無限に広がる無知の海でバチャバチャと海水浴を楽しみながら、コップで一杯一杯海水をすくっては、眺めて、味を確かめて、ああ塩辛いと思って、それを砂浜へ投げ捨てる。自分はそうやって生きているのだと、中禅寺敦子は思う。
敦子の兄が好んで口にすることには、この世に「不思議」など何もないのだそうだ。
子供の頃はまるで意味がわからなかったが、いつからか、何となく理解した気持ちでいる。わからぬことを不思議と言って放棄するのは、きっと怠慢なのだ。「不思議」で「わからない」のなら、敦子はそれを見て聞いて触って知りたかった。「不思議」はすべて、敦子が今現在最大の愛情を傾ける「興味の対象」だった。
そうした好奇心旺盛な自分の性格を、敦子は確かに気に入っている。今奉職している雑誌記者という仕事は向いていると思う。楽しいことばかりではないし、辛いと思うことも多いのだが、つまらないと思ったことはない。
ただ、稀に不安がよぎることがあった。
理論、栄智、理、それらを自分が焦がれるほどに求めていることに、払拭し切れぬ不安がある。
理論に縋る人間とは、人として正しい在り方だろうか。
理も、知識も、何も要らない事態に陥ったら。それを思うと、恐ろしくなった。
かつて関わった事件を思い出した。まさに、敦子が信じていた常識がまるで通じない場面が、現実として「独自の理」を持って目の前に現れた。敦子にも、他の多くの人間にも共有できない理だったから、人は大いに翻弄され乱され、幾人かは命を落とした。そういった時――
自分はどうしていたっけ。思い出せない。
それはつまり、自分が手も足も出なかったという証拠なのだろうと思った。
ただいま戻りましたぁ、という間延びした挨拶が聞こえて、ソファ越しに振り返った。
「お帰りなさい、益田さん。お邪魔しています」
少し疲れた顔をしていた益田は、敦子と目を合わせた途端にそういうスイッチでもあるかのように嬉しそうな顔をした。この益田の反応はいつものことなので、敦子はさほど特別なことと思ったことはない。
「敦子さんじゃあないですか!珍しいすねえ」
そう言ってから、敦子の向かいに座っていた美由紀に目を留めて、美由紀ちゃんもこんにちは、と愛想良く挨拶した。その手には薄手の上着を二つ折りにして持っていて、外の陽射しの温かさが知れた。
「いやあ可憐な女性が二人もいるなんて、空気が洗われるようですねえ。日頃は男ばっかりでむさ苦しいったら」
「そうかっ!そうだな確かにそうだ!」
探偵机で弛緩していた榎木津が、唐突に益田の声を遮った。
「よし!鬱陶しいマスヤマの代わりにそこの女学生を雇おう。敦ちゃんは雑誌記者だからね、仕方ない」
自分の思いつきに満足した様子で榎木津は女性陣ににっこりと笑いかけた。窓から入る細い風に、柔らかそうな髪がふわふわと揺れている。ソファの背をぐるりと回って自分の机に向かう益田が、泣き声をあげた。
「ええ!僕ぁクビですか!?」
「せっかくですが、私にだって学生の職分というものがあるんですよ。探偵さん」
美由紀が利発な大きな瞳をきょろりと榎木津に向けて、感情の起伏を見せずに答えた。誰も益田をフォローする気はないらしい。先に和寅は買い物に出てしまったが、彼がここにいても状況は変わらないのだろう。
「それで、敦子さんはどんな御用で?」
自分の荷物を片付けた益田は、美由紀の隣、敦子の斜め隣に腰掛けた。
美由紀が来訪するのはここ数年の習慣のようなものらしく、益田は敦子にだけ質問した。美由紀と榎木津はまだ内容のぼやけた掛け合いを続けている。どうも惚けた内容なのだが、テンポがいいので会話は成り立っているらしい。そちらは放っておくことにして、敦子は益田の方に向き直った。
「兄貴のお使いです。これを引き取りに」
