薔薇十字探偵社の社長の自室を開けることを、ほとんどの人間が厭う。
社長である榎木津という人物は、存在するだけでその場が躁状態になり、騒々しいくらいならまだましで、機嫌次第では混乱を巻き起こしたり最悪乱闘になる可能性まである。冗談で大袈裟に言っているのではないのだ。自室に篭もっているならそうして頂いた方が平和なのは間違いない。わざわざ天の岩戸を開いて呼び出したくはない。
しかも、榎木津が自室に篭もっているということは、大体にしてまだ眠っているということだ。寝起きの榎木津は通常の数倍扱いづらいため、急用で起こす必要がある場合でも、社員達は二の足を踏む。
そういうわけで、美由紀が度々榎木津の寝室に突入することになるのは、時間がかからなかった。
榎木津の自室に入ることなど何度めになるのかわからない。美由紀は未だに、何故益田や寅吉や関口が榎木津の自室に入るのを死ぬほど嫌がるのか、いまいちわからないでいる。
何も意地悪で起こしているわけではない。用事があるから、寝坊助を起こすのだ。真夜中訪ねていっているわけでなし、こちらに後ろめたいことがあるだろうか。
美由紀に、榎木津の機嫌をとるシガラミは持ち合わせていない。今までずっとそうだったから、美由紀は榎木津に唸られようと睨まれようと一緒に寝ようと誘われても、自分の任務を全うするだけだった。(もちろん、すべて成功に終えている。)
だから今回も、そうすればいい。
大体、昼の四時まで寝ているというのはどういうことなのだろう。
美由紀は仏頂面で、寝室に入る前はいつもそうであるように榎木津の寝坊に腹を立てる。
腹を立て理性的でいなければ、足が竦んでしまいそうだった。
寅吉は言った。
「いやねぇ昨夜ぁ随分遅くまで飲んでたようで、帰ってきたのが朝方なんでさ。私も物音で目を覚まして、ありゃ四時くらいでしたかね。まぁ朝まで飲んでるのは珍しかないんですが、かなり深酒したんですかねぇ、ちぃとも起きてこない」
そこで、いつものお願いになった。
そろそろ、どうなのだろう。
美由紀はいざ扉を開こうと取っ手に手をかけた瞬間に、考えた。
子供らしい仕草で寝台に乗って「探偵さん」の肩を揺すって起こす。
そういう時が確かにあったけれど、今の自分にはふさわしくないような気がする。
なんだかんだで、十八になるのだ。
子供らしさが似合う歳ではない。かと言って、子供ではないと言い切れる歳でもない。子供扱いはやめて欲しい。かと言って――
松枝から告白され、それに遭遇した榎木津は「君の勝手だ」と美由紀に言った。
見放された気分になった。
そんなことは、望んでいない。
よくよく考えてみれば、榎木津は当たり前のことを言ったにすぎないのだ。
好き嫌いの問題など、他人が口を出してどうこうできるものではない。美由紀自身の「勝手」なのだ。
そういう理屈はわかる。
ただ、あの時した期待を思い出す。
なんて、望みのない望みだろうか。
手を繋いだり、顔を寄せたり、一緒に昼寝をしたり、デートという名目で出かける仲なのだし――それが子供向けの遊びであったとしても、
ああそうだ。
妬いて欲しかったのだ。
思った瞬間に開いた扉の奥からは、奇妙なにおいがした。
一歩入れば、足先に脱ぎ捨てられた服が引っかかった。その散らかり具合はいつものことだ。
ただ、部屋の中が雑然として見えるのは、薄く暗いことの他に、空気の淀んでいるからだった。
紛れもない、アルコールの臭い。
これは相当飲んだな、と思わせるだけのアルコール臭だった。散らばる衣類を拾い上げながら、寝台までの道を開拓していく。
寝台には薄手のシーツがかかった山ができていて、深い呼吸音と共に上下していた。
榎木津の部屋は、夏は涼しく冬は温かいというどこまでも持ち主を甘やかす作りで、さほどシーツにくるまって寝ても暑くないらしいのだが、やはり風を通して空気を入れ替えなければ。
酒の臭いには慣れてくる。この部屋が酒臭いのは珍しいことではなく、そういう日は起こす人間が美由紀であっても目覚めが悪いようで、罵倒こそされたことはないが無口で面白くないのだ。それにしても――。酒臭いのは、わかる。しかし、奇妙なにおいが混ざっていた。部屋に入った瞬間から感じた、覚えのあるにおいがわからない。
