それは子供が他愛無い遊びを思いついたのと同じ口調で。
「女学生君、 ジャンケンしよう」
美由紀はぱちりと目を開けた。目の前には透けるような鳶色の瞳が、鼻先数センチにある。
咄嗟に答えられなかったのは、美由紀が今の今まで砂糖を煮詰めたような空気に意識を沈めていて――つまりは目を閉じて恋人からの口付けを待っていて――到底子供の無邪気な遊びとは結びつかなかったからだ。
「――何で?」
それ以外に何と言おう。
二人は美由紀の部屋の、敷かれた布団の上に座っている。つまり、非常に「恋人らしい」状況にある。普通はここでジャンケンをしようとは思わないだろう。
榎木津は口付けまで数センチという距離のまま、至って楽しそうに笑った。悪びれたところはない。
「たまにはいいさ」
「は?」
「僕も待ったりされたりしてみたい」
熱にぼやけていた美由紀の思考が、恋人の言葉を翻訳しようと高速回転する。主語を補う。
恐らく彼が言いたいのは――
「キスを」待ったり「たぶんいろいろと」されたりしてみたい。
凍りついた美由紀を気にもかけぬまま、榎木津は身体を離し胡坐をかきなおした。
「ここはさ、公平にジャンケンしよう、ジャンケン」
そう言ってから「グー」を突き出す仕草は間違いなくジャンケンを強請っている。
美由紀は呆れたりお預けを喰らったりで、自分が勝つべきか負けるべきかも考えぬまま、反射的に最初の「グー」を差し出していた。
*
確認していなかったと気付いたのは、勝敗が決まってからだった。
勝った方がどうするのか。負けたら「する」のか「される」のか。
美由紀がグーを出して、榎木津はチョキを出した。その結果を見た瞬間、榎木津はそれは嬉しそうにふふっと笑った。
「じゃあ女学生君」
好きにして。
やたら上機嫌の笑顔のまま、榎木津は無邪気に首を傾げてそう言った。いい歳をした男がする仕草ではないが、その顔立ちのせいでやけに様になる。いっそ可愛らしく思えるからたちが悪い。
可愛らしくは見えるのだが――
「好きに?」
美由紀は顔いっぱいに困惑を浮かべて、榎木津の言葉の欠片を反復する。榎木津はなおもにこにことしながら、こっくりと頷いた。
「うん、僕を好きにするがいい」
「…煮るなり焼くなり?」
慣用句として続きそうな言葉を思わず口走れば、榎木津は途端に眉を顰めた。
「そんな熱そうなのは嫌だ。それとも、君はそういうことがしたいのかい?それなら、まあ約束したし…いやでもやっぱり嫌だぞ」
完全に妙な誤解をしている榎木津に、美由紀はぶんぶんと首を横に振りながら否定した。
美由紀だってわかっていないわけではない。しかし、
「な、なんかおかしくないですか?」
「何が?」
「か、勝った方が、その、するって」
するのされるのという言い方が美由紀の羞恥心を煽っていた。
「何処がおかしいんだい?勝った方が負けた方を好き勝手できるのは世の常じゃないか」
世の常など完全に無視して生きている癖に、と美由紀は反論したくなる。
「そんなこと言って探偵さん、私が負けたら『負けたんだから僕に奉仕しなさい』とか言い出すつもりだったんでしょう」
美由紀はよく知っているのだ。
この男は、子供っぽい言動を取りつつも、頭の中では計算し尽くしである。やたら無邪気に見えるのは、ほとんど動物染みた反射神経でもって頭を回転させているから、思案するような時間や素振りを他人が見出せないせいだ。もしくは、本人でさえも自覚していないことがあるからだろう。
榎木津はにっこりと笑った。どうやら、これはわざとである。
「まっさかあ」
ほらほら、好きにしなさい、女学生。
結局好きにしろという命令を下す榎木津に、美由紀はそれじゃあ放置してやろうかと思ったが――
そういうわけにもいかないくらいには、美由紀は恋人のことが好きだった。
*
