舞台明転
魚を三枚におろしたらそれぞれが膨らんで元に戻り魚がどんどん増えていく、という世にも奇妙な歌で、榎木津は目を覚ました。
「…何時?」
睡魔に勝てず、目は開けないままで尋ねる。歌は台所から聞こえている。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたね。寝てていいですよ」
「うんー」
言われるまでもなくまた眠りの世界へ戻ろうと、布団を身体に巻きつける。いつも自分が使っている布団よりもはるかに薄いが、人の家に泊まっているのだから文句はない。人肌に温まった床の中は最高に心地よかった。本当は、ほんの数時間前までそうしていたように、この腕に布団ではなく恋人を抱きしめて寝るのが一番温かくて気持ちがいいのだが――その恋人は何故だか台所に立ち、実に気持ちの悪い歌を歌い続けている。
「27匹にーなったのでー三枚にーおろしましたー」
榎木津は、それはもうものすごく眠たかった。それなのに、巻き付けた布団を通過して耳に入る歌が眠りを妨げている。歌声は大変可愛いのだが、何せ内容がおかしい。おろし続ける魚はやっぱりそれぞれ膨らんで元の形になり、81匹にまでなった。
「81匹にーなったのでー」
まだ続くらしい。増殖する魚の数に煽られるように苛々としてくる。
歌が終わりそうもないこと、歌の内容が気持ちい悪いこと、眠たいこと、寝るまで腕の中にいた恋人が起きたらいなくなっていたこと、気に入らないことの正体がわかればわかるほど苛々は増してくる。こうなると愛しい眠りの世界も遠ざかるばかりだ。
むくっと腹筋だけで起きあがった。
「おい…そこの女学生」
寝起きでいつもよりもさらに霞む目を凝らして、台所にいる小さな背中に声をかけた。
「あ、ごめんなさい、寝てていいんですよ?」
くるりと振り返った美由紀はすっかり身支度をしていて、表情も晴れやかだった。
寝る直前まで下着も着けていなかったくせに――。何だか、ちょっと気に入らない。
「寝てていいって寝ていられるものか!何なんだその歌は!あるかそんなこと!」
きょとんとしている美由紀をよそに机の置時計を見れば、短針は3の数字を指している。
「あっ!?まだ夜中の三時じゃないか!なぁにを考えとるんだ女学生!」
不機嫌極まりない表情で喚く寝癖だらけの男に、美由紀は慣れた様子で朝の三時ですと訂正した。
「この時間に起きないとマズメ時に間に合わないんですよ」
「…升目?何だそれは」
「マズメ時。日の出日の入りの時間のこと。魚が活発になってよく釣れるんです」
「真面目過ぎだか北勝鬨だかそんなの知ったことか!・・・だいたい君は…こういう朝でも、釣りする時だけは早起きできるんだな」
終わりにため息をつけば、美由紀はくるりと振り返って口をへの字に曲げた。この顔は怒っているというよりも照れている時である。その一方で、手はおにぎりを握るのをやめない。
「探偵さんに言われたくありません。だいたい・・・昨夜は早寝するって言ったのに・・・!」
照れくさそうな原因が知れて、榎木津は少しだけ気分を浮上させた。
「だから、やめるかって聞いたじゃない」
あぐらの上に片肘をつき手に顎を乗せたポーズで、にやりと笑いかける。美由紀はつりあげていた眉尻をかくんと下げて口ごもった。
「あ、あんなところまでして、やめるって、できるわけ・・・ああもういいです!」
言えば言うだけ墓穴を掘ることに気づいたらしく、美由紀はもとのように台所に向き合ってしまった。ねらい通りにからかわれてくれる恋人が可愛くて、榎木津はつい口をにやつかせてしまう。のだが、
「誰と行くの」
「青木さんと伊佐間さん」
「変な面子だな」
「そうですか?」
「弁当まで作ってるのか」
「そうですよ」
起きている自分を放ってせっせせっせと弁当作りに励む恋人のことが、榎木津は少しだけ気に入らない。
「そんなの・・・釣った魚を葉っぱで巻いて食えばいいじゃないか」
「そんな食べ方はできないです」
美由紀が的確な突っ込みを入れた時だった。
ジリリリリ、と玄関の電話の音が鳴り響いた。真夜中の電話はかなり音が響く。美由紀は慌てて手を拭き、電話をとった。
「もしもし、ああ、青木さん」
電話は青木からのようだった。
いつの間にあのコケシと釣りに出かけるような仲になったのだろう。榎木津はまだ重たい瞼をごしごしと擦りながら、首を傾げた。確かに共通の知人は多いが、これまでそう接点があったとも思えない。しかし、考えてみれば二人とも生真面目なところがあるし、性格的には合うのかもしれない。
何だかやっぱり不愉快だった。
「え、ええ!? だ、大丈夫なんですか?――そうですか…」