敦子が指さしたのは、部屋の片隅に積まれた茣蓙と提灯だった。提灯は畳まれているが、広げれば白い五芒星が浮かび上がるはずだ。それは先日、榎木津が主催した花見で使ったものである。敦子の兄の家にあったもので、先日敦子が兄夫婦の家に行った時に、探偵事務所からの回収を引き受けたのだった。
「そりゃあわざわざすみません。言っていただけたら返しに伺ったのに」
そう言って、益田は頭に手を当て恐縮した。
別に敦子は兄に頼まれたわけでなく、自ら申し出たのだった。編集業務はひと段落して次の山場まで時間ができたし、探偵事務所には機会があれば行こうと思っていた。だから、益田に向けて顔の前で手をぱたぱたとやって首を振る。
「もともと、こちらにお礼に伺おうと思っていたので、ついでです」
「お礼?榎木津さんに?」
きょとんとする益田に、敦子は微笑んでもう一度首を振る。
「益田さんにです。先日はご馳走様でした。苺、買ってきたんで、よければ食べてください」
「美味しい苺だったぞ敦ちゃん!」
「ご馳走様でした」
突然話に割り込んできた探偵と美由紀は、早々に益田への土産を食している。
益田は吃驚するやら照れ臭いやら、人の土産を先に食べている二人に呆れた視線を送るやらでそわそわとしながら、結局敦子に顔を向けた。
「いや、礼を言われることなんてまったく…。昼飯に付き合ってもらったようなもんですし」
本気で恐れ入っている様子で、かしかしと頭をかいた。それでも、敦子はやっぱり益田に礼を言いたかったのだ。
前回の校了の日、三週間ほど前のことだが、敦子は小さな公園で花見の場所取りをする益田と遭遇し少しだけ「花見」を楽しんだ。それは、どんなに偶然の成り行きとは言え、仕事で疲れていた敦子にとってはかけがえのない時間だった。
五分咲きの桜は可憐で、春の風が枝の間から透けて吹いて、空はどこまでも青くて、少しだけ気まずくそれでいてほかほかと温かい、思い出すと何となく照れ臭い、そういう時間になった。あれから幾度も敦子の頭に蘇るものだから、未だにはっきりと情景を思い浮かべることができる。
「そうだぞ礼を言う必要など微塵もないっ」
窓際の探偵机の方角から、大きな怒声が飛んでくる。もちろん、声の主は榎木津で、面白くなさそうな顔で敦子を一直線に指差している。それまで榎木津の相手をしていた美由紀は、やれやれという顔で冷めた紅茶を啜った。
「最下層下僕の分際で可愛い敦ちゃんと二人で花見とは、なんと言う身の程知らず!だいたい…ん?」
榎木津は怪訝そうな顔をすると、見開いていた大きな瞳に半分だけ瞼を下ろす。
「何ですよぅ。そんな怖い顔したってですね、あれは偶然…」
益田はわざとらしくソファの手すりに身体を寄せて怯えている。しかし、探偵の視線は益田だけではなく、敦子の頭上も行き来しているように見える。敦子は益田よりもずっと長く榎木津との親交があるが、それでもこの視線に慣れることはないだろうと思う。後ろ暗いところは然程なくても、やはり緊張する。
「敦ちゃん」
榎木津は、はしゃぐでもなく怒鳴るでもなく、極普通かむしろ静かに敦子を呼んだ。敦子はどきりとして、思わず真面目にはいと返事をした。
「何でそんなもの観察してるんだ」
「そんなもの?」
「バカオロカ」
再び、心拍が跳ね上がった。榎木津が、敦子の記憶の何を視ているのかわかるからだ。
花見の日、敦子は場所取りをしながら昼寝をする益田を見つけて、何故か目を離せなくなった。
その記憶は敦子にとって、なぜだかほんの僅かだけ、後ろめたい。
「…珍しい、気がしたので」
嘘ではなかった。熟睡している益田など、敦子がそう見慣れているはずがないのだから。
「…そういうものか?」
榎木津は顎に手を当てながら首を傾げると、もう関心を失ったようにくるりと椅子を反転し、窓の方を向いてしまった。だらしない格好で腰掛けているから、背もたれからは頭さえ見えない。
