「わはははははは!暑い!暑いぞ!」
	 
	 例の如く勢いよく引き戸を開け放ち探偵は己の登場を告げた。美由紀もまた、探偵と同行する時はいつもそうであるように、少し申し訳なさそうな顔をしながら挨拶をする。そうすると、その古本屋の奥にある帳場で、店主が無愛想な顔を上げたり(上げなかったり)して迎えるのが常だ。
	 しかし、この日はそうではなかった。
	「そんな大きな声を出さなくてもわかっているよ。座敷にまで声が聞こえていたんだから」
	 やはり店主はうんざりとした顔で古い友人である探偵を迎え、美由紀にはほんの僅か眉間の皺を浅くして「こんなののお供とは毎度のことながら君も物好きだなぁ」と労うような哀れむようなことを言った。
	「なんだ京極、出迎えとは関心だな」
	 榎木津は襟のついた派手なシャツの首元を掴んでぱたぱたと仰ぎながら首を傾げた。
	「好きで出迎えなどするものか。座敷に先客がいるんだよ」
	 美由紀はあらと声に出し、中禅寺は美由紀の考えを読んで首を振った。
	「いや、構わないようだから上がっていきたまえ」
	 美由紀がいいんですかと食い下がる横で、榎木津が短く唸った。
	「似てる」
	 それから、何故か美由紀を振り返る。
	「ああ、同じ人か」
	 薄暗い店内で、影を纏った茶色い瞳が美由紀の頭の上を見ていた。
	「そうだよ」
	 そう言って、中禅寺は母屋へ入っていった。
	
	 松枝翔平が、座敷に入った瞬間に高笑いをする男に最初にした反応は、何も言わずに見つめる、というものだった。
	「やあ!表情筋鈍男君!」
	「・・・はじめまして」
	 酷いあだ名で呼ばれた割に、松枝は極一般的な挨拶をし
	、それから律儀に氏名を告げた。超常識と常識の会話というのは、端から見ると奇妙でしかない。美由紀は妙な感慨を持ってそれを眺めていた。
	 そして、
	「呉さん、久しぶり」
	「・・・こんにちは」
	 このところ神保町の古書店に現れなかった松枝とは、週に一度のペースで会っていた頃よりは確かに久しぶりの邂逅である。
	 まさか、知人が経営する古書店に通っていただなんて思わない。
	 呆然とする美由紀を置いて、榎木津は松枝の向かい、いつもの庭側の席に乱暴な仕草で腰を下ろした。
	 後ろから中禅寺が追いつき松枝をちらりと見ると、美由紀に言った。
	「彼は僕の友人の紹介でうちに来てくれてね。1ヶ月前くらいからこうしてちょくちょく来ては、国文学書やら漫画本やらを買ったり読んだり、あとは石榴と遊んだりして帰るんだ」
	 中禅寺の口振りは、松枝と美由紀に付き合いがあることは知っているようだった。
	 中禅寺は突っ立ったままの美由紀を通り過ぎ、奥の席につく。松枝はじいっと美由紀を見ている。榎木津は口を半分開いただらしない顔で松枝の方を向きながら、
	「あっつーいぞ!喉が渇いた!」
	 と叫んだ。
	 美由紀はぼんやりと、自身も喉が渇いていることを思い出しながら、「お茶なら私がやります」と言って襖に手をかける。
	「それなら僕も」
	 よく知ったはずの友人の声が耳慣れないものとして聞こえて、美由紀はぎこちなく、すみませんとだけ返事をした。
	
