「いやぁその時僕に向けられた笑顔ときたら、そりゃもう桜が霞むほどの可憐さでしたよ」
益田の人格を疑いたくなるような軽薄な笑い顔に、青木は冷ややかな視線を向けてから猪口の酒を舐めた。益田はその反応にさらに気をよくしたのかにたりと笑う。
「そんな睨まないでくださいよぉ」
口ではそう言っているが、自分の反応はきっと益田が期待した通りなのだ。
青木の左隣でがつがつとモツ煮を食べていた鳥口が、ビールを呷ってから口を開いた。
「それにしても、見事な抜け駆けすねぇ。益田君」
抜け駆けという言葉にほんの僅か心がざわついたのは、酔っているせいかもしれない。そろそろ顔の辺りが火照っているのを感じている。
「抜け駆けなんて滅相もない。偶然です。日頃の上司からの迫害に耐える探偵助手に、神様からのご褒美ですよぅ。僥倖。ラッキー」
右隣にいる益田は、今度はふざけずにはっきりと言って手酌した。抜け駆けなど思いついたこともないという顔である。
――まあ、そうなのだろう。
青木だってわかってはいるのだ。益田が中禅寺敦子を本気で口説く気がないことくらい。抜け駆けという言葉を使った鳥口も、一種のジョークとして口にしたに過ぎないはずだ。
花見の場所取りをしていた益田と、偶然そこを通りがかった敦子が成り行きで花見をしたというだけの話である。
別に「抜け駆け」を禁止するなどという約束事をした覚えはないのだが――。
青木は頬杖をつき、猪口の底に残った酒を啜った。熱い液体がとろとろと胸に落ち込む。
脚色されているに違いない益田の話から、満開の桜の淡い紅色のイメージと、いつだか敦子がころころと笑っていた様子が思い浮かんだ。途端に、頭を抱えて蹲りたいような気分になる。
いつから「抜け駆け」などという面倒臭い単語が、この三人の間で共通認識として出来上がったのか、青木は思い出せない。
雑誌記者の鳥口、探偵助手の益田と、そう一般的ではないきっかけで知り合いこうして酒を酌み交わすような仲になってから、せいぜい二三年といったところだ。性格も職業もバラバラの三人だが、共通の知人が多かったり、仕事上で扱うものがどこか似ている(益田にいたっては元同業だ)せいなのか、はたまたただ同世代の男同士で騒ぐのが愉快であるだけなのか、月に幾度か誰かしらが呼びかけて飲みに出かける。そうしているうちに、この三人の「もうひとつの」共通点をそれぞれが認知するようになっていた。
青木も、鳥口も益田も、同じ女性に好意を抱いている。
その認識を共有するうちに、いつしか「抜け駆け」という言葉が三人の話題に上るようになった。ある時は冗談として、ある時は誰かをからかう手段として、三人のうち一人が欠席した場合は噂話につき物の単語として。しかし、それはいつだって幾らかの笑いを伴う単語だった。真剣に誰かを牽制しようだとか、焦燥を感じながら発したことはなかったと思う。ある種の笑い話、場を盛り上げる為の話題である。
だから――
それぞれの本心はそれぞれにわからない。
「そうは言うけど益田君、この間敦子さんに会ったら随分嬉しそうに話してたよ、益田君と花見をしたんだって」
白飯の茶碗を持ち上げながら鳥口が言った。益田はえっと声を立て勢いよくカウンターに乗り出し、青木越しに鳥口を見た。同じように鳥口を見ると、鳥口はからかうでもなく、ただ事実を伝えているのだとわかる何気ない表情をしている。すぐ傍で鳥口を凝視する益田は、何か言葉を探している様子で静止して、それからそろそろと姿勢を正した。たぶん、上手く茶化せなかったのだ。
益田の態度と表情は、青木にとって意外だった。もっと嬉しそうにするか、調子に乗って見せたりすると思った。しかし、実際に見せたのは、顔面から感情を剥ぎ取ったような無表情と、酒のせいで仄かに紅い頬のアンバランスである。