まず困惑した。一瞬の間だったが、困り果てた。
“こういう場合”美由紀はいつだって榎木津に好き勝手される側だった。もちろん、嫌だったりあまりに恥ずかしいと思った時は全力で抵抗したが、恥ずかしいのか嬉しいのか判別ができない程度の恥ずかしさなら甘んじて耐えていた。その忍耐も、やがては喜びとか、甘ったるい愛しさに直結してしまうので、美由紀は照れ隠しの文句さえも言えなくなってしまう。つまりは、それでよかったのだ。
そもそも、女性が積極的に男性を好き勝手するというのは、一般的に見て――
女性が性衝動に従順になることは破廉恥である、というのは、酷い差別であると思う。女性は慎ましくあれ、受身であれ、という意見には美由紀は納得できない。そうは思うのだ。しかし、それでも――
この羞恥心を、どうしたらいい。
榎木津は何を考えているのやら、ジャンケンをする前と同じ場所で同じように胡坐をかいて大人しくしている。さあ好き勝手してください、と言わんばかりに脱力しながら、期待に目を輝かせ美由紀をじいっと見詰めていた。据え膳食わぬは何とやら、という言葉が頭を掠めたが、随分と態度の大きな据え膳があったものだ。
「ふふ、なんだ京極の物真似でもしているのか?」
美由紀は言われて初めて顰め面をしているのに気付き、表情筋から力を抜く。
「だって、いきなり好きにしろって言われても…眉間に皺を作りたくもなります」
そこで、榎木津は久しぶりに機嫌がいい以外の顔をした。理解できない、という風に口をへの字にする。
「何をそんなに考え込むことがあるのかね」
その声にはため息が混じっている。いくらか憮然とした表情で、榎木津は続けた。
「たまには君だって僕を好きにしてみたいだろう。日頃はつい僕が主導権を握ってしまうから、今日は逆でもいいかと思ったのだ」
たまには、この人を、好きにする。主導権を握る。今日は逆に。
美由紀は極短時間に榎木津の台詞を反復し、正確に理解しようと努めた。
どうも、榎木津の口振りから察するに、彼は己の恋人に気をきかせている、というつもりらしい。それなのに、困って凍りつくばかりの美由紀に少しだけ不満である、という様に見える。
榎木津は鳶色の大きな瞳を真っ直ぐに美由紀に向けた。続いた言葉は簡潔で非常にわかりやすく、そして先より僅か声を低くしていた。
それとも――
君は、僕に触りたくないのかい?
何故か哀れっぽく響いたものだから、
「いいえ」
美由紀は小さな声で即答した。
当たり前だ。恋人から触れられることがどれほど心地良いか、美由紀はよく知っている。
同じだけ触れてみたいに決まっていた。
布団に横座りしていた腰を上げて、膝立ちになる。元々僅かしかなかった榎木津との距離を、さらに縮める。
片手を、ゆるりと肩に置いた。もう片方は――
「そんなことはないです」
美由紀は榎木津の頬を摘んで軽く引っ張りながら、はっきりと告げた。
榎木津は頬を伸ばされながら、愉快そうに笑った。
*
そっと口付ける。
恋人同士となってから長くはないが短くもない時間が経っていて、これまでに口付けは幾度となく交わしていた。それなのに――。
何故だろう。
唇が触れ合った瞬間、美由紀は少しだけ戸惑った。
知った感触なのに、どこかいつもと違っていたのだ。
軽く唇を食むことから始めたキスは、いつもよりふわふわと柔らかに感じられた。
美由紀から唇を重ねれば、榎木津も唇で応えた。啄ばめば啄ばみ返し、舌で唇を撫でれば、榎木津はそれを受け入れながら舌先で触れ合わせた。
濡れた感触を探り当てた瞬間に、胸がきゅうっと締め付けられる。
恐々という風情で舌を使い始めたものの、やがてそこに意志や狙いは消えてしまった。
舌を挿せば唇が開いて、舌先を絡め合ったり、また離れて、濡れた唇を重ねたりすれば、それは酷く心地よかった。
