手元の教科書に書かれた内容は、まるで頭に入らない。
――試験勉強?そんなのうちでやればいいじゃないか。そうだ僕が君に教授しよう!それがいい!
彼の横柄でどこか間抜けな申し出に諾と答えてしまったのは、先週の金曜のこと。
勉強の効率のことを考えれば、どう考えたって部屋にこもっていた方がいい。
わかっているのに彼の提案を強く退けることができなかったのは、数学で一題、どうしても解き方がわからない問題があったのと、もうひとつ理由がある。
探偵に会いたかった。
この一週間毎日、毎時、もしかしたら毎分毎秒、彼を思わないことはなかったくらいに、会いたかったのだ。
バカだと思う。会う理由はない。わざわざ試験前に会わなくたっていい。それでも、会いたかったのだ。バカじゃないかと思う。
そうして結局、私は今まさに後悔している。
試験直前の日曜日には、探偵社に来ちゃいけなかった。
得意科目である理科の一節さえも、熱に浮かされた頭では吸収しない。
「美由紀ちゃんも珈琲飲む?」
声のした方に顔を向けると、台所の方から益田がひょこりと顔を出していた。
「あ、わ、私いれますよ」
一応は客だとしても、日曜日なのになぜか出勤している益田に茶をいれてもらうのは気が引けた。
私が教科書を放って慌てて立ち上がると、益田はにっと笑って、もういれたから待っててと言う。
そう言われてしまっては仕方ない。私は大人しくなって、元のところへ腰掛ける。
いやに静かだと思って探偵をちらりと見ると、先ほどまで私の膝にあった理科の教科書を、興味深げに読んでいた。
「そんなに難しいのかい?」
「え?」
「ずっとこの頁を睨んでいるから」
そう言って、探偵は本を見詰めながら顎に手を当て首を傾げた。
ここにいると貴方のせいで少しも集中できないんです。
と言ってやりたい。
「いいえ。何だか、集中できなくて」
正直には言えずに、言葉をいくらか省略した。
探偵は、ふぅん、と関心のなさそうな相槌をして、私に教科書を差し出した。
「わからないなら質問しなさい」
そう言って、彼は機嫌良く笑った。
「大丈夫です。今は」
私は教科書を開く振りをして、視線を逸らした。
確かに、探偵の教え方は上手かったのだ。
私が何遍も教科書を読んでわからなかった数式も、探偵は教科書を一読してすぐに解説してくれた。わかりやすかったし、それはとても助かった。
しかし、しかしだ。
応接用のテーブルを挟んで、二人して身を乗り出して、同じ教科書とノートを睨めば、当然顔も声も近い。
心臓がばくばくと煩くて、呼吸を止めてしまえば鼓動も静かになるかと思ったから、息を止めた。そうしたらやたら苦しくて、もうこの人にご教授いただくのなんて御免だと、そう思った。
恋を、自覚する前にも探偵から勉強を教わったことは一度ならずある。
思い出せないのは、以前の私はこの人の正面に座った時、視線をどこに置いていたのだったかということだ。
彼をじっと見ていたことがあったろうか。
茶色い瞳、白い頬、アイロンがかかったシャツの襟元、どこだっていい。
私は、彼を見詰めることができていたのだったか。
目の前には無数の文字列があるのに、視えているのは向かいで踏ん反り返っている人物の先ほどの笑顔。
バカだ。バカみたいだ。
何て、何て不毛な反復。
「はい珈琲どうぞ」
「ん」
「ありがとうございます。すみません」
盆に載せて珈琲を持ってきてくれた益田に、私は恐縮して頭を下げた。
探偵にはシンプルな白磁の珈琲カップ。
私には客用に出す花柄のカップとソーサーに、角砂糖がひとつ。
テーブルの真ん中に小さなミルクポット。
和寅がいない時は益田が給仕のようなことをしているらしいので、茶を出すのも手馴れている。
益田は私に向けて、いえいえと言いながら笑った。冷ややかにも見える切れ長の目をしているのに、その笑顔の印象は懐こい。慕わしい笑顔だけれど、でも、意味もなく頭の中で再生されることはない。
この反復は、探偵に関わることに顕著に起こる。
探偵は珈琲に少しだけミルクをたらしかき混ぜると、カップを口元に運んだ。
また、視線が吸い寄せられてしまう。
私は無意識に、彼が目を伏せたり目を瞑る瞬間を探してしまっているのだ。珈琲に気をとられている彼から、視線がどうにも逸らせない。
もちろん、はっきりと顔を上げたりはしない。首の角度は教科書を見ていた時のまま、視線だけを上げる。