いつもの青木なら、面白がったりわざと意地悪なことを言ってみたりして、益田が見せた不自然さ―つまりは素の表情なのだろう―を見なかったことにしてやれただろう。それができなかったのは、きっと話題がよくないのだ。
真意が知りたい――そう思った自分を少しだけ情けなく思いながらも、青木は黙って益田を凝視した。
鳥口の、朗らかな笑い声が空気を変える。
「そんなに吃驚しなくてもいいじゃない」
益田は泳いでいた瞳を固定し、思い出したようにケラケラと笑った。青木自身も、何かの呪縛が解けたかのように力が抜ける。
「いやあ、ほら、普段九割貶され蔑まされているから」
褒められたりすると心臓に悪い、と情けない声を出しながら眉尻を下げる。それから、益田は何故か青木を見て、ねえと首を傾げた。
――何だろう。
酒が染みた意識に、益田が発した複雑過ぎる「ねえ」は毒だった。吐き気がすると感じてから、それは飲みすぎではなく苛立ちであるのを自覚した。
「ずるい、益田くんは」
何か言ってやりたくて口に出たのは、まるで子供がする喧嘩の捨て台詞だった。益田はそれまでのへらへら笑いをぴたりとやめて、幾度か瞬きをしながら青木を見た。酒に強くない青木にとって憎らしいことに、益田の深く切れ込んだ目には案外酒気が見えない。その目が、穏やかに笑う。
「そりゃ誤解です、青木さん。さっきも言ったけど、全部偶然なんだから。調査先で雨宿りしたのも、花見したのも」
慰めるような言い方に、心底情けなくなった。それでも、アルコールがその情けない自分をさらに甘やかしていて、この場での態度を改めることを放棄させる。
青木が言った「ずるい」は、益田が考えているのと違う。
別に青木は、益田が享受したらしい僥倖を羨んでいるのではない。益田に「その気」がないことを、青木はきっと誰よりもよく知っているのだ。
青木がずるいと言ったのは、先の「ねえ」の裏側にある益田の思惑についてだ。敦子と自分は何でもないということを、見事に滲ませた言い方だった。
――自分の本意は告げないくせして、人の心を暴いているのが、ずるい。
「ずるいと言うなら青木さん、益田君の運気にあやかってみたらどうです?例の花見の日が校了前だったそうですから、今はさほど忙しくないそうですよ」
酒の肴を白米のおかずにして掻き込んでいた鳥口が箸を止めて言った。どうやら鳥口も青木の発言を誤解しているらしい。だが、至極もっともな意見だとも思う。
何だか――
長いこと心の底の底の方に沈めていたぼやぼやとした思いが、酒に洗われて面前に見えるような気がする。
「かく言う僕も、この間敦子さんと喫茶店でお茶してきちゃいました」
「え!?」
思わぬ告白に、今度は益田も一緒になって声を上げた。
「なぁんて、僕のは仕事です。また写真を撮って欲しいって話ですよ」
鳥口もまた素面と変わらぬ調子で明るく告げた。
青木はどこかほっとするのと同時に、ほっとした自分にどうにも見逃せない引っ掛かりがあった。益田も鳥口も最近の敦子の様子を知っている、それが原因なのだろうか。それとも、自分が最近の敦子を知らないということが原因なのか。
ここにいる三人が敦子に対して並々ならぬ好感を持っていることは明白な事実である。ただし、それがどういった種類の好意なのか、詳しく問いつめたことは誰もない。三人共がここまで明け透けに敦子への好意を話題にしておきながら、今更結局のところどう思っているのかなどと聞くのは場が白ける気がした。
青木の印象としては、益田が口にする敦子への好意は一番わかりやすい。憧憬、である。好みの映画女優について、やや誇張し時には下品に品評するファンのような調子で敦子の話をする。逆に、わかりにくいのは鳥口だった。かつて敦子が関わった事件で鳥口は敦子に対して多大なる労力を割いた。ちょっとした友人や仕事仲間とか、そんな関係では説明のつかないような執心ぶりだった。だから、鳥口の敦子への好意は恋愛におけるそれだと思っていた。が、あれからかなりの年月を経た今でも、鳥口と敦子の仲は変わらない。
