「苦手、ですか?」
「うん。この音、何だかゾクゾクするんだよ」
それは、私が予想していた答えとはまったく違っていた。
小さな子供だってそんなことを言わない。これでは床屋にも滅多に行かないはずだ。きっと今まで、私に言われてしぶしぶ床屋に行っては、そこの親父の鋏使いに背筋を寒くさせていたのだろう。
可笑しい。
私が笑うと、彼は眉を八の字にしながら何やら言い訳を並べたようだった。声が小さくて、私にはうまく聞き取れなかった。
午前中に編集者の鳥口が来て、夫の原稿を受け取るととんぼ返りに帰って行った。
「本当は一昨日だったんだけど」
茶を持って、仕事机に突っ伏した夫に近づくと、顔も上げないままモゴモゴと言った。一昨日、というのは締め切り日のことだろう。それなら。
「ほんとのほんとは、一週間前じゃありませんでした?」
机の脇に膝をついてそう言うと、彼は顔を上げて、寝不足で腫れた瞼を重たそうに持ち上げた。昨夜はほとんど寝ていないはずだ。
不貞腐れたように口を尖らせて「意地悪だなあ」と呟く。それから老人のように大儀そうに身体を起こし、ふわあと欠伸をしながら背中を伸ばした。
草臥れたシャツ越しにも、その肩や腰が痩せているのがわかった。夏が来るたび、この人はひどく痩せてしまう。暑さで食欲を失くすだけだから、冬には元に戻る。しかし、今年の夏は特に痩せてしまったように見えた。首や顎の骨が作る影は、見ていて痛々しいとまで思う。
つい、夫の額の辺りに目を向けた。ここ数ヶ月ことある度に、私は彼の左の額、髪の生え際辺りを見てしまう。
夫が殺人の容疑をかけられ警察に拘留されたのは、今年の六月のことだった。取調べを行った警官から、暴行を伴う尋問、つまり拷問を受けたのだという。
左目の下、顎、肩、脇腹、腰骨、太腿、脹脛に、重症軽症の無数の皮下出血。それと、左の額が割れていた。
それらの傷も、もう癒えたというのに。
私はそれを疑うように、今も彼の額を見てしまうのだ。
「どうかしたかい?」
痩せたせいで一層に落ち窪んだ目が、私を見詰めていた。赤く腫らしながらも、やけに大きな丸い目である。
私は誤魔化すために笑って見せた。
それから、彼のぼさぼさとした眉に、ぺたと前髪が落ちてかかっているのが気になった。
「髪、随分伸びてしまいましたね」
「ああ。そうだなあ。さすがにそろそろ切りたいと思っていたんだ」
ぼんやりとした調子で言って、己の前髪を引っ張る。日頃から無精な性質の人とは言え、眉にかかるほど前髪が伸びている彼というのは見たことがない。
「前に床屋に行ったのはいつだったのかなあ」
ああ、覚えていないのか。
そう思って、ほっとした。寂しいとも思った。
彼は覚えていないだろう。伊豆の病院で、私が切ったのだ。
いらない感傷を振り払うために、私は明るい調子で言った。
「それなら、少し寝て、床屋さんに行ってらしたら?ついでに髭もあたってもらって、さっぱりしてきてはどうです?」
いつから剃っていないのか、無精髭がだいぶ濃い。肉が削げて鋭角になった顎を、さらに髭が覆うものだから、今の人相はかなり不穏な雰囲気だ。
夫はううんと唸りながら指で髭を触ると、夜行動物のような丸い目玉をきょろきょろと私に向けた。
「じゃあ、雪絵が切ってくれよ」
意外な申し出に、私まできょろきょろとしてしまった。
結婚する前に一度、彼の髪を切ってやったことがあった。
その時はまだ、彼は私を雪絵とは呼ばなかったし、そもそも彼に頼まれたわけではない。当時大学の研究員だった彼が、粘菌のせいで床屋に行く時間がないなどと妙なことを言うので、それなら私が切りましょうと言い出したのだ。
それきり、だった。それから、彼は無精な性格なりに床屋に行くようになって、二度と私に髪を切ってくれとは言わなかった。私の散髪に不満があったのかとも思ったが、特にそれについて考えたことはなかった。
気にしたのは、それから何年も経ってから。伊豆の病院で、目を開けて眠っているような彼の髪を切りながら、私は初めて少しだけ気になった。嫌がられていたらどうしよう、と。
シャッシャッ。
彼はこの鋏の音が嫌いらしい。
鋏の刃を滑らすたび、濡れ烏色の毛束が落ちた。彼の肩に巻いた古いテーブルクロスの上に、黒く積もっていく。その白い布を滑り落ちて、さらに地面まで髪が散る。
