唇に乗せられた淡い紅色は、美由紀が心配したより肌の色と馴染んだ。
耳にかかる髪を後ろに回し藍色のリボンで留める髪型も、自分では似合うと思えなかったのだが、鏡の中を見ればそれなりに様になっている。
「好い人に逢いに行くなら、お洒落しなきゃ」
「良い人じゃないよ」
美由紀が会いに行くのは知り合いの探偵である。大事な用があるわけでもない。
今日は神田の古書店街へ本を見に行くつもりだった。そのついでに神保町にある探偵事務所へ顔を出そうかと思っているだけである。
わざわざ丁寧に説明するのも言い訳染みている気がして、美由紀は友人に礼を言ってすぐ部屋を出た。
美由紀は一時間ほど古書店街を見て回り、中野にある古書店の主がいつか勧めてくれた作家の名前を見つけて、赤い表紙の、悩ましげなタイトルの小説を一冊だけ購入した。
それをバッグに忍ばせて、枯れた色彩の通りを歩き、探偵社を目指す。
美由紀が初めて薔薇十字探偵社を訪れたのは、もう二年以上も前のことである。酷く悲しい事件に関わってしまったことがきっかけだったが、何やかやと親交は続いていた。幾日と置かず訪問することもあれば、一ヶ月以上顔を出さぬこともある気ままな付き合いである。
訪ねてみれば、クセの強い面々にため息をつきたくなることが多いと言うのに。
美由紀は、中でも際立ってクセのある非常識で迷惑な探偵を思い出し、ウキウキとしながらビルの階段を昇った。
探偵・榎木津礼二郎は、自室の扉から幽霊のような足取りで出てきて、血の気のない顔を持ち上げた。明らかに寝惚けた半目で美由紀を一瞥する。
「やあ女学生君可愛いなあ」
声量もイントネーションも適当な言葉は、とても頭を通過して出たものと思えない。
「おはよう、ございます」
美由紀が呆れ顔で応接ソファから挨拶をすると、探偵はうんーと子供が甘えるような声を返した。全身から気だるさを発散させながら、その長い脚をずるずると引きずり探偵の指定席にぼすっと落下する。だらしなく机に肘を着いた前に和寅が珈琲を出し、ぼんやりとそれを見詰めて、ようやくそれが飲み物であるのだと理解したかのように手を出した。
こんな状態でも着替えようという気はあったらしく、ゆったりとした作りの生成りのセーターに焦茶色の綿のズボンという恰好で、探偵にしては真っ当な服装だという感想を美由紀は持った。何せこの探偵は、時々常人が理解に苦しむ恰好をしていることがあるのだ。
「あーあー先生、せっかく美由紀さんがいらっしゃってるんですから、もうちょっとしゃんとして下さいよ?」
和寅は例によって保護者のようにそう言うと、困ったものだと言わんばかりの顔で美由紀に笑いかけた。
美由紀は呆れてはいるが、数年遊びに来ていれば幾度か、起き抜けで最悪に機嫌が悪いまたは最悪に使い物にならない探偵に遭遇しているから、さほど驚きはしない。
和寅が出してくれた珈琲を啜りながら、美由紀は探偵に目をやった。
窓から差す自然光に、寝癖で跳ねる髪が透けて、茶色か、金色にさえ見えた。蒼白だった頬は、熱い珈琲の効果かほんのりと赤味がさしている。
――やあ女学生君可愛いなあ。
起き抜けの探偵の台詞を思い出して、ため息とも言えない程度に息を吐いた。
気にしても仕方のないことだ、と思う形で、気にしてしまう。
和寅でさえも、美由紀を一目見てすぐ、おや今日はいつもと雰囲気が違いますね、とそれなりの感想を口にしたのに。
探偵は日頃から、美由紀を見て一言目に可愛い可愛いと言う。先に探偵が言った可愛いなあも、口癖のように出てきた、言わば挨拶の一部分に過ぎないだろうと思った。決して、美由紀の唇や髪型を見た感想とは思えない。
少しだけ退屈な気分になった自分を見つけて、美由紀は恥ずかしくなった。
背後から玄関の鐘の音がした。振り向けば、グレーの帽子に灰緑の外套という出で立ちの益田だった。
「ただいま戻りました。っと」