電話の美由紀の声はどんどんトーンダウンしていく。では、と電話を切った後にはため息までついた。
「コケシがどうかしたのか」
尋ねてみれば、美由紀は大量にできたおにぎりを見詰めながら、不満げな声を出した。
「青木さん、また犯人の家に踏み込んで怪我をされたそうで、行けないって」
「ああ、いつかもそんなことで入院していたなあ。馬鹿なコケシだなあ」
実際の青木の状況を考えれば暢気すぎる会話をしていると、再度電話が鳴った。再び美由紀が電話をとる。
「もしもし、ああ伊佐間さん。実はさっき青木さんが――えっ?」
今度もまた釣りへ行く面子の一人からだったらしい。そうして先と同様に、しかしさらにどんよりとした調子で、美由紀の声が暗くなっていく。電話を切った時には、美由紀がする表情にしては珍しく拗ねた子供のように口を尖らせていた。
「あの老人男は何だって?」
「…おたふく風邪ですって」
はあ、と特大のため息をつきながら美由紀は答えた。
おたふく風邪とはハテ何だったか。榎木津は思い出す。確か小さな子供がよくかかっているような。
「あいつは三十路を過ぎてるぞ?」
「かかるものはかかるんでしょう」
はあ、と美由紀はまたため息をつく。
「せっかくお弁当まで作ったのに…」
がっくりと肩を落としながら、大きな弁当箱に詰められたおにぎりを眺めた。それから、ふいに視線を上げて榎木津を伺う。視線を受けた榎木津は、彼女が言わんとすることを珍しくも察した。
「僕は行かないよ」
行かないという意思表示がてら、蚕のように布団を被って寝転がった。そんな防御壁には負けずに、美由紀は布団の脇まで近寄って言い募る。
「ねえ一緒に行きましょうよ。お弁当、美味しいですよ?探偵さんだって釣りするじゃないですか」
美由紀は日頃あまりしない甘えた声を出しながら、布団の蚕を揺すった。こうすると榎木津が無視しきれなくなるのを知っているのだ。
「…君のお弁当は食べたいし釣りは好きだけど、今日は嫌だ。寒い、そして眠い」
「父の船を借りて近海で釣るだけですよ?」
「コケシもイサマも急に都合が悪くなったということは、今日は釣りに向かないのだ。神のお告げだ」
「神様は探偵さんなんでしょう?探偵さんが来てくれたらいいじゃないですか」
「何か変なことが起こるぞ。釣った鮪が襲い掛かってくるとか、おにぎりが爆発するとか。ん?それは何だか面白そうだな…」
「鮪は釣れませんしそんな危ないおにぎり作っていません」
「雨が降るとか」
「晴れてるじゃないですか」
「あ!そう言えば天気予報で今日は晴れのち…ブラックバスだって言ってたぞ」
「そんなわけありません」
「降ってくるんだから行くことないじゃないか」
「絶対降ってきませんよ、屋根あるし」
ねえねえ、と美由紀はゆさゆさと布団の塊を揺さぶる。
――ああまったく、このこは。
真夜中に気色悪い歌で起こされたかと思えば美由紀は布団の中から消えていて歌いながらおにぎりを作っているし一緒に釣りをする仲間は妙な面子だしせっかく今日は予定がなくて美由紀だって仕事がなくてだからこそ釣りに出かけたいのだろうけれどそれがなければ思う存分デートができるしそもそもまだ朝まで時間があるのだからいろいろとできるのに、と、榎木津は思う。
元来の寝起きの悪さと苛々があいまって、我慢も限界にきていた。
榎木津は布団の隙間から顔を出し、一度美由紀を睨みつけた。
一瞬、美由紀が怯む。
がばりと上半身だけ起こす。
あのねえ――。
「観念してここに居なさい!君は僕の恋人だろうが!」
榎木津の勢いに、美由紀はぽかんとして数秒の間黙って榎木津を見詰めた。
「まあ、そうですけど」
やっと出た言葉は、不服を隠さぬ調子の肯定である。
「そうだろう!」
「理由になってないですよ」
不満そうにぶつぶつと呟いてはいるが、この顰め面は照れ臭さからだというのは既にばれている。そういう美由紀を見て、榎木津はにやりと笑った。ばふっと布団の端をめくると、覗いた敷布団をぱんぱんと叩く。
「わかったらこっち来なさい」
「…いつも強引なんだから」
頑なに顰め面をしているが、どうせすぐに柔らかくなるに決まっている。
榎木津は非常に愉快な気分で、擦り寄ってきた恋人を布団でくるみ込んでその腕に閉じ込めた。
「ああ、そうか」
「はい?」
「マズメ時ってこういうこと?」
「馬鹿ですか」
思ったとおり美由紀の表情はもう解れていたけれど、減らず口はまだ足りていないらしい。こうなれば先手必勝――榎木津はその唇を塞いだ。
舞台暗転
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