最初は、まるで女学生が生まれて初めてする口付けのように、彼の唇は躊躇いがちだったのだ。
放しては、また重ねて、感触を確かめる。そんな拙い口付けでも、私の方こそ少女のように、心を熱くさせた。
突然、それが何の前触れもなく変貌した。
彼の唇が、強くぶつかった。
「え?」
驚いて僅かに開いた私の口に、再び唇が打ち当たった。舌を押し込まれた拍子に顔を引くと、後ろ首を掴まれ引き寄せられ、さらに深くまで侵入される。
「ふっ――ぅんっ」
乱暴に舌を絡め取られ、きつく吸われる。ガチガチと歯がぶつかった。彼の舌は闇雲な動きで口内をまさぐり、時折敏感な箇所を撫で擦られて、頭の芯が溶かされていく。彼を怖がっている自分を意識の端で感じ、そして無視のしようもなく喜んでいる自分がいるのもわかっていた。
腰に巻かれていた手が放れ、首に触れられた。
ぐっと指に力が入り喉に食い込むが、苦しいのか痛いのか、すでに口を塞がれているせいでよくわからない。そのまま、彼の指は下におりて、ブラウスの衿を引いた。釦が、ひとつ、ふたつ、はずされていく。
彼が口の角度を変えようとした時、ガツ、とまた歯がぶつかる音がして、同時に小さく呻くのが聞こえた。
それが合図だったように、私を拘束していた手ははずれ、獰猛な口が離れる。
荒い呼吸の合間に、今が真昼で、ここが家の庭であることを、私は思い出した。そして、彼が。よく見れば、彼の下唇の内側に、真っ赤な血が滲んでいた。さっき、私の歯が彼の唇を傷つけたのだろう。
私は夫の様子に、火照った顔が急激に冷えていくのを感じた。
彼は傷を舐めることもせず、呆然と立ち尽くしいた。表情は乏しく、しかしそれでも、赤い目の縁に確かに悲痛さが見えている。
何か、言ってやらなければと思った。
「いいんですよ」
落ち着いた声は出たが、言葉はそんなものしか浮かばない。
ほとんど無意識に自分のブラウスに手をやると、三つ目のボタンまではずされているのが知れた。
彼は、悲しそうに目を細めながら赤く濡れる唇を震わせている。極々小さな声が漏れた。それは、だめ、と言ったように聞こえた。辛抱強く問い質せば、少しずつ聞こえる声になってきた。
「だ、だめだ僕は、すまない。やっぱりどうかしてる。こんな風に、君を」
彼は俯きながら、握り込み白くなった掌をじっと見詰めた。
タツさん。そっと肩を揺らして、できるだけ優しく呼びかけても、私の顔は見てくれない。
これでは、これでは病院にいた時と変わらない。
何も、間違ってなどいないのに。そう思うと、何に対してかわからない悔しさがこみ上げた。
どうしたら伝わるのだろう。
何をどう言えば、私がこの人のすべてを許していることをわかってくれるのだろう。何をしてもいいのに。何をされても、私はこの人を許せるのに。あのままこの場で無理やり抱かれたって、私はこの人を許すのに。
何を言うべきなのかわからないまま、結局私は夫の手を強く握った。その手を私の胸の、はずされた釦の上に押し付ける。
夫は俯いたまま、弱々しく首を振った。
脱力した彼の腕は重たい。構わずに、彼の手を抱き込む。素肌の胸に、彼の手は熱かった。
「雪絵、放してくれ」
彼にしてはきっぱりとした言葉と言えた。けれど、そんなのは彼の言葉ではないのだ。
放して欲しくなどないくせに。
「放しません」
「何で」
湖底の色の瞳が、私を見た。
そしてその時、私にはわかった。いやにすんなりと、答えが浮かんだ。
彼が、私に望むのは。
「あなたは、私のことが大好きじゃありませんか」
そう言って、笑って見せた。
「放されたくないのでしょう?」
どこまでも黒い目が、不安に揺れている。
彼の不安が何かなど、私にはわからない。知りようもないのかもしれない。
この人が闇として抱えているものは、世界とか、社会とか、生や死や、これまで彼が触れたすべての人の感情だとか、そういったものを手当たり次第に集めたものなのだろう。
この人は自分で不安を拾って集めて、時々持ちきれなくなって落として、ほっとしながらも失くしたことを悲しむのだ。彼が拾った不安が何かわかったところで、その収集癖は終わらない。
でも、彼にとって、私がいなくなるのもまた確かな不安なのだ。
「私だって、放したくなんて、ないんです」
私はとても自然に、自分でも驚くほど自然に、笑うことができた。
この人が望むなら、私はどんなに悲しくても痛くても、きっと笑うことができるのだろう。そんな気がした。