話に聞く限り、鳥口は青木と違って奥手というわけではなく、むしろ女性関係は三人のうち一番派手である。だから、鳥口が本気であれば、何らかの手を打ってくるものと思っていた。しかし、どうにもその気配がない。
結局、敦子に関することで一番情けないのは自分である、と青木は結論づけている。鳥口が何をどう考えているのかは知らないが、もっとも深刻で切迫しているのは自分なのだ。
最後に敦子に会ったのはいつだったろうか。言葉を交わしたのは、彼女が笑った顔を見たのは、いつだったのだろう。
自問の答えはわかっている。今年に入って中野の古書店の主と面会した際に一度顔を合わせているし、その時に言葉は交わしているのだ。言葉を交わせば交わすほど、二人に開いた距離を感じずにいられなかった。そのことにほっとした自分もいて、同時に、誤魔化しようがない喪失感に唖然とした。
確かに、近くにいたのにーー。
青木はある事件で敦子の内面に触れたのをきっかけに、急速に接近した瞬間があった。それがもう二年も前のことである。思い返せば情けないばかりだが、青木はその時ほとんどムキになっていたと言っていいほどに敦子への感情をセーブした。無理矢理に矯正した。矯正しきれなかった部分には、仕事や人間関係という名の砂や泥を被せて隠した。
いい年をして不器用にも程があると、今は思う。
積もった塵が酒に流されて、隠していたものが姿を見せる。踏みつければ壊れるに違いない、儚くも煩わしく光るソレが。
――ああ、酔っているな。
「益田君のはただのラッキー。僕は仕事です。青木さんにはなかなか真似できません。ここはデカらしく、実力行使でいかがです?」
「得意じゃないすかぁ、令状とらずに押し入りゃいいです」
鳥口と益田が、発破をかけていることはわかっている。青木の、秘めたつもりでいた思いを応援してくれているのは、痛いほどにわかる。それでも、応えていいのかどうか。
「僕は、もう、そんな資格は」
口をついて出た言葉は、日頃青木が飼い慣らす理性が、まるで口癖のような惰性でこぼしたものだった。僅かの本心も含まれない上に、呂律もまわっていない。
二人に応援してもらうような資格はない、青木はそう思う。どうにも情けなかった。人の、もっとも曖昧で弱々しく、かといって捨て去れない感情を、蔑ろにした過去の自分が情けない。
ただでさえコケシに似ていると言われる重たい頭が、無意識にゆらゆらと揺れて支えきれなくなってきている。
煩わしかった。酔いも、それによって露わになる感傷も。
「煮えきらないなあ」
右から無神経に明るい声が、青木の感度の鈍った聴覚に届いた。
――わかってないね、君は。
煮えきらないどころか、煮詰まって焦げ付いて――。
*
鳥口は、実際腹をすかせていた。
偶々取材が重なった日だった。午前中から歩き通しで、落ち着いて食事をする時間は夜まで取れないことはわかっていた。だから、今夜の飲み会では散々食べて飲んでやろうと決めていた。そういう理由で、酒の横に白飯まで準備してがつがつ食べて飲んでいたのである。
もちろん、元来ノリがいいので食べているばかりではいられない。益田のくだらない話にも乗るし、青木に負けじと突っ込むこともある。自ら馬鹿馬鹿しい話も披露した。
益田が仕掛けてきたのは、各々酒が進んできた頃だった。
「いやあその時僕に向けられた笑顔ときたら、そりゃもう桜が霞むほどの可憐さでしたよ」
その話題は、なかなかに興味深かった。言葉の内容というよりは、それを口にした益田と、それを耳にした青木と、自分自身の心の内についてである。
だから、鳥口は黙々と食事をする格好で、様子見をさせてもらうことにした。プライベートとは言え、関心のある情報の収集について鳥口は貪欲である。事件記者の性なのだろうと思っている。