どうしようもない気分で、敦子は正面を向いた。益田はぽかんと呆気にとられているし、美由紀は好奇心の目を敦子に向けている。そんな目をされても敦子にはどう説明してよいものかわからなかったし、説明するのもなんだか馬鹿馬鹿しい気がした。
ちょっとしたイタズラなのだ。寝ている益田を観察したことなど。
「バカオロカって、益田さんですよね?」
焦れたらしい美由紀が、先に口にした。
「見てたんですか?敦子さんが?」
本当に、利発な娘なのだ。美由紀は榎木津の目のことも理解している様子だし、何よりも彼の扱い方を体得しているようで、今の敦子と榎木津の短いやり取りでも概要はわかってしまうらしい。一方の益田はまだ付いていけずに、美由紀と敦子を交互に見比べた。
敦子はひとつため息をついた。こうなれば、弁の立つ兄の真似をするしかない。
「見ていたと言うよりは、会ったの」
「会った?ああ、益田さんと二人でお花見した時のことですか」
「見ていた」ことを「会った」こととすり替える。榎木津の視た記憶に別の意味を付加する。榎木津がこちらの会話に関心を持っていない状況でしか使えないが、今第三者を煙に巻くには十分だ。
「ええ。ね、益田さん」
声をかけると、益田はやっと頭の中で配線が繋がったかのように、こくこくと頷いた。話題の渦中にある人物までも、見事に煙に巻かれてくれている。
「ああ、はいはい、そう。この間のお花見の日ね、昼間に突然敦子さんが公園に来て」
そのことは敦子が探偵社を訪れた時に、事務所にいた全員に伝えてあった。
「確かあのお花見の日、敦子さんはお仕事の都合がつかなかったんですよね」
疑問以外の他意など見えぬ大きな瞳が、敦子にまっすぐに注がれた。
「気分転換よ。あんまり忙しくてクサクサして、ちょっとだけ寄り道したの」
にっこりと、笑って見せた。
美由紀は瞳の表情を変えずに、ああそうなんですかと納得したらしい返事をした。それでも、やや釣りがちだが大きく愛らしい美由紀の瞳に、敦子はどこか鋭さを感じて僅かに緊張した。
「美由紀ちゃんは行ったんですって?お花見」
話題の矛先を変えようと話を振れば、美由紀はほんの僅か顔を弛緩させた。
「行きましたよ。探偵さんがあんまり来い来いと言うものだから」
不貞腐れたように口を尖らせるのは、少し照れているからだろう。先の射抜くような眼光が消え去り、恥ずかしそうに伏せた目元には少女らしいあどけなさが宿った。
「昨年は都合がつかなかったのよね?」
「去年は…ええ、そうでしたね」
ふいに美由紀の表情から、輝きが消えた。
そこで敦子はふと気付いた。榎木津が主催する花見はこれまでに幾度か開催されているが、花見の席に美由紀がいたためしがなかった。美由紀は数年前から榎木津のお気に入りであるから誘われていないはずはないし、桜が咲く時期と言えば学生は春休みである。
「今年は早かったので」
美由紀が無表情の声で言った。
「早い?ああ、時期が?」
今年の花見は三月の末に開催された。桜は満開には程遠く、せいぜい五分咲きだったのだ。
「四月の頭は毎年実家に戻っているんです」
美由紀は学校の寮で暮らしている。実家は千葉だと聞いたことがあった。
それに――おかしな話かもしれませんが――。
美由紀は、躊躇いがちに呟いた。
「満開の桜って、ちょっと苦手なんです」
それから、困ったように微笑んだ。その微笑だけが、枠にはめたみたいに大人びて見えた。
何故かと尋ねようとすると、それまで黙っていた益田が割って入った。
「美由紀ちゃん、今年が初めてだったんだよね。花見」
美由紀はこっくりと、今度は子供の仕草で頷いた。
益田の声で、思い出したことがあった。
