビルを出た頃、やっぱり無理かもしれないと思い直しながらぱりぱりと頭を掻いた。 


(終)


 

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