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★探偵×女学生
茶を受け取り礼を言うと、美由紀は微笑んだ。
「どういたしまして」
そう言った彼女の笑顔を、軽やかだと思う。
華やかだとか、可憐な花が綻ぶだとか、そういった大袈裟な形容は似合わない。あえて言葉を尽くせば――ううん、ストーブで温まり淀んだ室内を洗う、冬の外気とか、あとは、書類の整理が終わってから口をつけた、少し温くなった珈琲とか、そういうものだろうか。
なんか違うかなあ。
益田は首を傾げながら、白い湯気がのぼるほうじ茶に口をつけた。
この少女と出会ったのは、もう四年近くも前のことだ。そのことに思い至って、少なからず衝撃を受ける。月日が経つのは早い、そんなありふれた言葉しか浮かばない。
美由紀は月に幾度か、この頃に至っては週に一度はふらりと訪れて、益田の上司である探偵の遊び相手になったり、益田を含む探偵の被害者達の愚痴を聞いてくれる。もちろん、ボランティアでやっているわけではない。
彼女には彼女の思惑がある。
そのことに益田が気付いてしまったのは、一体いつだったか。
下心、は何も不埒な男だけのものではない。
来客予定のない、平日のだらだらとした夕方である。書類の整理を一通り終わらせた益田は、美由紀の相手でもしようかと応接ソファに腰掛けていた。
ほうじ茶を啜りながら、何とはなしに声のする方へ顔を向ける。
窓際の大きな机には、居るだけで無駄に存在感を主張する美貌の男が、だらしない姿勢で腰掛けていた。益田が勤める薔薇十字探偵社の主、榎木津礼二郎である。
彼は稀に見る美形だが、さすがに数年の間ほとんど毎日見ていれば見慣れるものだ。(至近距離で睨みつけられるのは未だに怖いのだが)しかし今、益田が見る景色に、見慣れぬものがあった。
榎木津の表情と、彼に対峙する少女の存在、それだけやけに見慣れない。
榎木津は自身の机の上でだらしなく肘をつきながら、上目遣いに美由紀を見上げていた。美由紀が一言何事か添えながら、机に湯飲みを置く。
違和感の原因は何かと考えて、最初に思い至ったのは、距離、だった。
距離が近い。
美由紀は榎木津が座る椅子のすぐ脇に、実に自然に、でもよくよく考えてみれば異様に、ひたりと添うように立っている。
益田はもちろんのこと、家族のような付き合いである和寅だって、こういう風に榎木津に近づかない。(男に近寄ったところでお互いに嬉しくないということも大いにあるけれど。)
榎木津は姿勢を変えぬまま、ありがとうと言って笑った。緊張感のまるでない弛緩した笑い方が、相手への信頼を表している。美由紀もまた、それまでのどこか張りつめていた口元をゆるめて、安心したように笑った。
見てはいけないものを見た気がした。
同時に、目が離せないのだ。
いつから。
いつからこうだったろうか。
最初から、本当に最初からこの二人はこうだった気もする。しかし、そうではなかったようにも思う。
出会った頃、美由紀は少女であり、子供で、榎木津と並べば、親戚のおじさんと姪っ子くらいにしか見えなかった。男女の緊張感などまるでない。美由紀が榎木津の美貌に惑うような素振りを見たことはなかったし、榎木津も、彼はどの女性に対してもそうだが、可愛い可愛いと言いながらも色っぽさの欠片もない、やたら騒がしいやり方で彼女と接していた。
距離感など、最初からなかったけど、
かと言って、こんな、今みたいに、
こんな、密度の高い空気を持っていたはずはない。
先週の日曜日、榎木津は実家の車を借りて、美由紀と二人して出かけて行ったらしい。和寅からその事実を聞いた時、益田は複雑な気持ちになった。
二人で遊びに行くことはこれまでにもあったが、車を使うような遠出は聴いたことがない。
それって、デートじゃないか。
益田は少しだけ、不安に似たものを覚えた。すでに予期していたような気もするし、とても自然な成り行きだとも思う。同時に、恐れていたことが現実になりかけて、焦燥を感じているようでもある。
長い前髪の隙間から二人を覗く。やっぱり、はらはらしてしまう。心配になる。
榎木津はわかっているのだろうか。
自分が今どんな表情で美由紀を見ているのか、榎木津は自覚しているのだろうか。
男の顔になっちゃってますけど、いいんですか?