榎木津からされるキスとは、やはり違うと思う。息苦しいほどの快楽や、身体の力が抜かれる程の恍惚感は、美由紀には与えられない。
それでも、たぶん、
愛情とか、そういう優しいものならば。
美由紀は肩に置いていた手を持ち上げた。両手で、口付ける恋人の頬を包んで、濡れる音を聴きながら唇を重ねる。
大好き、という言葉に宿る熱量を、声にしないまま唇から溶かしていく。
感情は水の性質を持っているから、この水音は、たぶん愛情の音なのだ。
恋人の、滑らかな頬が温かい。そこに、さらに熱い恋人の掌が重なった。
愛情とか、そういう優しいものを、貴方が感じてくれたらいい。
酷く穏やかな吐息と共に、離す。
恋人は、
「気持ちいい、ね」
内緒話をするように、呟いた。
その目は、快楽などよりずっと切なく、泣き出しそうとさえ見えて、
美由紀は思わず、その瞳ごと恋人の頭を抱きしめた。
*
触れるたび、知らない昂ぶり方をしていることを自覚した。
ふわふわと柔らかい髪を軽く梳きながら、額に、瞼に唇を落とす。
あんなに躊躇ったのは何故だったのだろう。羞恥心に身が竦んだのも、今となってはよくわからない。
愛しさの捌け口を求めるように、美由紀の手は榎木津に触れた。
形のよい白い耳を唇でなぞってから、いつもされるように舌先で耳の中を撫でてみる。すると、それまで大人しくしていた榎木津がびくりと身を捩った。日頃の自分と似た反応をされたので、美由紀は常の榎木津がそうするようにもう少し続けてみた。乱暴にならないように、そっと舐めたり、耳の縁を噛んだりする。榎木津はんんっと何か耐えるような声を漏らすと、美由紀の腰に腕を巻きつけてぎゅうっと抱きついた。
「くすぐったいですか?」
小さな子供のような抱きつき方が何だか可愛くて、美由紀はくすくすと笑ってしまう。
榎木津は美由紀の首に鼻先を埋めながら、一度頷き、それからすぐに首を横に振った。どっちだかわからない。よくわからないのだが――抱きついてくるのだから、嫌ではないのだろう。
抱きしめられながら、首に触れてみた。榎木津は一見華奢に見えるが、そこはやはり己と比べるまでもない。柔らかな皮膚の下に、硬い筋と、大きな血の流れを感じた。
初めて触れたわけではない。恋人として交際する中で自然に肌に触れることは増えたし、寝台で抱き合うことも、頻繁ではないが少なくはない。軽い口付けでもそれ以上のことをしていても、恋人に縋りついたり、控えめながら愛撫することくらいはあった。知らない訳がない、この感触を。
それでも、美由紀が今抱えている熱は、経験がない。
首筋を指先で辿って、シャツの襟の部分へすっと忍ばせ、鎖骨に触れた。
「あの」
「うん」
膝立ちをしている美由紀は、ほんの僅か低いところにある榎木津の顔を見下ろす。
自分は今、どんな顔をして恋人を見ているのか、そんなことが突然気になった。
榎木津は、ただただ美由紀を見ていた。待っているようにも見えた。
今の自分を、あまり見つめて欲しくはなかった。
触れている肌は、霧に濡れたように美由紀の指先に吸い付いた。その指が震えていないか心配になる。情けないほど、緊張していた。次にするべきことに舞い上がっていることにも、それをどうしようもなく躊躇っていることにも、情けない。
彼の目の特性上完全に暗闇にするのは難しいとしても、幾らか灯りを落としてもらえばよかったと後悔した。
「た――探偵さん」
思わず呼びなれた呼称を口走ったのは、照れ隠しと、次に美由紀がしたいと思っていることを本当にしてもいいのか確かめたかったからだ。榎木津は――こういう時だけは察しがよく――へらりと笑って美由紀を見上げた。
「いいよ。脱がせて」
本当に、やるのか。
こっそりと唾を飲み込んで、淡い空色のシャツに手をかけた。膝立ちをしながら両手で釦を外すのは思いのほか難しく、榎木津の胡坐の前でぺたりと正座する。そのまま、ひとつひとつゆっくりと、釦を外した。