軽い調子で挨拶をしてから美由紀を見つけると、切れ長の目がさらに細くなる。
「やあ来てたの美由紀ちゃん。何だか今日は大人っぽいねえ」
帽子や外套を片付けながら、にこにことしてそう言った。
いざ男性に真正面からそう言われると、さすがに美由紀も照れ臭かった。否定も肯定もできずに、そうですかと中途半端に返事をする。
益田はちらと探偵机の方を伺ってから、美由紀の正面のソファに腰掛けた。
「何だか最近ぐっと大人っぽくなった気がするなあ。声をかけてくる男子学生とかいない?大丈夫?」
益田の軽薄な笑い顔は、心配より好奇心が勝っているのが明らかだ。
「ええ?大丈夫ですけど…」
確かに美由紀は最近、街中で声をかけられたことがあった。
今日のように神田の古書店街を歩いていた時、同年代の詰襟の学生に話しかけられ、その時手に持っていた本の話をしたのだった。なんとなく知り合いの古書肆を思い起こさせる風貌と喋り方をする人物で、美由紀は微かな親近感を持って言葉を交わした。しかしそれきりのことで、美由紀は彼の名前すら知らない。
益田は美由紀の表情に何を思ったのか、腕を組み訳知り顔で言った。
「男なんて真面目そうに見えても、心の中に狼を飼っていたりするんだからねぇ。気をつけないと」
「気をつけるべきはこのマスカマオロカのような変態だ女学生」
華麗な低音の罵倒が上から降ったかと思うと、ソファのクッションがばふっと沈み、探偵が美由紀の隣に腰掛けた。
長い脚を組み、両腕をソファの後ろにかけるポーズはあからさまに威張っているが、この探偵においては威張っているのが状態である。美由紀は探偵の態度に、やっと目が覚めてきたのだろうと判断した。
探偵は不満を訴えている己が下僕を完全に無視して、澄ました顔を美由紀に向けた。それに応えるように、美由紀も探偵を見る。ぴょんぴょんと跳ねる髪は間抜けだが、鳶色の瞳は凛としていた。
服の色合いが柔らかなこともあってか、今日の探偵はいつにも増して年齢不詳だと思った。内面はともかくとして、外見は立派すぎるほど立派な成人男性に違いないのに、どこかあどけなさまでも感じられる。
「どうかしました?」
じっと見詰めてくる探偵に、美由紀は首を傾げた。いつの間にか、探偵の瞳は僅か上にスライドし、美由紀の頭上の空気を視ているようだった。探偵はそのままの目線で、顎に手を当てると、何か思案するように一度唸った。次に、テーブルの一点、美由紀が座る前辺りを注視する。
何を見ているのか。
それから再び美由紀と向き合うと、ソファの背もたれにかけていた腕を、美由紀の頭の後ろに伸ばした。
ちょんちょんと髪を引かれる感覚があって、美由紀は探偵がリボンを弄っているのだと気付いた。
ふふ、と、探偵が、はにかむように微笑む。
美由紀は一瞬息を呑み、それから、探偵がどうして笑うのかわかった気がして、俯いた。
はっきり言葉にされるよりも余程――。
「その、谷尾崎さんの本を探しているのならあげようか」
「…谷尾崎?」
探偵は聞き返した声に構わずにすっくと立ち上がり、すたすたと歩いて自分の書架へ向かった。呆気にとられた美由紀は思わず益田を見ると、益田はゆるりと笑って探偵の向かった先へ首を傾げた。
美由紀は、仄かに熱い頬を冷ますように、探偵に駆け寄った。
和寅は買い物に出て、益田が帰ると言うので美由紀を送らせ、事務所はえらく静かになった。
酷く詰まらないような、反対に靄で充満したような気持ちで榎木津は左手を伸ばし、テーブルの上、少し離れた所にあるティーカップをソーサーごと引き寄せる。
白地に花が散るカップの縁、微かにのる淡い紅色に、親指を当てた。
ぐっと力を入れて、赤い染みを拭い去る。
色の移った指先をじっと見詰め、榎木津はふんとため息をついた。
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