彼の首筋には、寒さのせいではないらしい鳥肌。
もう10月だと言うのに、日差しは随分と暖かかった。
私達は庭の軒先に出て、彼は脚の高い椅子に座り、私は立って彼の周りをちょろちょろと回りながら髪を切っている。庭の塀は高くできているので、わざわざ覗こうとしなければ道行く人に見えることもない。
シャッ、シャッ。
彼の正面に回って、前髪に指を通して鋏を当てる。
夫はきゅっと瞼を閉じた。
少し前に机に伏していた彼は随分老け込んだものだと思ったけれど、こうして日の下で見ると、出会った頃とさして変わらないようにも思える。童顔、と言うのではなく、そのまま歳をとったのだろう。
無精髭がすっかりなくなった顎は、余計に尖って卑小に見えた。肌の艶がいつもより良いのは、私が髭を剃ってやったからだ。髪を切る前に自分で顔を洗い髭も剃らせたのだが、よく見ればやっぱり剃り残しているところがあって、私が有無を言わさずやり直した。
夫の古い友人はよく、彼は猿に似ていると言う。意外に長い睫とか、わずかに張り出た額とか、眉と目の辺りの骨格が作る影の濃さだとか、そういったところは野性味があってたしかに動物的だと思う。さらに、滅多にしないけれどぱっちりと目を開けば丸い大きな目をしていて、外国産のお猿のように見えなくもない。
こうしてすっきりと身なりを整えさせれば、少なくとも悪人面には見えない。せいぜい、栄養失調気味の苦学生、といったところか。お猿でも苦学生でも、何かしらの愛嬌は感じられると思う。
たとえば、たとえばの話だが、彼がもう少し社交的で、誰に対してもニコニコと笑えるような人だったら。
そうしてまた、私は左の額を見てしまった。
しばらく何も言わずに鋏を動かしていると、彼がふっと息を吐いた。顔を見れば、微かに笑っている。
「どうかしました?」
「いや」
瞼がね、温かいなと思って。
穏やかに彼は言った。
太陽が真上まで昇ったせいで、いつの間にやら日陰が動いて、夫の瞼に日が差していた。私は思わず手を止めて、その様子に見入ってしまった。
こんなに幼い顔をする人だったか。
今、彼の顔には、日頃べったりと張り付いた懊悩の影はない。
目を温めるのは気持ちがいいんだなぁ。そんな暢気なことを言って笑っている。
私は、自分がすっかりと忘れてしまっていたことを思い出した。
この人は案外、図太くて丈夫、なのだ。
出会ってから、ずっといつだって死にそうな顔をしながら、時にはいつ死んでもおかしくないような危険な場所に行ってしまうのに、結局はこうして帰って来る。病気が悪くなってどんなに辛いことになっても、この人は今ここで、暢気なことを言って笑っている。それは事実だ。
もっと、安心していてもいいのかもしれない。
そう思ったら、なんだか泣きたくなってしまった。泣きたくなっている自分が可笑しくて、こっそりと笑う。
私は最後の一束に鋏を入れた。
シャッ。
彼の髪が私の指から零れるのと同時に、彼は閉じていた瞼を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
彼の瞳は、とても暗い色をしている。
一瞬の後、視線が下げられた。
この人の瞳は、褐色というよりほとんど黒に近い色をしている。
それに初めて気付いた時には、湖底のような瞳だと、随分詩的な感想を持ったものだ。この人に影響されていたのかもしれない。
今だって、私はそう思った。
「払っても払っても毛が落ちますねぇ」
櫛で髪を梳くと、細かなくずがぱらぱらと白い布に落ちた。
肩に巻いた布や鋏を片づけながら、前髪が短くなってさらに動物園のお猿のようになった夫のできばえを眺め、私は密かに満足した。夫は猿山でぼんやりするお猿のように椅子に腰掛けたまま、私を目で追っている。
「まだ早いけど、銭湯に行ってきてはいかがです?それじゃお部屋に上がれませんもの」
「いや、今水で流しちゃってくれないか」
思わず振り返る。
「ええ?寒いですよ?もう夏ではないんですから」
「頭だけなら平気だろう。こんな早くに銭湯というのも勿体無いし」
そう言って、夫は頭を掻いた。白いシャツに数本の細かな髪が落ちた。
「それに、今日は蒸し暑いくらいだ」
この人は暑がりで汗かきなのだ。