先日の成り行きの花見で、何故五分咲きの今花見をするのかという話題になった。その時、益田が頭上の桜を見ながら呟いたのだ。
――ああ、呼びたかったのか。
益田は少しだけ切なそうに、そして今思い出してみれば、どことなく嬉しそうにも見えた。
「なるほど。美由紀ちゃんを呼びたかったんですね」
「え?」
きょとんとする美由紀をよそに、敦子は益田に話しかけた。益田は、さあ僕には榎木津さんの思惑なんてはかり知れません、と狐が化けたような調子で笑った。
満開の桜が苦手という少女とは珍しいが、敦子がそれについて尋ねるタイミングは失われていた。ケラケラと益田が薄っぺらく笑う。
「いやしかし、最初は自分の不運を嘆きましたが、結局は僥倖でしたねぇ」
益田は到底必要と思えなかった花見の場所取りと、敦子との遭遇を言っているらしかった。後半のことは本音とお世辞の半々といったところだろうと思うが、前半は敦子は少し違うと思っている。
あの花見の日、益田はかなり疲れて見えた。聞けば、実際に前日まで仕事が立て込んでいたとも言っていた。あの無意味な場所取りは、彼の上司と先輩(?)の気遣いだったのではないかと、敦子は思う。暖かな春の日、公園で一眠りして、栄養たっぷりに作った弁当を食べて、ちゃんと休んで――。
榎木津は破天荒で傍若無人で我侭な性格をしているのは間違いなく、人に気遣いなど一切しない。が、気遣いができない人間ではない。少なくとも敦子は、榎木津は(詰まるところ)優しい人なのだと思っている。和寅の方はもっとわかりやすい。だから、敦子はその推測にある程度の自信を持っていた。
この男は案外鈍いのかもしれない、自分への厚意に。敦子は益田を見た。やっぱり、不器用だと思う。
「いやー思わず青木さんにまで自慢しちゃって、随分恨まれました」
実に、幇間らしい世辞の上塗りである。
「益田さん、花見の席でも浮かれて喋っていましたもんね」
美由紀の突っ込みに、益田はまたケラケラと笑った。
その瞬間、心が乱れたのは、青木の名が出たからだろうか。
違う。
益田の台詞こそを、敦子は酷薄だと思った。
ぼやぼやととらえどころのない感情が起きている。煩わしい。
「青木さん、来られなかったんですか?」
ぼんやりとしながら言った言葉が、また墓穴を掘っていることに気づいて後悔した。益田は一瞬だけ敦子の顔色を伺うような視線を送り、それから言った。
「青木さんだけ、仕事が片付かなかったみたいで。本庁は忙しいんですね」
そうですか、とだけ敦子は言う。
益田がもたらした情報について、敦子は、実際のところさほど関心がなかった。冷たいかもしれない、仮にも世話になっている知人のことである。でも、そうなのだ。その事実に、一番驚いているのは自分だと思う。
敦子はかつて、青木に対して特別な感情を抱いていた。
それはたぶん、青木もそうだったのだと思う。自分に対して、友人知人と割り切れない類のものは感じていたはずだ。きっかけは、敦子が首を突っ込んだ事件だった。敦子は催眠術によって心の深いところを探られ操られる内に、青木に自分の内面を晒してしまった。晒された方も、きっと戸惑ったのだ。
急速に近づいたことで、お互いを過剰に意識した。失われてしまった距離を、取り戻すことに必死になった。あまりに不器用な関係だと思う。年頃の男女がする行動ではない。
きっと、自分と青木は似たもの同士だったのだろうと思う。互いに尊敬していたし、尊重されたかった。相手に幻滅されたくなかった。それはつまり、好きだったのかもしれない。
確かに抱いていた「特別な感情」は、恋とも何とも名付けられずに、風化した。二人が望んだとおりに、失われた距離を取り戻し、今では立派な「友人または知人」である。
もちろん、青木が敦子を今どう思っているのか、本人ではないのだから知るはずがない。それでも、敦子と同様に、少しほっとしているのではないかと思う。