半分だけ開いていた窓を全開にする。二カ所ある窓の全てを開けて、カーテンもまとめれば、晩夏の日差しが部屋を照らし、風が流れた。
花、だろうか。
酒に混じる、奇妙に甘いような、香りのことだ。
果物のようでもある。
遠い昔か、最近にも、知っている香りのような気がした。
外気の匂いを吸い込んで、さらに嗅覚がクリアになる。
「う・・・んん・・・」
低い唸り声を耳にして、思考を止めて寝台に寄った。やはり暑かったのか、シーツを腹の辺りまで下げて、また寝入っている。
暑い季節の寝間着にしているらしい襦袢がはだけて、胸元から腹まで覗けていた。
年頃の子女を前にして何てことだろう。眠っている人に罪はないが、どうにも後ろめたい景色で、シーツをかけてやろうと手を伸ばす。
ふと、また、強く香った。
甘いような、酔いそうなにおい。
ああ、そうか。
母の鏡台、クラスメートの肩の辺り、デパートで嗅いだことがある。
この人は――。
どこの誰の、
香水あるいは化粧品の、
香りをつけて帰ってきたのだろうか。
それも、こんなに、濃く香るほど。
「・・・探偵さん、起きて下さい」
「うー」
寝起きの子供がぐずるような仕草で榎木津は横を向いた。西日が入る室内で、その肌が白いことがよくわかる。
その、白い肌の、鎖骨より少し上に暗い赤の痣があった。
首以外にも、胸の高いところにも、それより淡い色で、同じくらいの大きさの小さな痣が見える。他にもあるのかは、わからない。
「探偵、さん」
初めて見たそれは、想像していたよりも目立たない、けれどもまるで犯人が残した足跡のように、「誰かがいた」ことを納得させるものがあった。
ここに、誰かが、確かに。
鼓動の大きさの一方で、いやに冷静な思考がぶつぶつと呟く。
彼はいい大人なのだし、こういうことをして当たり前じゃないか。
どんなに自分が近くにいたとしても、どんなに自分が成長したとしても、彼にとって子供ならば、彼は自分には何もしてくれない。
そういう、人だ。
「探偵さん」
腹の底から、熱いものがせり上がった。頭の前の部分も熱く、深い鈍痛が侵していく。
生々しい。
この人に触れた女がいて、この人が触れた女がいる。
生々しさが、我慢ならない。
ああ、いやだ。もういやだ。
頭が痛い。
痛い。痛くて――
ぶん殴ってやりたい。
痣の上で、無意識に拳を作った。
その手が捕らえられ、そのまま、強い力で引かれる。
「え」
支えを失って落ちた榎木津の肌の上で、今度は背に強い腕が絡みついた。
「なっ」
「んんー・・・」
香水よりも榎木津の肌のにおいと熱さを強烈に感じて、気が遠くなる。
腹立たしさの間を縫うようにして立ち上るのは、恋しさだ。
榎木津は腕の力を弱めずに、美由紀の首のにおいを嗅ぐように顔を擦り寄せた。首筋に触れる唇の感触に、血が沸き立つ。
「ちょっ・・・ね、寝ぼけないで!!」
「んー…るさぃ…」
捕えられた身体が熱い。触れる肌が熱い。
首筋をなぞる唇の動きに、
「ぅんっ」
覚えのない痺れが走る。力が抜ける。大きな掌が、薄手のブラウス越しに背を、腰を撫でていく。
なんだか泣きそうだった。
恋しいのに、
此処に自分は、いられない。
そうしなければいけないという思いだけで、渾身の力で身体を押す。
榎木津の顔が霞んでいて、何故かと思ったら頬が濡れた。最悪だ。
「・・・ああ」
低く掠れた、けれど確かな響きに、自分が跨いでいる男の覚醒を知る。
男はだるそうに手を上げ、美由紀の頬を擦った。
「間違えた」
顔に触れる手を払い、殴ろうと思ったがもうそんな力は沸かなかった。寝台を降りた拍子でまた涙が落ちる。
本当に最悪だ。
「間違えないでください」
出した声はとても小さくて、寝台の榎木津に声が届いたのかはわからない。視界は霞んでいて、榎木津がどんな顔をしていたのかもわからない。
ああもう、本当に、厭だ。
もう、やめてしまいたい。
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