シャツの下は下着をつけていなかった。釦が外れる度に白い肌が覗く。もちろん、恋人の服の下のことだって、美由紀はとっくに知っている。色も温度も感触も、既に何度となく確かめている。それでも、これまで見慣れたと感じたことなどなかった。ましてや、今は自分でその肌を暴いているのだ。
喉の奥に蜜を垂らされたような、甘みを伴う後ろめたさ、そんな感覚がこの世にあるなんて、美由紀は今この時まで知らなかった。
すべて釦を外してしまってから、鎖骨の皮膚の張りやおうとつを指の腹で撫で、胸の筋肉を掌でぺたぺたと触ってみた。年下の自分とそれほど変わらない張りのある皮膚と、そのすぐ下を流れるだろう血の流れと温度は、間違いなく勝手知ったる慕わしい人のそれである。さらに手を下に下ろせば、硬い筋肉が張った腹に触れる。引き締まった腰を指先でなぞると、榎木津は僅かに身を引くような仕草をした。くすぐったい、耳元に囁かれた声は熱く湿っていて、美由紀は軽い愛撫でも受けたように身体が疼くのを感じた。
榎木津の顔を見るのが、躊躇われた。同時に、どうしようもなくもう一度口付けたかった。
怖がりながら顔を上げれば、穏やかな表情の中で高温を宿す瞳とぶつかる。
ああ。欲情してくれている。
自分がしたことで、確かに恋人は昂ぶっているのが知れた。
その事実が、美由紀の身体の奥の奥、自分では触れることができない、恋人ならば触れられるのかもしれない場所を疼かせる。
――欲しい。
欲しい。
この人が。この人の情が、愛情が、感情が。この人の欲望が、指が、舌が、視線が。
欲しい。
唇を合わせそのまま、声にせずに囁きかける。無意識だった。
重なった唇が、弧を描いた気がした。
他に例えるもののない、粘度のある水音が理性を焼く。
榎木津は相変わらず、舌と唇しか動かさない。
欲しい。欲しいから。欲しいのに。
*
口付けの合間の一瞬で目が合い、榎木津はくしゃりと笑った。
「――いいね。目が、ぎらぎらしてる」
「え?」
「僕が欲しくてたまらないっていう顔だ」
ばれている。あまりの羞恥に俯くが、しかし――美由紀は喜んでいる自分を無視はできなかった。ばれているのも、本当は知っていたような気がした。
美由紀の恋人は、その身体的な特徴と持ち前の聡明さ故に、隠し事の一切が通用しない。それは美由紀にとって、ある種の快感でもあった。何も隠さぬ素の自分に服の下を触れられるのを許す恋人からの信頼は、恋人ならば当たり前のように思われるかもしれないが、美由紀は違うと思っている。
嘘を暴いてしまう人にとって、誰かを信頼したり愛したりすることは、たぶんとても怖いだろう。
それでも、この恋人は美由紀に、脱がせて、と強請った。
それを言わせた恋人の心が、美由紀は心底愛しかった。彼の心に報いたかった。
自分の情欲を暴く恋人は、場違いなほどに無邪気で嬉しそうに笑った。
「欲しいのだろう?ほれ、好きにしろと言ってるじゃないか」
――意地悪だ。
自分を苛めて愉快がっているのは酷いと思う。しかし、どうにも嬉しそうだから、美由紀はつい甘やかしたくなってしまう。何より、冷静さや理性などが、そろそろ煩わしくなってきていた。
意を決して、白い肌を半分隠すシャツに手をかけた。そっと肩から落とす。
逞しく、かつしなやかに隆起する肩や腕の筋肉、そのラインに見蕩れた。服を着ると細身に見えるが、実際はつくべきところにしっかりと筋肉があるから、美術室に置かれた彫像を想起させる。日頃はさっさと脱いで唐突に目の前に曝け出されるものだから、いちいち細部を眺める暇などなかった。
見慣れたものの見慣れぬ出現が、また理性を焼く。
焼かれるせいで――身体が熱い。
「可愛い。お腹が減ったにゃんこみたいだ」