だから、益田が敦子に対して含みがちに青木の名を出すのは、間違っているのだ。
とてもとても、間違っている。声を大にして、益田に言ってやりたい気がした。青木と自分は何でもないと。
そんな機会も、意味もないというのに。
益田と美由紀は花見での榎木津の振る舞いについて喋っている。益田は軽妙に受け答えしながら、楽しそうに笑っている。美由紀もまた、時々益田の適当さに呆れた顔をしながらも、明るい笑顔を見せている。
淡々と続く平和な景色の中で、浮かび上がるのは己の内側から立ち上るこの―――。
電話が鳴って、はっとした。
「はいはい、どちら様ですかあ」
益田が立ち上がり、慣れた口調で「はい薔薇十字探偵社」と応える。いつも電話は和寅が取っているものと思っていたが、和寅が不在の時は益田が出るのだろう。榎木津が自ら対応するとは思えない。
電話に出てすぐ、益田の表情が曇った。それから、応接の方にくるりと背を向ける。それでも、声のトーンの低さや受け答えはどこか不穏なものを感じた。
「またあの人かな」
同じように益田を見ていた美由紀が、呆れたような声を出した。
「あの人?」
「益田さんの依頼人です」
どういうことかと尋ねれば、部外者ですからよくは知りませんが、という前置き付きで美由紀は語った。電話の相手は恐らくこのところの益田の仕事相手で、家出人探しを依頼した人物であるらしい。探しているのは自分の妻で、その居場所はつき止めたのだという。本来ならば既に仕事は終わっているはずが、依頼人は完全に参っているものらしく、家に戻ろうとしない妻の説得までも益田に頼っているのだという。もちろん、そんなものは益田の仕事ではない。益田は離婚調停人ではなく、探偵(助手)なのである。
「どうも、今度は浮気調査にかこつけたいみたいです」
美由紀は厭そうに眉を顰めてそう言った。
益田の方は、時折弱りきったような唸り声を混じらせ、話を拗らせているようだった。
「断ったらいいのに」
思わずそう漏らした。
「断ってはいるそうです。調停は探偵の仕事じゃあないでしょう。ここの“社長”はただでさえ人探しも浮気調査もしないんですから」
突っ撥ねられないんですね、ただ。
美由紀は冷徹にそう言い放ち、礼儀正しい仕草で紅茶を啜った。
敦子は困っている人を見ると理路整然と文句を垂れ流しながらも放ってはおかない人物を身内に一人知っているから、なんとも複雑な心持ちで益田を見やった。ついでに視界に入ったのは探偵机で、先まで窓の方を向いていた榎木津がこちらに向き直っている。ぼんやりとするついでのような気の抜けた顔で、電話を受けている益田を見ていた。寝惚けているようにも見える。
やがて益田は電話を戻し、特に何も言わぬまま自分の机にかかっていたジャケットを手に取った。
「益田さん、お仕事ですか?」
何気ない調子を作って、敦子は尋ねた。振り返った益田はきゅっと口元を引き締めた表情で、それがどこか深刻そうに見えた。ワンテンポ遅れて、へにゃと笑う。
「仕事を依頼したいということなんで、お話聞いてきますね」
せっかく敦子さんがいらっしゃったってのに残念でなりませんが、とおべっかも忘れない。敦子が適当に返事をすると、間もなく窓際からマスオロカと間抜けな呼びかけが飛んだ。益田は、今度は恐る恐るという様子で振り返る。榎木津は相変わらず詰まらなさそうな、眠たそうな顔のままで言った。
「お前、大概にしなさい」
榎木津にしては、静かな口調だった。だからこそ妙に迫力がある。
その台詞に敦子は少し引っかかった。ちょっと、随分な言い方ではないだろうか。面倒な依頼人にきっぱりと物申せないのはいけないのかもしれないが、依頼人の話を聴きに行くという行為は探偵業務から逸脱してはいないだろう。