	 薔薇十字探偵社程の頻度ではないが、古本屋京極堂も、美由紀がよく出かける場所のひとつだった。古本屋の主はもともと教職についていた人物で、長期休暇中の宿題の質問先としては申し分ないし、そして何より、中禅寺は榎木津探偵と同様に美由紀が自身の恩人だと思っている人物の一人で、榎木津に連れられて訪問したり、自ら連絡を入れて出向いたり、ふた月に一度くらいは必ず顔を見せている。
	 しかし、美由紀は意識的にではなく、京極堂のことをあまり人に話したことはない。それはきっと、中禅寺こそあの美由紀の人生を変えた悲しい事件をもっとも深く把握している人物であることが関係している。
	 もちろん、松枝にも語ったことがない。
	「このところ遭わないと思っていたら、こちらにいたんですね」
	 食器棚を開け、細く美しい輪郭のグラスを4つ出す。器はすべて中禅寺の奥方である千鶴子の趣味で、どれも優しい美しさを纏いながら日影に鎮座していた。
	 松枝は美由紀の仕草を目で追いながら、新品の冷蔵庫を珍しがるでもなく麦茶を出した。松枝の態度のすべてが間違いなく此処に慣れているのを物語っている。
	「中禅寺さんの友人で・・・榎木津さんの友人でもあるそうだけど、司さんという人は知ってるかい」
	 かつて一度だけ探偵社で遭遇したことのある、ヤクザのような風貌と人当たりのよい笑顔を併せ持つ男を思い出した。
	「1ヶ月前にバーで遭って、そこで面白い古本屋があるという話になったんだ」
	「・・・そうでしたか・・・」
	 松枝から、作り置きの冷えた麦茶を受け取り、グラスに注いでいく。
	 松枝は無駄な動作を一切せずに、ただ、美由紀の所作を見ているようだった。
	 相変わらず、静かな男だと思った。
	 ――あの人とは大違い。
	「中禅寺さんから、私のことは聞いていました?」
	「いや・・・榎木津さんとも友人だとは聞いていたから、もしかしたら面識があるかとは思ったけど」
	 ここであえるとまではね。
	 松枝はそう言って、麦茶を注いだグラスをひとつ取って、ごくごくと飲み干した。
	 開襟シャツから覗く首の、大きな喉が動くのを見ながら、前に会った時よりも随分日に焼けているのに気付く。
	「ごめん、お代わりくれる?」
	「はい。松枝さん、日焼けしましたね」
	「そうかな」
	「目眩坂は日差しがきついですから」
	「・・・ああ、あの坂は目眩坂と言うの」
	「ええ。のろのろ歩いていると目眩がするんです」
	「確かに、妙に傾斜があったりでこぼこしていたりする」
	 松枝の言うとおり、目眩坂とはあっちへこっちへ身体が傾き、酷く歩き辛い坂なのだった。特に、暑い日などには注意をしないといけない。
	 既に美由紀が遠く感じている、暑い夏の日のような。
	「あの人と再会した時も、私はあそこでくらっとしていました」
	 松枝が飲み干してしまったグラスに茶を注ぎ終えてもまだ松枝が動こうとしないので、美由紀は何となく動き出せずに松枝の顔を見上げて告げた。
	「そう」
	 仄暗い台所は、他と比べると少し涼しい。それはもしかしたら、松枝が持つ場を鎮めるような空気のせいなのかもしれない。  
	 美由紀は何故か、黙ることができない。
	「中学三年生になった夏でした。ここに、初めてきたのは」
	 話す必要など今この時にあるのだろうか。疑問を持ちながら、それでも、松枝が黙るから、美由紀は黙れない。
	「東京に越してきて、ご挨拶に伺おうとしていました。くらくらするほど暑くて…後ろから、あの人に声をかけられて…」
	「丁度三年前か」
	「…そう、なんですね」
	 具体的な時間で言われて、美由紀は少しだけ驚いた。
	 まだ、あの日から三年しか経っていない。
	 もうずっと昔から榎木津を知っているような気がしていて、そして永遠に恋をしているような気さえしていたのに、松枝に言わせてしまえばそれは、丁度三年、という時間でしかない。
	「ところで呉さん、ちょっと気になっていたことがあるんだけど」
	 僅かに声のトーンを変えて松枝は言った。
	「榎木津氏のことを呉さんはよくあの人と言うけど、実際は何て呼んでいるの?」
	 それはまったく意外な問いかけだった。
	「え、と」
	 いざ口に出そうとすると、その呼称は榎木津が名前を覚えないことへの当てつけのようなものだから、何やら恥ずかしい気がする。
	「探偵さん、と」
	「探偵さん?」
	「はい」
	 松枝は何を思っているのか、ふぅんとしみじみとした風情で呟きながら首を傾げた。
	「ちなみに、呉さんのことは?」
	「…女学生君、ですね。もっぱら」
	 何だか情けない気持ちで答えると、松枝は今度はふんふんと頷いた。
	「なるほど。だから表情筋鈍男なわけか。見たまんまだ」
	 別に笑っているわけではないが、松枝はどうやら面白がっているらしかった。単調な声の僅かな高低差や、動作がほんの少し大きくなるのがその合図で、美由紀はそれを見極められるくらいには松枝を知っていた。
	 そうして美由紀は、今どうして松枝がこんな所にいて、どうしていつもの喫茶店のテーブルをひとつ挟むよりももっとずっと近い所にいるのかを、わからないでいる。
	
	「美由紀さん」
	 名前で呼ばれて、美由紀は
	「あ、はい」
	 と返事をしていた。
	
	「僕はこう呼ぼうかな」
	 背が高い松枝の顔が近く感じるのは、美由紀の視線に合わせて背を丸めているからだった。ほんの少し視線を上にやれば、松枝の薄い唇が、よく見なければわからない程度に弧を描いているのが見えた。
	 慣れていなければ、睨まれているように見えかねないのが、松枝の笑い方だった。
	 美由紀はそれを見るといつも、何となく、憐れむような、微笑ましいような気持ちになる。
	 そして、美由紀自身が意外なほど、
	 松枝の声が美由紀と呼ぶのを、煩わしいとは思わなかった。
	「美由紀さん」
	 いつもなら、若い男に名前を呼ばれるのを、なれなれしいと思うことの方が多いというのに。
	 お好きにどうぞ。と、いつものようにぶっきらぼうに言ってしまえばよかったのかもしれない。しかし、喉を圧迫されるような息苦しさを感じて、はあ、と受け身の返事をするしかできない。
	 松枝が見た目通りの「硬派な男」ではないことは、なんとなくわかっていた。
	 常に神妙な表情をしているから硬い性格に見られるだけで、実際は無口と言う訳ではなく話し上手だし、美由紀を誘い出す文句やエスコートの仕方は明らかに硬派な学生がするものと思えなかった。松枝自身、取り繕っているわけではないのだろう。松枝の話題に出てくる友人は男性も女性もいるし、有識者もいれば今時の若者、もっと言えばいわゆる不良も多くいるようだった。その話題の幅広さが魅力的だと思うから、松枝自身が不良だったとして美由紀はどうとも思わない。素行がいい悪いという話ではない。
	