益田が話題にしているのは、先日三人共通の知人が主催した花見の日のことだった。花見の場所取りをしていた益田が、ひょんなことから友人の女性と遭遇し、成り行きで花見を楽しんだという話である。その女性というのは、益田も青木も鳥口も大いに好感を持っている美しい女性であるから、つまりは益田の自慢話だ。
益田は、御伽噺の意地悪な狐のような顔でにやりと笑った。視線の先の青木はそれこそ狐に嫁入りを申し込まれたような苦い顔で、益田を横目に見ている。
「そんな睨まないでくださいよぉ」
益田は眉尻を下げて情けない顔を作ってはいるが、声は楽しそうだ。
もぐもぐとモツ煮を噛みながら、鳥口は理解する。益田の思惑と、自分自身を含んだ今この時の三人の役割。
――そういうことなら。
鳥口は益田の狙いに加担しつつ、益田も青木もまとめてからかってやることにした。味の染みた煮物を肴に、ビールを流し込む。
「それにしても、見事な抜け駆けすねぇ。益田君」
抜け駆け。なんて餓鬼っぽくて、「仲良し三人組」にぴったりな言葉だろう。三人で集まると時たま出てくる単語だった。
それは即ち、三人の共通の知人である中禅寺敦子への、何らかの接近を意味する。もちろん、誰一人そんな単語を本気で使っていないことも知っている。鳥口はその子供じみた言葉遊びが少し気に入っていた。
益田は心外とでも言いたそうに吊り気味の目を開いた。
「抜け駆けなんて滅相もない。偶然です。日頃の上司からの迫害に耐える探偵助手に、神様からのご褒美ですよぅ。僥倖。ラッキー」
はっきりと断言してから、素面の常態と変わらぬ仕草で手酌をした。青木は気のない表情をして正面に向き直ったが、その一重の目がいつも以上に重たそうだ。そろそろ酔ってきたらしい。鳥口の横で並んで座る二人の様子が対照的で、いつものことながら可笑しかった。
益田は酒が強い類ではないが、下手をやらかさない酔い方をした。場に合わせて、羽目を外すべき時は外して幇間役に徹するし、そうかと思えば最後の最後に潰れたものの世話を焼いていたりもする。一方で、鳥口や益田よりもわずかに年上の刑事は、酒には頗る不器用だった。理路整然と喋ったり、鳥口や益田のボケに的確に突っ込みを入れていたかと思えば、次の瞬間にはくたりと卓上に突っ伏していることが幾度かあった。鳥口はと言えば、若い頃から歴戦の編集者たちの間で鍛えられているから、余程度を越さない限りは平気だった。三人で飲んで盛り上がれば、大概青木が最初に潰れて、鳥口と益田が彼の部屋まで送り届けるか、店の親爺に頼んで寝かせておくことになる。
青木の様子を見たところ、これは好機かもしれないと、鳥口は思った。ビールで白米を流し込む。
「そうは言うけど益田君、この間敦子さんに会ったら随分嬉しそうに話してたよ、益田君と遭遇して花見をしたんだって」
益田と青木の反応は、鳥口の予想を僅かにはずした。青木よりも益田の反応の方が顕著だったのだ。益田は心底驚いたという顔をしてから、何やらお調子者らしくない神妙な顔をして見せた。
茫然とするほど驚くことだろうか。
「そんなに吃驚しなくてもいいじゃない」
凍りついたようになっていた益田がどこか哀れに思えてそう声をかけてやると、益田はスイッチでも入れ替えたかのようにケラケラと笑った。
「いやあ、ほら、普段九割貶され蔑まされているから、褒められたりすると心臓に悪い」
ふにゃふにゃと情けなさそうに言って、益田は何かを取り繕うように青木に向けてねえと首を傾げた。
「ずるい、益田君は」
そう呟いた青木を見れば、随分と顔を赤くしている。そのせいもあるのか、言葉の端には深刻さを感じさせた。
やはり悔しくはあるのだろうか。青木は益田や鳥口に比べて、仕事柄なかなか時間の融通が利かない。せっかく敦子と顔を合わせるチャンスがあっても、自分の都合でそれをふいにしてしまうことはあるだろう。仕方ないこととは言え、愉快ではないはずだ。