「え、榎木津さん、そんな言い方…」
思わず口を挟もうとすると、益田はいいんですと遮った。扉の前で立ち止まっている益田は、先の榎木津に怯えた様子はなく、しっかりこちらを向いている。口元に浮かべた薄笑いは困った時にするもののようにも見えれば、何故だか酷く寂しそうにも見えた。
「榎木津さんすみません。ちゃちゃっと片付けてくるんで」
では行ってきまーすと、軽い口調の挨拶を残して益田は出て行った。
榎木津は頬杖をつきながら、はあっと呆れ返ったようなため息をついた。
「馬鹿カマ愚かの偏執狂め」
何なんだっ、とまだ収まらないところがあるらしく、榎木津は悪態をついた。しかし、常日頃の榎木津を思えば、下僕への不満の噴出としては勢いがないかもしれない。
何だかわからないのは観客の方である。しかし、同じ境遇であるはずの美由紀を見れば、探偵社への出没率がずっと高いらしい彼女は相変わらず落ち着き払って茶を啜っていた。
「片付くんでしょうか」
その落ち着いた仕草に、敦子はつい改まって美由紀に尋ねた。美由紀は意外そうに目を丸く開くと、ふっと笑った。
「片付けるんじゃないですか?益田さんがそう言うなら」
自分より幾つも歳若い少女に言われたことに、敦子は妙に安定した。もしかしたら美由紀はただ、敦子が欲しかった言葉を与えてくれただけなのかもしれない。美由紀はそれからふいに榎木津の方へ視線を向けた。
「何か、心配事があるんですか?探偵さん」
頬杖をついてぶすっとしている榎木津は、美由紀の方を見ないままで「誰があんなものに心を配ると言うのだね」と返した。
「でも、気に入らないんでしょ?」
そこでやっと榎木津が顔を上げる。不貞腐れた顔で美由紀を一瞥し「気に入らない」と答えた。いやに素直だ。
何故だろう、と思う。確かに榎木津は益田が行っている通常の探偵業務のことを「探偵の仕事」として認めていないし、場合によっては叱りつける事さえあると聞く。しかし、それはつまり、榎木津がやりたくないことを益田が肩代わりしているということだ。榎木津もそれは理解しているらしく、下僕の奉仕活動であると認識しているらしい。それを、「大概にしろ」などと決定的なストップをかけるのは妙だった。
それとも――
榎木津が止めたこととは、探偵業務のことではないのだろうか。
美由紀は同じ口調で、もう一度極短い質問をした。
「大丈夫なんですか?」
益田のことを言っているのだろう。
「大丈夫だよ」
そう答えた榎木津の表情から、ふっと剣呑さが消えた。きっと、この少女のお陰なのだろうと敦子は思った。
「あんな安心毛布大好き男は、せいぜい自らの愚かな行いを悔いて死んで償えばよいのだ」
最後に快活に罵詈雑言を吐いて、榎木津は深々と皮椅子に沈んだ。一応、気は済んだものらしい。
安心毛布大好き男、とはどういう意味だろう。それはさっぱりわからないが、榎木津が大丈夫だと言うのなら大丈夫なのだ。榎木津が間違ったことを言わないことを、敦子は実体験から知っている。
何だか、ほっとしていた。
ほっとしたことに気付いてから、敦子は自分が益田を心配していたことに気付いた。それも、その心配をまだ拭い去れない程度に、心配している。
「まだ心配ですか?」
敦子に向けて、美由紀は言った。
あまりに予想外の追求に、敦子は思わずえっと声をあげた。
まるで心を読まれたような感覚――榎木津が大きな目を細くしてものを言った時に似ている――に、思わず身を引いた。
すると、何故か美由紀が少しだけ驚いた顔になり、それから子供っぽく笑った。
「だって、あんまり心配そうな顔してるんですもの。敦子さん」
「…え?」
美由紀の言っていることは、至極わかりやすい。榎木津の言葉と比べるまでもなく、主語も述語もわかる。それなのに、敦子は美由紀の言っていることを、瞬間的に理解できなかった。