「探偵さん」でも、
親戚のおじさんでも、お兄ちゃんでもお父さんでもその他保護者でもなく。
益田は、次の瞬間、目にかかる前髪をびくりと揺らして細い目を瞠った。
机に投げ出していた榎木津の手が、美由紀の制服のリボンにかかった。
性格に似合わぬ気品に満ちた唇が、何か低く呟く。
長い指が、赤いリボンをするりと解く。
美由紀の黒い瞳から放たれる眼差しは静寂を保っていて、榎木津の指先が動くのを見守っている。
先の爽やかさが嘘のような、まるで、秘め事のワンシーンだった。
益田は今度は本当に後ろめたさを感じて、視線を外した。
榎木津の柔らかな視線も、美由紀の、静かすぎた伏し目も、当人達以外が目にしていいものではない気がした。
「自分でできるのに」
「可愛く結んであげるから安心しなさい」
「…ありがとうございます」
緊張感のない会話が聞こえてきて、益田はやっと冷静になった。
思わず不穏な想像をしてしまいそうになったが、よくよく考えてみればどうということもないワンシーンなのだろう。美由紀の解けかけたリボンを見て、榎木津が結び直したとか。
それでも、とてもじゃないが、益田には先のシーンが、子供の服を直す親子のような微笑ましいものには見えなかった。
わかっていないのは、たぶん二人だけなのだ。
「できた!」
子供があやとりでも覚えたような声に、益田はもう一度恐る恐る、視線をずらしてみる。
二人の間にあった、不必要なほどの濃密な空間はもう消えていた。いつもの、どこか気抜けする、探偵さんと女学生君の二人にしか見えない。
美由紀は落ち着いて見えたが、困り果てたように口を曲げていた。いやなのではなく、照れくさいのだろう。「ああそうだ、脚は平気かい?」
「平気ですよ」
何の話だろう。益田にはわからない話題だった。
「本当に?」
榎木津は美由紀の顔をのぞき込むようにしてから、タンっと音を立てて椅子から立ち上がった。それから、おもむろに、美由紀の脇を抱えあげる。
益田はもう少しで声を上げて榎木津を止めるところだった。
美由紀は暴れる隙も与えられぬまま、先まで榎木津が肘をついていた机の上に座らされ、まるで突然抱き上げられた猫の子のように身体を強張らせている。ほんの僅かの不自然な間があって、年頃の娘らしからぬ悲鳴が響いた。
「ぉわぁ!?」
美由紀は机から降りようともがいていたが、榎木津は美由紀の腰の横に手をつき、さらによく見れば、机に広がる制服のプリーツの上に手を乗せている。これでは動けたものではない。そもそも、暴れたり机から降りようとすれば、自然と榎木津の胸に飛び込むような形になってしまう。
「ど、どいてくださいよ!」
「やぁだ」
益田からは美由紀の背中と榎木津の肩や腕の輪郭くらいしか見えないが、声や物音から何が起きているかは知れた。興味と心配と、うんざり、という複雑な気持ちの配合で、二人のやり取りを鑑賞する。
榎木津は素早い仕草で美由紀の靴を脱がすと、机の上に転がした。
その途端、美由紀の体がせわしなく傾いで、机を蹴っているのか騒がしくなる。
「け、怪我はっ、治りましたってば!」
「ほーら、そんなに暴れて――」
榎木津の上体が、美由紀の方へ倒れた。彼の、秀麗な造作の顔が、美由紀の肩、耳に寄せられる。
耳元で、何か囁いた。
美由紀の肩がはっきりと震えた。
彼女の腕が慌ただしく動く。服を直すような仕草に見えた。すぐ後に続いたのは、普段の美由紀にしては大きな怒声だった。
「さっ、さそ、何を誘うって言うんですか!」
何を言ったんだ榎木津さん――。
益田は視線をはずして、誰にも聞こえないようにため息をついた。
「うん、治ったようだね」
「わ、わざわざ確かめなくても知ってるくせに!この間だって・・・!」
「ふん。僕が散々休めと言っているのに、君は聞かずに学校で暴れ回るじゃないか。また傷が開くぞ」
「暴れていません!授業です!」
何の話だかさっぱりわからない。しかし、
益田は一応、探偵助手、のつもりでいるので、
ああこの二人には、お互い双方向の下心、があるのだな。
それくらいの秘密なら、わかってしまう。
美由紀を駅まで送り、戻った榎木津は、寒さのためか白い肌を赤くしていた。帰宅の挨拶もおざなりに、寒い寒い寒いと子供のように喚き散らす。
「お帰りなさい」
声をかければ、ほんの一瞬目が合って、馬鹿にするように目を細くした。
「なんだお前いたのかマスヤマ。このマスカメ」
カメ?
カマなら呼ばれていた気がするが、呼ばれなれぬ呼称の出所がわからず、益田は首を傾げた。
榎木津は本当に益田など見えていないように、寒いぞ寒いな冬は!などと騒ぎながらコートを脱ぎ、珈琲を所望したりした。
こんなに寒い日に、勝手に訪問してきた美由紀をわざわざ榎木津自身が見送りに出かけるようになったのも、いつからだったろうか。
益田は珈琲をいれながら、意識したことのなかった記憶を辿る。
ほんの数ヶ月前までは、外が明るければ美由紀は一人で帰っていたし、暗くなっていれば益田か和寅に見送らせていた。榎木津自ら出向く時は、自分に出かける用事があるとか、美由紀と遊びに行くとか、何かのついでのようだったのに。
この二人って、実はもう、
下世話だろうかとも思ったが、榎木津は機嫌が良かったし、珈琲を差し出すついでもあって思い切った。
「あのぉ、榎木津さん」
「何だマスカメ」
榎木津は指定席にどっかりと腰掛けると、道端の石コロでも眺めるように益田を見た。
「・・・何なんです?カメって」
榎木津は、意地悪くにやりと笑った。こういう顔は、美由紀には絶対に見せないに違いない。
「カメじゃないか。カメカメデバガメ。デバガメオロカは馬に蹴られて死んでしまえばよいのだ」
益田のわずか頭上を見ながら茶化し、出された珈琲をずずっと啜る。益田は顔面が熱くなるほど恥ずかしくなって、もう何も聞けなくなった。
しかし、いろいろと見せつけられていた益田としては、このまま笑われてばかりというのは悔しかったから――
「・・・よそでやってくださいよ」
と、弱々しくもはっきりと、不満をたれた。
榎木津は、やっぱり益田としては全く面白くないことに、機嫌良く笑った。