病気で妹を亡くしたことも、母親がそれを悔やんで倒れたことも、松枝の性質を決定的に影響を与えた事柄ではなかった。
トラウマなどと世間では耳慣れない言葉ひとつだけで「変身」するほど、人の性質は単純なものではないと松枝は思う。物心が着いたその瞬間から、松枝は松枝自身だった。がらりと性格が変わった瞬間など訪れなかった。
妹を亡くした時には、母の痩せた肩越しに、小さな遺体を何も言わずに見ていた。母に語りかける言葉など何もなくて、松枝はただ母にくっついていただけだった。泣いた記憶もあまりない。
「あんたは、まだ、わかんないのかしらね」
頭上から聞こえた母の声を覚えている。わかってるよ、そう言ってやりたかったが、結局松枝は何も言わずに、目を丸くして母を見上げただけだった。そうするのが、母のためになる気がした。子供のふり、わからないふり、悲しんでいないふり。母が抱える悲しみを少しでも吸収することができるように。それをしようと思える性格は、決してその瞬間に生まれたものではなく、もっとずっと前からゆっくりと育まれていたと思っている。
母が倒れ、父が帰還し、食べる物が増え学校が再開される、そういった時間の流れとともに誰かの努力で整い変化を繰り返す生活を眺める間、「変身」しない自分が不思議だった。
身長と体重、声、知識の量や体力、それらは著しく変化していくけれど、アイデンティティというのはなかなか変化しない。「変身」などしない。
いつだって、「僕は僕自身」だった。
人がする自分の評価は知っている。それを間違っていると思ったことはない。表情が乏しい、口数が少ない、無愛想、よく言えば、穏やか。それと、ちょっと変わった奴。
自分では自分が変わっていると思ったことがない。よくいる、よくある、そういう性格だと分析していたが、世間は自分を変わり者だと認識するようだった。
なぜそうなったのか、という理由などに関心はない。いくらでも答えは出せる気がしたが、松枝には無意味な問いかけに思えた。意味がありそうだと思う問いかけならば、「好きか嫌いか」。
自分を好きでいられるか否かというのは、若者にとって非常に重要な問題だと、主体的にも客観的にも思う。
松枝は結局、どちらでもなかった。好きというほどの自己愛は見つからず、では嫌いかと言われたらそうでもない。
「それってつまり、好き、なんじゃないですか?」
どうしてそういった話になったのだったか。
きっかけは、太宰治の小説だと記憶している。
少しつり気味の大きな瞳は、もし黒い目の猫がいたらこういった印象になるのだろうという想像をさせる。世界でもっとも魅力的だと、松枝が信じてやまないものこそ、その瞳だった。
「憎むか、受け入れるくらいしか、できないと思います。自分のこと」
自分の性格の由来など微塵も関心はない。けれど、美由紀が語ることの由来は、喉が焼けるほどに知りたくなるのは何故なのか。
「松枝さんは、受け入れている人ですよね」
美由紀はまっすぐに松枝を見つめる目で、遠い誰かを哀れんでいた。
その通りだと、松枝は口にはせずに、そうかなと語尾を曖昧にした。
誰を見ているのだろうか。誰を思い出しているのだろう。誰を想っているのだろう。その思慕すべて自分に向けるにはどうしたらいいだろう。
何が効果的だろう。
どうしたら。何をしたら。
どういう手順で。
そういった、きっと傍迷惑だろう己の感情を、松枝は若者らしい生命力だと半ばのほほんと客観視し、野放しにしているのだった。
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