何故だろう。いまいち、状況についていけない。自分が酷く愚鈍に思えた。
「そんな顔、私していた?」
尋ねると、美由紀はすうっと表情を消した。その黒い瞳はあまりに聡明だった。
「しています」
静かに、美由紀は宣言した。それも、進行形で。
知らずに表情に出るほど、益田を気遣っていたというのだろうか。そういう自分の状態がうまく理解できない。自分のことは自分が一番理解しているなどと言うのは勘違いだと、敦子は過去の事件の教訓として持っている。それでも、今この時、そんな教訓など無意味だった。
何故わからないのか。何かが自分はわかっていない。敦子は、自分は頭の回転は速い方だと自覚している。自惚れたことなどないが、それでも自分の思考をとろ臭いと思ったことは、これまでになかった。なかったのに――。
たぶん、簡単なことなのだ。当たり前のことだ。
空から雨が降ったり、春になると桜が咲いたり、腹が減ったり眠たくなったりするくらいに、当たり前のことなのだ。
理屈は、たぶんいらない。理屈はこの場合、後付けなのだ。
わかりたい。わからなければ、いけない。
鏡でも出して自分の顔を見てみればよいのだろうか。自分の姿と対峙すれば、わかるだろうか。
――私を切り開いて隅々まで調べてみたい。
「敦子さん、その、」
呼びかけられて、思考を止める。
美由紀は何故か、酷く申し訳なさそうに上目遣いをしながら口を開いた。
「あの、絶っ対、違うと思うんですけど、ちょっとだけ気になって…」
普段ならハキハキとした物言いをする美由紀がもごもごと口ごもるから、敦子は本の少し身構えた。
「女学生君」
唐突に、特定の人物のみが使う美由紀の呼称が飛んできた。
振り返れば、榎木津は彼にしては大変に珍しいどこか切迫した顔で美由紀を見詰めていた。それを受けて、美由紀は口を閉じる。
しかし、言われた当人は腰のすわりが悪いことこの上ない。
「どうかした?」
「あの、すみません、何でもないんです」
美由紀は何故か恥ずかしそうにして、顔の前でぱたぱたと掌を振った。
「ええ?そこでやめられたら気持ち悪いわ」
正直にそう言えば、美由紀は一瞬考え込んでそうですよねと相槌を打った。
「私、どうもこういうの苦手で・・・。ふっと思っただけなんですが」
こういうの、とは何のことだかわからない。敦子は美由紀の言葉を促すつもりで黙った。美由紀は躊躇いを打ち消すために軽く笑いながら、言った。
「敦子さん、もしかして益田さんのこと好きなのかなあって」
――好き?
好き。好き。
簡単な、二文字の単語を、敦子は心中で呆然と反復させた。美由紀の言った「好き」の、意味が判別できなかったのだ。だから、
「好きって、それは、恋愛感情という意味で?」
わかりきったことを思わず尋ねた。尋ねてみてから当然のことを理解した。
この聞き方は、恋慕を意味する「好き」以外ないだろう。
あの、理屈なんて関係ないとみんなが口をそろえて言う恋愛を、自分がしているというのか。益田に。
「好き?」
敦子は自分が、今えらく変な表情を見せている自覚があった。美由紀の問いかけに対し、何も取り繕えないまま、純粋な困惑を表に出している。
「はい」
美由紀もまた弱りきった顔をしていた。申し訳なさがいっぱいの、失言を思い切り悔いている顔だった。美由紀が悔いている理由は、きっと敦子が変な顔をしたからに違いない。
敦子はとっさに「嘘」をついた。
「まさか。好きというなら益田さんのことはずっと好きよ?でも、恋愛感情なんかじゃあないわ」
そう言って、にっこりと笑う。取材相手に礼を言う時に見せる笑顔のやり方だった。