益田は青木を宥めるように気遣いがちに言った。
「そりゃ誤解です、青木さん。さっきも言ったけど、全部偶然なんだから。調査先で雨宿りしたのも、花見したのも」
それはそうなのだろう、と鳥口も思う。
益田が弁えている通り、このところの益田と敦子の遭遇はすべて非常に確立の低いところで起きた偶然である。そこに本人達の感情は反映されていないはずだ。
敦子は益田との花見を随分と嬉しそうに話していたが、これまで敦子が益田に対して特別な関心を抱いている様子はない。益田は刑事時代から女性や子供に受けがよかったから、敦子としても話しやすさはあったのか親しく会話をしているのはよく見るが、そこに男女の空気は見受けられなかった。
益田としてもそうである。益田が敦子に好意を抱いているのは周知の事実だが、益田に限って言えば、どうも現実味がない。かわいい、可憐だ、あそこがいいここがいいと、敦子に対する評価はかなり高いが、ではデートがしたいとか恋人にしたいとか、そういった話には決して展開しない。益田は殊更に艶笑話が得意という男だが、敦子に対してはいやに真面目で潔癖だ。
青木がずるいと言うべきところは、益田にはない。青木も十分わかっていて、あえて口にしたのかもしれなかったが。
青木は、益田とは違うのだ。
青木は自身を誤魔化し続けて、下手に時間を食っている。本当は敦子を身近に感じたくて仕方ないのに、この生真面目な刑事は何故か躊躇って、結局酷く後悔しているのだ。
――見てられないじゃないか。
鳥口は、この三人の中では自分が一番女性経験があると踏んでいる。それなら、一家言あってはいけないこともないだろう。
「ずるいと言うなら青木さん、益田君の運気にあやかってみたらどうです?」
「え?」
青木は重たそうに瞼を持ち上げ鳥口を見た。
「例の花見の日が校了間際だったそうですから、今はさほど忙しくないそうですよ」
やや遠回しではあるが、青木をけしかけるにはふさわしい台詞を選んだつもりだった。これが益田であれば、冷やかしからかいながらデートに誘えと直接口にするが、青木だとそうはいかないような気がしている。
青木は存外にプライドが高い。それは長所にはなっても性格的欠点にはならない程度のものだったが、こういった場合――つまりは恋路だ――には支障になりうる。青木が意地を張らずにけしかけられてくれるには、酒の力で無防備になっている今が好機だ。
あと、もうひと攻め。
「かく言う僕も、この間敦子さんと喫茶店でお茶してきちゃいました」
「え!?」
青木も益田も大きくはない目を開いて声を上げた。鳥口は苦く笑ってしまう。
「なぁんて、僕のは仕事です。また写真を撮って欲しいって話ですよ」
自分で言っていて少しだけ寂しくならないこともなかったが、事実はそうである。益田はなぁんだと言って、憎らしげにケラケラと笑った。青木は不貞腐れた顔のこけしがあればこんなのだろうという表情で、手元の徳利をもてあそぶ。鳥口は自分の思惑が思いの外うまくいっているらしいと知り、いい気分でビールを飲み干す。
「オヤジさん、一本追加ね」
大声でそう言って、空になったビール瓶を降ってやる。
深い飴色に光る硝子瓶を、青木のぼんやりとした目が追っていた。益田も、青木の様子を窺うようにして猪口を舐めている。きょろりと横目をする様子は、なるほど探偵ぽく見えないこともない。
青木はわかっていないのだ、きっと。鳥口は何度となく心中で呟いた言葉を、また繰り返した。
青木はずっとずっと、敦子を好きだった。いつからかは知らない。鳥口が青木や敦子と知り合う前から、二人は顔見知りのようだったし、もしかしたら当初から思うところはあったかもしれない。
鳥口だって、きっと益田だって、敦子のことは特別に思っている。どういった種類の特別なのかを事細かに聞いたことなどないし、男心など気持ち悪くて聞く気にもなれないが、青木が敦子に抱いているのは恋愛感情だ。青木を見ていれば、彼が敦子の話をするのを聞いていれば誰だってわかるだろう。