榎木津は緩やかな微笑を浮かべると、肘にシャツの袖をひっかけたまま美由紀の顎をくすぐった。猫にすればごろごろと喉を鳴らすだろうが、美由紀は生憎と猫ではないので、くすぐったさに首を竦める。
腹をすかせた猫みたい、とはどういうことだろうか。可愛いと言っているのだから褒められているのかもしれないが、美由紀には、今の自分は決して猫などという可愛らしい動物に例えられるものではないように思えた。餌を前にした猫がにゃあにゃあ啼くあの真摯さを言っているのかもしれないが、それでもやはり猫に申し訳ない。
欲望、なのだ。切なくなるほど、切羽詰った欲望だった。
そういうものを、己がこれほど抱いていたということも、美由紀は今始めて自覚した。
恋人から触れられることで、性欲に灯を点されることには慣れてきていた。しかし、そういう時は相手の要望に応えているような気持ちがあった。しかし、今日は違う。今は自ら恋人に触れて、恋人の瞳に熱を宿したのは自分で、そして抱えた欲望は間違いなく自分のものだった。
「可愛くなんて、ないです」
零れた声は、我ながら頼りなく掠れていた。
再び膝立ちをする。恋人の裸の首に、自分の両の腕を絡ませた。
「可愛いよ」
「ないです」
可愛い猫は、恋人を裸にして欲情して、その肌の感触に我を忘れそう、なんてことはないだろう。
ぎゅうっと、美由紀は恋人を抱きしめた。
この上なく心臓が高鳴っている。それなのに、美由紀は手詰まりだった。ここから先、何をどうしたらいいのか、思いつかない。恋人にされることと同じようなことをしてみればいいのかもしれないが――手詰まりどころか、残った理性が思考を妨げて、身動きが取れなくなるばかりだった。
心なのか欲求なのか、そのどちらもなのか、とにかく逸る。無意識に、美由紀の指は榎木津の肌にきつく食い込んでいた。
抱きたい抱かれたいという欲情もまた感情なのだろうか。美由紀は考える。自分を構成する水分が形を留められなくなったような感覚がある。こぽこぽと水漏れを起こして――
「探偵さん」
抱きしめるというよりは、縋りつくといった方が正確かもしれない。
「好きにして、いいんですね」
「いいよ」
耳元で重低音が響いた。愛しい声、欲しい声。
「じゃあ」
*
それは二文字で強請ることができる。
切実で断固とした、それでいて最高に可愛らしいその要求に、榎木津は堪えきれずにふふっと笑った。
まずは、ぴったりと巻きついて簡単に解けそうにない細い腕を、宥めるように撫でて柔らかく解す。それを外して、二つの小さな掌を両手で包む。
黒い大きな瞳には、羞恥と欲と、惜しむことなく与えようとする優し過ぎる愛情が、湧き水みたいに溜まっていた。
それを見ながら、榎木津は先に恋人から注がれた愛情が、既に体中を満たしているのを感じていた。同時に、いつもは生意気な表情の眼差しがきらきらと潤んでいる様子や、気付いてはいないだろう吐息の熱さに、どうしようもなく心惹かれる。
愛情と欲情、そういう海に、溺れている。
榎木津は己で抱いたイメージに他人事のように納得し、それからすぐに、どうでもよくなった。
何事も、考え過ぎはよくない。美由紀はその辺りがまだよくわかっていないと榎木津は思う。
美由紀よりもずっと大きな掌で、彼女の頬を包み込む。恋人はじっと見詰められて困っている顔だが、白目までも透き通るほど濡れていた。
何か言ってみようか。今なら、好きだとか愛してるとか、普段あまり言いたくない類の言葉を言って聞かせてみたいような気がした。
気がしたのだが――
どうせ、漏れ出したり零れてしまうものなんだし――榎木津は無言で口付けて、恋人を胸の中へ沈めた。
(終)
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