	 近づきすぎるのは、よくない。
	
	「二人が待ってますね」
	 早く行きましょう、と続く言葉は、早く、で途切れた。
	
	 近づきすぎるのは、よくないと思っているのに。
	
	 視界が暗さを増す。松枝の影が美由紀を覆った。
	「もう?」
	 覗き込んでくる瞳の黒に、怖い程の熱があった。弾き返そうと視線を重ねるには熱すぎる。
	 松枝の白い開襟シャツが視界に広がる。濃く、男の気配を感じた。
	 ああ、私は。
	 自分が「榎木津以外の男」をきちんと見たことがないのだと、気付く。「榎木津以外の男」の気配も、美由紀は知らなかった。
	 それはやはり、温かい。少し、怖い。
	「松枝さん」
	 咎めるというのとは違う声が出て、混乱する。一歩退いて、流し台の縁に腰が当たる。松枝の手が、流し台にかかる。包囲の手と、逃げ道が、右と左に用意されていた。
	「何を」
	 したいんですか。
	 意地だけで、視線を上げる。
	 松枝は笑っていなかった。
	 冷たく、熱く、無限の質量がそこにあるような瞳に意志のすべてを込めて、美由紀を見ていた。
	
	 カシャとガラスが軋む音が、合図だった。
	
	「好きなんだ」
	
	 ブラックホールに引きずり込まれるように、重低音に聞き入った。
	
	「ふぅん」
	
	 久方ぶりに会った友人の近況話を聞いたような相槌、があった。
	「それで?」
	 続きを聞かせろと促したのは、美由紀が聞き慣れた声だった。
	 沈滞している空気をゆるゆるとかき混ぜる、ふんわりとした重低音である。
	 松枝は途端に表情から緊張感がなくなり、いつもの何ともない無表情に変わった。包囲が解かれ、小さくため息が美由紀の頭上に降る。
	「・・・場所を弁えるべきでした」
	「いいんじゃないか? 誰もいなかったんだし、本屋ではあるが屋内だ。ただ時間がかかりすぎだ。喉からからだ」
	 そう言って、引き戸にもたれていた榎木津は姿勢を直すと、テーブルのグラスを取って麦茶を一気に飲み干した。
	「女学生君、お代わり」
	 ちらりと見た榎木津は、松枝の真似でもしているかのような無表情だった。 
	「は、い」
	 異性から告白をされた事実、それを恋する人に聞かれた事実、そして、情けないほど自分がうろたえている事実に、身が竦む。松枝にも、榎木津にも上手く間を持たせられない。
	 松枝が茶が乗った盆を持ち上げて先に行くと告げた時、美由紀は心の底からほっとした。榎木津は相変わらず、読めない顔をして松枝を見ていた。
	「美由紀さん」
	「はい」
	 盆を持ったまま、松枝は美由紀を見て言った。
	「驚かせて悪かった。・・・また、言い直します」
	 カシャンと、ガラスの引き戸が再び軋む。
	 呆然と見送ることしかできないでいると、榎木津は再び空になったグラスを置いた。
	「ねえ」
	 松枝が去った引き戸の方を見つめる美由紀に、榎木津の表情はわからない。どんな顔をしているのかを知るのも、怖かった。
	「女学生君どうするの?」
	 酷く単調な低音が、乱暴に心をかき回した。
	「どうする、って…」
	 既に、自分は恋をしている。恋は一度に一人としかできないというのが一般的で、それに当てはめれば席は埋まっている。
	 違う男に告白をされどうするのかと問う男にこそ、恋をしているのだ。
	 ばくんばくんと鼓動する理由は、告白をされたからではない気がした。
	「あの彼と、付き合ったりする訳かい」
	 ばくんばくんと、これ以上大きくなりようがないだろう鼓動が、どんどん大きくなっていく。
	「私、は…」
	
	 今この時、ひとつの願いが浮かぶ。
	
	 台詞を。
	 ――誰かの恋人にならないで。
	
	 しかし当然そんなものは、
	
	「・・・君の勝手だ」
	
	 神に願い事をするのと変わらない。
	
	 勝手だと言っておいて――
	 榎木津はまるで途方に暮れたような無表情をしていた。
	 それは自分の顔だと思いながら、美由紀は斜め20センチ上を見ていた。
	
	 破れた願いはただの予定調和だというのに、視界が塞がれたような濃い影の中、夏の暑さだけが肌に沁みた。
	
	
	『薔薇十字探偵の私事』5-5(終) 

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