夫はなぜだか申し訳なさそうな、情けない顔をすると、静かに私に口付けた。
庭に面した居間で、障子も開け放したままで。布団を敷いたり部屋を暗くしたりするような、普段なら当たり前のことの方が、その時は異常だった。
情欲に燃え上がったがゆえ、というのではない。私の腕を引いた力は強くなかったし、腕を引く彼は何も言わなかったが、何か言いたいという意思はその目に宿っていた。ちゃんと私を気遣ってくれていた。
燃え上がるような勢いなど、まるでなかったのだ。
日常の中に一筋のひずみができたような時間だった。ひずみの向こうにあるのは、白い光が照らす天国だ。たぶんそれは、夫が憧れてやまないものに、少し似ているのだろう。
ただ緩慢に、私達は畳みに寝転んで、夫は私の衣服を乱した。
夫の湿ったシャツからは、彼には似合わないお日様の匂いがした。肌や髪からは微かに汗の匂いがして、それがとても懐かしいものに思えた。
「ん、ぁ」
彼に触れられながら、呼吸のついでに出る声は、昼の往来に届くはずもない楚々としたものだった。我慢している気はなかったけれど、声を出して、夫と繋がる部分からもたらされる感覚を逃してしまうのは厭だった。ブラウスが捲れて、素肌が畳に触れるたびにひやりとしたり、たまにささくれたところに擦れるのも気にならない。
怖いほどに心地よかった。
夫が施す愛撫は、もう忘れてしまったいつかの時と変わらず不器用なものだった。執拗なのにどこか投げ遣りに、彼の指は動いた。時に痛いほど遠慮なく触れるのに、じれったくなるほど慎重に探ることもある。その手は熱く、その舌は濡れていて、私を内から外から蕩けさせた。彼が入る前に、私は一度絶頂に達していた。
口付けだって何度も交わしたというのに、夫はなおも私と目を合わさない。
「タツさん」
彼に揺さぶられながら、幾度か呼びかけた。
短い髪に指を通すと、毛先はほとんど乾いていたが、内側は温かに湿っていた。
躊躇いがちに、彼は視線を上げた。律動が止む。
初めて、この人の目の色がとても黒いことを知ったのは、この角度だった。
「タツさんは頑固者ですね」
黒は、強い意思の色なのだと聞いたことがある。
強い意思など、この人には到底似合わぬ言葉だというのに。
「頑固?」
「ええ」
湖底の黒に何色を継ぎ足したところで、その色は変わらないだろう。どうせ変わらないのだから、それでいい。
彼はぼんやりした顔で首を傾げた。だらしなく開いた口は、荒い呼吸を繰り返している。首まで真っ赤なのが可笑しい。
そっと、彼の額に触れた。しっとりと濡れて温かい。どこにも傷はない。
身体の、彼が入っている部分が、じわりと疼いた。
「ねえ、動いて」
目を細めた彼の顔は、悲しそうにも微笑んだようにも見えた。
三度目の絶頂が過ぎた時には、彼から与えられる刺激のすべてに身体が跳ねるのを恥じることさえ忘れていた。
「んん、あっ、やっ」
一定の力とリズムで、彼は私に入っていた。乱暴ではないかわりに、工夫する気もさらさらないのだろう。身体の位置もほとんど変えない。入っている間は、愛撫と呼ぶのも怪しい程度の触れ方しかしない。そうだからこそ、私の集中は逸らされることなく、身体がすべての刺激を吸い込む。
泣き声がした気がして、私は閉じていた瞼を上げた。
「ゆき、え」
私に覆い被さる彼は、泣いてはいなかった。ただ、切なそうな顔をして、荒い呼吸の隙間に泣きそうな声で、私を呼んだ。
「雪絵」
湖底の瞳のさらに底は、やはり黒くて何も見えない。
でも、間違いなく、私を映していた。
心と一緒に、身体の奥の一番熱いところが収縮する。
「はっ、ん」
仰け反った背中に、彼の腕が差し込まれて、強く揺さぶられた。
ああ、また泣き声。
雪絵。
絶頂の気配に目を開けていられなくて、強く瞼を閉じると目の縁を涙が伝うのがわかった。
言いたいのに、うまく声が出ない。
すごくすごく、愛しているのだと。
私は結局、何度絶頂を迎えたのだったか覚えていない。
二度目の射精の後、そのままがくりと私の顔の横に落ちてきた彼の背中を撫でてやると、疲れたと言う掠れた声が聞こえた。
「だって、昨夜あまり、寝ていないのでしょう」
ああそうかぁ、とすっかり忘れていたらしい返事があった。
ぐったりと被さる彼の身体は、小柄とは言えさすがに重く、少し息苦しい。しかし、どいて欲しいわけではない。
それよりも。
「ねえ、タツさん、大丈夫ですか」