青木を応援してやりたいと、鳥口は思う。それも、いつからかは知らない。
鳥口だって敦子のことは好きだ。まっすぐにこちらを見つめる大きな瞳は、子鹿や子犬のような無垢な動物みたいで愛らしいし、華奢な肩や艶々した黒髪を見ていると撫でてみたくなる。それでいて、いざ向かい合って仕事の話をしていると、鳥口の敦子に対する庇護欲は一気に敬愛に変わる。なんてかっこいい女だろう、確かにそう思う瞬間があって、子犬のように抱き上げて可愛がってみたいなどという感情は遠くへ追いやられてしまう。
敦子はかっこいいのだ。しかし、例えば兄が妹を思うように、危ない目や悲しい目に遭っていないかどうかも気になる。
誤解されることが多いし、鳥口自身も一時は幾度も悩んだことだが――
敦子に抱いているのは恋愛感情ではない。
それでも鳥口は敦子が好きなのだ。誰よりも幸せになってほしい。それには、自分ではなく青木がいい。青木は敦子に恋をしているし、敦子だって――鳥口が見る限りではそうだった。まあ、たぶん。
カウンターからオヤジがビール瓶を差し出してきて、それを受け取る。
「益田君のはただのラッキー。僕は仕事です。青木さんにはなかなか真似できません。ここはデカらしく、実力行使でいかがです?」
「得意じゃないすかぁ、令状とらずに強制捜査」
ひゃひゃっと笑いながら益田が混ぜっ返す。
青木は相当酔ってきたのだろう、こけしに似た頭がぐらついている。それから頬杖をついて前かがみになり、彼らしくなく聞き取りづらい声で言った。
「僕は、もう、そんな資格は」
鳥口は、少しだけ吃驚した。
こんな明け透けな弱音を吐かねばならないほどに、この、見かけによらず案外屈強な男は弱っているのか。
「煮えきらないなあ」
僅かな動揺を立て直したのは、狸を虐める狐の顔で手酌する益田の、やけに明るい声だった。
青木の深く沈んだ瞳が、ぷかりと浮かび上がるように揺らいで光った。
*
益田には、青木や鳥口の考えがいまいちわからない。
中禅寺敦子は、益田にとって最初から魅力的な女性だった。出会ったきっかけは箱根山での連続殺人事件というあまりロマンチックでないものだったが、益田の人生を大きく変えた、一生忘れることのできない出来事であるのは間違いない。そんなとんでもない事態にあっても、敦子の存在は健康な成人男性である益田の心をふわふわと浮き立たせた。その時から今まで、益田は敦子に会う度に同じ種類のときめきを感じている。
例えば、雨宿りをしながら並んで立っていて、利口な小型犬のような大きな瞳が長い睫に囲われている様子を、少し上から見た時。例えば、自分のくだらない話を聞いて、そんなに笑わせないでと困ったように笑った時の手の仕草。雨に濡れた襟足から覗いた、心配になるほど細い首、その白さ。
顔立ちの愛らしさだけではない。古書店を営む兄上を彷彿とさせる理路整然とした思考、それでいて女性らしい細やかさや優しさのある会話のセンス、少女のような仕草の中に見せる艶感。敦子のいいところなら、積み上げれば山になるほど挙げられる。
敦子はとても魅力的なのだ。
だから、益田は青木と鳥口の気持ちが理解できない。
青木が敦子に気があるのは明らかだった。青木と敦子の出会いは益田より早いから、益田が二人を知るより前から好きなのかもしれない。はっきりと気付いたのは伊豆での大乱闘の最中だったか、それとも今夜のように三人で飲んだ席でだったか。
いつだか酒の力で直球で問いただしてみた時、青木はこう答えた。
――敦子さんはそういうんじゃない。
馬鹿かお前はっ。うっかり得意の誰かさんの物まねが飛び出そうになった。じゃあどういうのだと言うのだろう。異性の友人とでも言うのか。それこそ嘘っぱちすぎて、何だか益田はやってられなくなってしまった。