美由紀は心底ほっとした様子で無邪気な笑い声を立てながら、変なこと言ってごめんなさい、と言った。他人の秘密を暴くことはそれなりの負担がかかるものなのだ。好奇心だけで暴いた秘密に、どんな危険が孕んでいるかわからない。その覚悟がない者に、秘密を暴く権利はない。だから、美由紀は不用意な自分の発言を悔いたのだ。探偵である榎木津と懇意にしているだけあって、美由紀は弁えていると敦子は咄嗟に分析した。それと同時に――
敦子はとてつもない違和感を持った。
――嘘をついた。
傍目から見て、敦子はどこも不自然ではなかった。美由紀の唐突な発言に、一瞬円らな目をさらに大きく開いて、それから右の眉をぴくりと動かして不思議そうな顔をするのも、この場合なら当たり前の反応である。
「美由紀ちゃん、そんな風に見えたの?」
敦子は口元に手を当て、クスクスと笑った。美由紀も釣られるように軽やかに笑う。
「ああ私、ドキドキしちゃいました。もしそうだったらどうしようかと。益田さんは大喜びでしょうけど」
そうでもないだろう、と敦子は思った。
「美由紀ちゃんもお年頃ですものね。そういう話なら美由紀ちゃんの方こそあるんじゃないの?」
美由紀をからかうことで、波立った心が凪ぐのを期待していた。
口から言葉が滑る。
――ああ、自分らしくない。
喋る口がどこにあるのか、忘れそうになる。
思考の一部に、まるで白い雨が降り注いでいるかのように霞がかかっている。
心の一部は、花咲く枝の隙間からさす木漏れ日のために温かい。
「わ、私には何にもないですよ!そんなの」
「ええ?神保町の学生の視線を古書よりよっぽど集めてるって噂聞いたけど?」
「なっ、なんですかその噂!」
思い浮かぶのは、
濡れて色を変えた外套の肩、カップを持つ長い指、この手首を掬って引いた、彼の手の強さ。冷たさ。白い桜、青い空、しっとりと重い桜餅。無防備な額、直線の眉、気持ち良さそうに眠る彼。
思い浮かぶ度、心が頭が顔が熱くなる。
好きだ。
彼のことが好きだ。
会話を続ける口や頭に思い浮かぶ風景とは別に、敦子の心がそう発言する。
あの人が好きだ。
彼が軽薄な笑い方を忘れた時にする下手な笑顔が、己を知れと言わんばかりに思い浮かぶ。途端、胸が押し潰されそうに軋んだ。
どうしてだか、さっぱりわからない。
自分が、益田に恋心を抱くようになるどんなステップを踏んだというのか。
それでも、心の一部が囚われたようなこの感覚は――いつかの白い雨の檻に、少し似ている。
オートマティックに美由紀と会話をする口先のその奥では、正体をばらしたことで増大した感情が、理性が発する命令を無視して暴れた。
敦子は、少し怖いと思った。心細かった。敦子ももう二十代も半ばであるし、恋をしたことがなかったわけではないから、自覚してみれば確かにそうだと納得できる。それでも、経験した恋はすべて予測可能だったから、あまりに唐突に姿を見せた感情を、完全に持て余している。
美由紀との会話が途切れた時、敦子はほとんど無意識に、探偵机の方を向いた。
怖いのだ。底なしに不安だった。どうしたらいいのだかわからない。
それまで敦子と美由紀の会話にほとんど口を挟まなかった榎木津は、机に肘を突き手のひらに顎を乗せて、伏し目がちに机のどこかを観ていた。ぱっと見では退屈そうな、そして面白くなさそうな様子である。敦子には、わざとこちらから目をそらしているようにも思えた。それでも見ていると、榎木津は大儀そうに視線を合わせてきた。
見慣れた美麗な顔に、見慣れぬ表情が浮かんでいた。同時に、敦子の胸に溢れたのは懐かしさだった。ずっと昔に榎木津がこんな顔をするのを見たことがある気がした。
探偵はやがて厭なものでも見るように左目を細くし、すぐさま眉を吊り上げ――
「ああ!」と盛大にため息をついて、項垂れた。
(終)
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