「ん、ああ」
私が自分の様子を心配していると思ったのだろう、彼はのろのろと身体を起こした。
本当は、彼を気遣ったのではなかった。でも、こうなると、言葉にするのが恐ろしくなってしまう。
この人は、大丈夫なのだろうか。わかっているのだろうか。
彼は身体を起こすついでに、膝に溜まっていた下着とズボンを穿き直して、私の横にだらしなく腰を落とした。ひどくだるそうだ。そう思って見ていたら、やっぱりそのまま倒れて、私に添い寝をするように寝転がる。搾り出したような唸り声まで聞こえた。
私だって、起き上がる気にはなれない。しかし、私は彼と違って、さほど疲れているわけではない。私は甘い刺激に身を任せただけで、つまり寝ていただけだ。だから、起き上がれないことは決してないのだ。
ただ、起きてはいけない気がした。それとも、起きて、すぐに身を清めるべきなのだろうか。
横から伸びてきた手が、捲れていたスカートの裾を直した。
顔を横に向けると、肘を枕にした彼が赤い顔を向けている。こんなに近くで、こんな風に性交をした後だというのに、やっぱりこの人は視線を合わせない。
やっぱり、聞いてみたくなった。この人はわかっているのだろうか。
私の中で、この人は二度射精した。そのせいで、私はなんとなく、身体を起こせない。
子供、欲しくないのでしょう。それなのにこんなことをして。
厭では、ないのだろうか。
「タツさん」
眠たそうな半目が、私を見た。彼の顔が、微かに緊張した。
「タツさんは」
何で。
どうして。
どうして。
「どうして、私に髪を切らせなくなったんですか」
「え?」
予想外の質問だったのだろう。目がぱっちりと開いた。目の縁が赤いから、まるでお猿だ。
私自身、聞こうとした質問とは違うことが口から出ていた。
「結婚する前に、一度髪を切ってあげたでしょう。それから一度も私に切らせなかったじゃありませんか」
「え、ああ。え、気にしていたのかい?」
「いいえ。病院で散髪した時、突然思い出したの」
今更だなあなどと言いながら、短くなった髪をぼりぼりと掻く。髪はすっかり乾いたようだ。
「気になったのだもの。私が切って、厭じゃないのかしらって」
彼はごろんと転がって仰向けになり、これ以上ないほど気だるくああ眠いと言った。緊張する必要がないと判断すると、すぐにこうやって甘えるのだ。この人は。
目を瞑って、彼は言った。
「厭、っていうんじゃあ、ないんだよ」
その声は、起きている時よりもかえってはっきりと聞こえた気がした。
それから、やっぱりモグモグと、君はわかってると思ってたというようなことを言った。
「照れていたんだ」
照れた。
私はただ反復した。
夫は記憶を引っくり返しているのか、目を閉じたまま、途切れ途切れに続けた。
「だって、〈雪絵さん〉が、だよ。僕の髪に触れて、すぐ後ろで話しかけたり、顔の前で前髪を切ったりするんだ。照れるだろう」
二度と御免だと思った。
拗ねたようにそう言った。
なんだ。
そうだったのか。
この人は鋏の音が厭で散髪が嫌いで、「雪絵さん」に照れるから私に髪を切らせないでいたのか。
しかし、私が切ったところで、彼の苦手な鋏の音はするのだ。どうして今日に限って床屋じゃないのかと聞くと、床屋まで行くのも床屋の親父と喋るのも面倒なのだと彼は答えた。
なんだか呆れてしまう。
「それじゃ、今はもう、私に照れてはくれないんですねぇ」
天井の木目を眺めながら、私は宙に向けて呟いた。
真横から、空気の抜けた笑い声がした。
何言ってるんだい。彼の、眠たそうな声。
「だって、夫婦じゃないか」
夫は軽い調子で言ったのに、私はどうしてか泣けてきて、仕方なしに笑った。
起き上がって、身体を清めて、畳を拭いて、ああ昼食をとっていなかった。タツさんはこのまま寝てしまうだろうし、お布団を敷いてあげなければ。買い物は明日すればいい。そうだ、お庭も掃かないといけないのだった。
こんなに柔らかな日常を、私の夫はどうして怖がるのだろう。わかるような気もしたが、たぶん、私はわかってなどいないのだ。
横から、暢気な寝息が聞こえた。とうとう本当に寝てしまったらしい。
自分の裸足の爪先が冷えているのに気付いた。日の差さない部屋は、冷たい乾いた空気に満ちている。
季節は秋なのだと、私は知った。
終わり
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