自分より僅かに年上の刑事が何故下手な初恋ごっこのような状況に陥っているかと言えば、益田だって、わからないではない。
敦子は清潔なのだ。言うことは常に正論で、やることも真っ当だ。仕事ぶりは男以上で、事実ひとりで借家に住んでいるというのだから完全な自律である。入り込む余地がない。女の弱みにつけ込む男のずるい手は、何ひとつ通用しない。
いつだか一緒に飲んだ、上司の友人の司が言った。――可愛いから仲良くしてたいんだけどね、あの子はおとせない。おとす気にもならない。
司の女性遍歴はほとんどそれが趣味のような勢いだから、色恋の経験値が少ない益田には言葉の意味をはかり切れぬところもある。それでも、わかる気はした。後ろめたいところのある男に、敦子は相当やりづらいはずだ。つけいる隙などないのだから。
しかし、青木は司などと違って誠実な男だ。極稀に暴走したりもするが、それは彼の真面目さが原因であることが多い。
益田の見たところ、青木が敦子への想いを否定するのも、やはり彼の堅さ故のことなのだ。不器用なのだろう。それだからこそ、気持ちが真剣であることは察せられる。そんなに真剣なのに、何を二の足を踏んでいるのだろう。元来女性に対して苦手意識を持っていない益田には、純情で不器用な男の気持ちもまた量りきれないのかもしれない。
青木ほどではないが、鳥口だってわかりづらい。彼は三人の中で一番酒が強いから、たとえ酔って口が軽くなっても肝心なところははぐらかしたりする。鳥口が十分に酔っぱらった頃には、大抵の場合青木は寝入っているし、益田も呂律もまわらぬくらいになっているから、鳥口の本心を聞き出したことはない。
前は、鳥口は敦子が好きなのだと思っていた。今だって、好きなのは好きなのだろう。むしろ大好きなはずだ。ただ、それが恋愛感情なのかどうか益田は疑わしく思っている。
伊豆の騒動の際、敦子の兄上は鳥口に告げたらしい。それは勘違いだと。
残酷なことを言うものだと思った。恋の始まりなど、どうせすべて勘違いではないか。吊り橋だろうが殺人だろうが、素敵な女性に出会えば胸が高鳴るものだし、恋か恋じゃないかなんて、行くところまで行かないとわからないものだと思う。ならば、恋のきっかけなどは何だっていい。問題にすべきはスタート後だと益田は思う。勘違いに気づいた後が大事なのだ。
しかし、告げられた鳥口は、益田よりも冷静に受け止めているようだった。敦子に対する気持ちが、恋愛感情であるのかどうか。
鳥口は明言しないが、たぶん、違うと結論づけたのだと益田は見ている。
今夜のように、益田と鳥口が暗黙の了解で結託して青木を煽るのがいい証拠だ。敦子と花見をしたという自慢話に、青木はいい具合に反応している。
益田には、二人がよくわからない。
あれほど魅力的な女性を、どうして放っておくのだろう。
青木のように、真面目で誠実で、刑事という危険はあるが立派な公務員である男が、何を躊躇うのだろう。童顔でこけしのように大人しい顔をしているが、よくよく見ればきりりと引き締まった表情をするいい男なのだ。
鳥口だってそうだ。潰れかけているとは言え未だ発行を続けている雑誌の記者と言えば敦子と同業だし、スポーツマンのように屈強な体を持っている。彼なら体を張っても敦子を守ってくれるに違いない。寄りがちの目は犬のようだが、そこを大目に見ればなかなか見目のよい男である。
青木なら、鳥口なら、敦子を幸せにしてくれる。益田は二人に対して、そういう類の信頼は寄せている。なんだかんだ言いつつ、敦子の兄上も彼らなら認めてくれるはずだ。
そして、益田は自分を勘定に入れない。
一度も敦子を狙ったことがないと言えば嘘になった。上京したての頃、あの勝浦で起きた事件に関わった頃は、敦子と会う度に恋のきっかけを掴もうとしていた。
いつからだろうか。恐らく、青木や鳥口が、自分と同様に敦子に特別な感情を抱いていると知った頃だ。