伏せられた瞳を飾る睫は、まるで西洋人形の目のように放射線状に広がっている。眉はきりりと太く逞しい。肌の質感のせいなのか、とても四十路に近い年齢とは思えない。おまけに、熱い珈琲の表面をふーふーと吹いている様は幼い子供の仕草と同じだ。カップを持つ指に目をやれば、細く長くて繊細な造形をしている。顔立ちや体躯だけではなく、指先のような細部まで端整な造りをしていることに何だか感心してしまう。
もう、何年も見ているのに、なぜ見飽きないのだろう。
いっそこの人に飽きて、もう二度と会いたくないと思えたら。
それがありえないことだと知っているからこそ、私は仮定し、また否定する。
猫舌の探偵は、まだふーふーと珈琲を吹いている。
やがて満足したのか、それともふーふーし飽きたのか、そっとカップを傾けて、ずずっと音を立てて啜った。その途端、びくりと口を離して、眉を顰める。
熱かった、のか。
何だか。
何だかとても。
「うん?」
彼、探偵が、突然視線を上げた。
がっちりと、視線が重なる。
大きな鳶色の瞳が、私を捕らえている。
彼が捕らえているのは、盗み見の現行犯。
私は。
私は思い切り、俯いた。
「何だい女学生君」
前方から平坦な探偵の声がする。
「いっいいえ!何でも!」
自分の返答に絶望した。
バカだ。客観的に見て、今の自分の反応はバカすぎる。
声が大きい。怪しい。何でもないようには見えない。羞恥心のせいで、頭の回転がものすごく遅くなっているのが厭というほどわかる。
顔を上げられなくて、仕方なしに目に入った珈琲カップを手に取ってみた。
顔が熱い。
赤くなるな赤くなるな。
そう祈りながら、顔を隠したくてカップに口をつける。口に含んだ珈琲は確かに熱く、さらに砂糖もミルクも入れないままだったから、随分濃く苦く感じられた。
顔も視線も上げられないから確認できないけれど、まだ探偵に見られている気がする。 それを意識すると、余計に頭に血がのぼった。
頬が熱い。バカだバカだバカバカだ。赤くなるな。
しかも、何なのだ、この微妙な沈黙は。
気まずい。珈琲は苦い。顔は熱い。いっそこの場から消えてしまえたら。
カンッ。
前方から硬い音が、静かな事務所内に響いた。
反射的に顔を上げる。
テーブルにひとつ、白磁のカップがあった。中の珈琲は小さく波を立てていて、少しこぼれたのかカップの側面を汚している。
今のは、探偵が珈琲カップをかなり乱暴にテーブルに置いた音、だったらしい。
探偵を見れば、これ以上ないくらいの顰め面で、テーブルの一点を睨んでいる。不愉快で仕方ないという顔に見えたが、もう一度見ると少し違うようにも思えた。不快は不快でも、怒りというよりは困っている顔だ。困って困って苛々している、ように見えた。
意味がわからない。わからないけれど、今まさに後ろめたさで頭をいっぱいにしている私には、彼の不快な表情は死にたくなるほど恐ろしい。
探偵はそのまますっくと立ち上がると、台所の方へ顔を向け叫んだ。
「マスカマァ!熱いぞ珈琲!」
珈琲?
探偵はそのまま大股でツカツカと歩き、台所へ立ち去ってしまった。
私は何も言えないまま、彼のやけに堂々とした背中を目で追っていた。
視界を正面に戻せば、テーブルの上には探偵の珈琲カップ、てんてんと珈琲の雫がついたテーブル、教科書に筆記具、誰も座らない応接ソファ。
自分の両肩がいつの間にか持ち上がって固まっていたのに気付いて、息を吐くのと同時に脱力した。
恐る恐る自分の頬に触れてみれば、やはり火照っている。
人は恥ずかしいことがあるとこんなに顕著に顔を熱くするものなのかと、何だか妙に関心してしまった。
赤い顔をしている私を見て、探偵は何と思っただろう。
怪しい。おかしい。挙動不審だ。そんなところだろうか。
想像をすればするほど落ち込める気がして、私はもう一度大きくため息をついた。
台所から、益田の厭そうな声と、探偵の理不尽な叱咤の声が聞こえる。
「そりゃ淹れたてですもの熱いですよ」
「煩い!下僕なら主人の好みの温度で茶を入れてくるのが当然だろうが!石田三成を知らんのかお前は!火傷したぞ火傷!」
「もうわっかりましたよぉ。何ですよいつも和寅さんにそんなこと言わないじゃないですか。あれ。榎木津さん何だか顔赤いですよ。そんなに熱かったです?」
「―――ぅうるっさい!」
声は大きいが、何だか気が抜ける内容の応酬だ。
私はようやく思いついて、珈琲にミルクをたっぷりと注いだ。
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