私はため息ついでに、はいはいと返事をした。
バケツ一杯の水を柄杓にとって、頭に流しかけてやった。夫には腰を折ってもらって、首より上は濡らさないよう苦心して水をかける。
天気がいいとは言え、水は私の手にも冷たく感じられた。
髪を流し終える頃には、庭には大きな水溜りができていて、私の指はかなり冷えていた。身なりを見れば、スカートの裾や足首まで濡れている。ブラウスにも点々と水が染みていた。それは彼も同様で、襟首のところや、ズボンの裾なんかに水が跳ねている。
「うん、さすがに、水浴びには涼しいな」
びしょびしょと髪を濡らした彼は、腰を倒したまま無感動に言った。
「ほら、言わんこっちゃない。風邪なんて引いたら厭ですよ。今手拭い持ってきますから」
そう言って、縁側に用意した手拭いを取りに行こうとした時だった。
「ねえ雪絵」
小さな声が、やけにはっきりと聞こえた。
振り返ると、夫は髪や顎からぽたぽたと水滴を落としながら、身体を起こして立っていた。上目遣いの目が、弱々しくも私を捉えている。
シャツの中で泳ぐ腕が持ち上がって、私の手首を掴んだ。触れられたところから水滴が垂れる。
おずおずといった調子で手を引かれて、一歩彼に近付いた。
じっと見詰め返していると、彼はやはり目を逸らす。
本当に、黒い瞳だ。揺ら揺らと不安定なのに、色ばかりが強い。
どこか気まずそうに、彼が言った。
「思い出したよ」
彼が、半歩近づく。
濡れた髪から、額に、頬に、首に、水滴が絶えず落ちている。シャツの衿は濡れて、へたりと彼の肌に張り付いていた。
「鋏の音とか」
掴まれていない方の手で、そっと彼の髪を払った。
「日差しが温かかったとか」
そう、病室の窓から太陽が差し込んでいた。
「それと、あれは、君の手だった」
俯く彼の顔はやはりどこか悲壮で、瞳の色は暗くて冷たい湖の底。
それでも、濡れた髪が張り付いた彼の頭はいつも以上に小さく見えて、小動物みたい、そう思ったら、場違いに可笑しかった。
可笑しい。
「あの時も、ありがとう」
小さな声。聞き取りづらい声。まるで悪いことをして謝っているようだと思った。
どういたしまして。
そう告げて、私は彼の背中に腕を回した。
彼の胸が、痙攣したようにびくりと震えた。
それでも放さずにいると、彼はゆっくりと、私の肩にもたれかかってきた。髪から流れ落ちた水が、私の肩や胸を少しずつ濡らしていく。背中に置かれた彼の掌からも、微かに冷たい水の気配がした。
身体のあちこちが濡れていて、冷たい。
それでも、彼の薄っぺらな胸は、とても温かかった。
「病院だったね」
首筋に雫が垂れた。その冷たさは、すぐに彼の吐息が熱に変えた。
ふいに彼の腕が強く締まって、息苦しさに小さく息を吐く。
温かい。重ねられた腰の辺りは、特に熱い。
「雪絵だったんだなあ」
そう言って、夫は私の肩から頭を持ち上げた。
思いのほか彼の顔が近くにあって、少しだけ驚いた。互いに身体を抱いているのだから当たり前だが、それでも私は、まるで若い頃のように気が焦った。
最後にこの人が、こんなに近くで私を見詰めたのはいつだったろう。
彼の頬骨の辺りや露わになった額が、微かに赤くなっている。この人は緊張したり照れたりすると、すぐに赤くなるのだ。目は幾度も瞬きをして落ち着かないし、何か言ってやりたいのに言葉が出ないのだろう、口を開けたり閉じたりしている。
なんだか溺れた鼠のようで、見ている方が気の毒になってくる。そう思ったら、少しだけ大人らしい余裕が持てた。
それで、私は待つことにした。
少し意地悪な思い付きだったのかもしれない。私から彼に、ほんの僅かでも顔を寄せてあげればいいのかもしれない。でも、私は彼から動くまで待ちたかった。彼に期待をした。
だって、私とこの人は夫婦なのだ。
学生の頃のように、照れて何もできないような関係ではないはずだ。夫婦で、家族なのだから。
私はただ大人しく、彼を見詰めていた。しかし彼は、アとかウとか意味のなさない声を漏らし顔を赤くするばかりで、埒が明かない。
仕方ない。
励ますつもりで、笑って見せた。
途端に、彼の頬から力が抜けた。
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