――それなら、彼らの方がいいじゃないか。
心の底の底にある水溜りのような何かに、その思いつきがぽたりと落ちた。それはすうっと滲み、何の痛みも悲しみもないまま、それどころかどこか安堵し、僅かな喜びさえも抱いた。
益田に敦子は重かったのだ。
隙あらば敦子をデートに誘おうと思うが、そこから先に進みたいという下心は益田にない。もしも何かの拍子にそんな展開になりかけたら(大地震が起きて地下室に二人で閉じこめられたり、津波がきて二人だけ無人島に流れ着いたり。つまり天変地異である。)益田はきっと、怯む。
想像するだけで怖じ気づく。
期待など、はなからしていない。敦子が自分との花見を鳥口に語っていたというのも、とても嬉しいとは思うのだが、どこかで覚めている自分がいる。二人きりになるチャンスがいくらあったとして、そのチャンスを生かす気がなければ、何ともならない。あの聡明な女性が自分なんかに振り向くはずがないと、益田は確信している。それは少し情けないことではあるのだが、益田は特に不満には思わないのだった。
青木か鳥口、彼らのうちの誰かと敦子が付き合うなら、きっと幸福な二人が見られるだろう。想像すると、それはそれで少し切ないが、やりきれる程度の切なさだった。その時は、振られたもう一人と慰め合えばいいのだし。
三角関係どころか四角関係なんて真っ平御免なのだ。ただでさえ、益田は探偵として下手な色恋のなれの果てをいくつも見ているし、その上――最近では実体験までしたのである。益田は探偵の見習いであって、どろどろとした恋愛模様まで見習う気はない。
上滑りを身上にする自分には、三角関係の傍観者あたりが分相応だ。敦子を取り合って三つ巴を演じるよりも、青木や鳥口の横で幸せそうに笑う敦子を想像する方が、益田にはずっとリアルなことに思えた。何より益田自身が本気でそれを望んでいる。彼女の笑い顔を見ると、益田を何となく嬉しくなった。いつだか彼女を食事に誘った時に益田の口数が増えたのは、緊張もあったが、敦子を笑われたかったからだ。彼女を笑わせているのは自分なのだと思うと、益田は少し自分を見直すことができる。自分も捨てたもんじゃないのか、と思うのだ。
だから、敦子がいつも笑っていられるように、辛いことがないように、守ってくれる人が横にいたらいいと思う。それが益田がよく知る男であれば、尚の事いい。
「煮えきらないなあ」
青木の反応に沈みかけた空気を一掃したくて、益田はわざとふざけた。
くったりと俯いていた青木が、ゆっくりと顔を上げる。酒に濡れているような、それでいて切羽詰まった目で見られた。いい傾向である。しっかり煽られてくれているじゃないか。
益田はなるべく意地悪く見えるように、にやりと笑って見せた。鳥口もまた、愉快そうに笑ってビールを呷る。さらに追い打ちをかけようとしたのは、それなりに酒が回っていたからだ。
「そんなんじゃあ、思わぬ伏兵にかっ攫われちまいますよ?」
お調子者らしく、ひゃっひゃと笑う。
「おお!急展開すねえ!」
鳥口が乗ってきた。
青木の表情はぶすっとしている。こけしが臍をまげたらこんな顔をするのかも知れない。
「何だよ伏兵って」
益田は薄笑いをしながら酒を口に含んだ。アルコールが頭の中に溶けるのを感じながら、またひゃひゃと笑って、一拍置く。
できるだけ真剣に聞こえるように、益田は口にした。
「たとえば、この僕、とか」
青木も鳥口も呆れたように表情を消し、それから二人同時にはかったように吹き出した。ぶははっと笑い声が上がる。
「それはない!」
狙ったとは言え、こうまで端から否定されるとそれなりに面白くない。益田は頬杖をついて拗ねたが、やっぱり我ながら可笑しくなって、結局三人で笑った。
(終)
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