心臓がどくどくと暴れるのを沈めるために、美由紀は一度深く呼吸をした。
うまく考えがまとまらない。
探偵の言うことは支離滅裂だ。しかし、美由紀がここ数ヶ月の間、誰にも晒してなるものかと心の奥底に秘めている思いを、容赦なく突付いている。
美由紀は続ける言葉が見つからずに、じっとアイスティーの氷が溶けるのを見ていた。
沈黙の間が気まずくなってきた頃、耳に地鳴りのような重低音の呻き声が届いた。
「うううん、いまいちだ!」
これが釜とかなら簡単なのになあ。
何を言っているのかやっぱりわからないのだが、確かに探偵は心の底からいまいちそうな顔をしている。
「それに、何だか…善く視えないな」
そう言って、片目を悩ましげに細めた。その視線は、美由紀の頭の僅か上に向けられている。それから、ああ見たくないのか、と言った声は、少しだけ沈んで聞こえた。
「そうか。見られないんだな」
「見えない?」
紅茶色の瞳が、まっすぐ、しかし優しげに、美由紀を見つめている。
先の、眩暈坂での悪寒が、蘇った。
「何で、何を、言っているんですか」
「わかるだろう」
その断言が、恐ろしかった。
「わ、わかります、けど」
肩がぞくぞくと冷えて、鳥肌が立つ。
客観的に聞けば意味不明の言葉の羅列が、はっきりと意味を成す。
美由紀しか知らない、または美由紀さえも知らない、心の奥底に探偵の言葉は響く。響きすぎて、じんじんと痛いほどだ。
世界が、霞んで善く見えない。
いつからだったか。
礼拝堂で碧が死んでからか、転校先の話を聞かされてからか、東京に一人越してからか。
あの時から確かに続いている世界は、どうしてこんなにも歪なのか。
どうして。
背に冷たい汗が滲んだ。
この春、まるで放射状に編まれた蜘蛛の巣にかかったように、美由紀や美由紀の親友、級友が、陰惨な殺人事件に関わらされた。
自分の頭で考え、見て聞いて、走って、泣いて、確かにそうしていたのに、本当は誰かの描いた蜘蛛の巣の上を辿らされていた。
運命などという生やさしいものではない。すべて残酷すぎる謀だ。
誰かが書いたシナリオ通りに、世界を没収された少女は死んでしまった。
美由紀は黒い拝み屋の言葉によって、蜘蛛の巣から落とされた。
それも、きっとシナリオ通りだったのだと今は思う。
そうして、落とされた先は。
ここは何処だ。
「君はね、盛大に間違えている」
せっかく賢いのに馬鹿だなあ。
低く静かな声は真剣に響くのだが、言葉の選び方が珍妙なのだろう。拍子抜けしてしまう。
「間違って、いますか」
尋ねれば、こくんと頷き、これ見よがしの大きなため息をついた。
「せっかく、可愛い女学生と逢い引きが楽しめると思ったのにな」
「…何ですって?」
「逢い引き。デート」
笑えない冗談を人形のような顔で言うのはやめて欲しい。探偵は作り物染みた表情を崩さずに、続けた。
――あのね。
「善く見えないのは君のせいだ」
外側は何も変わっちゃいないぞ。
心臓が、内側から激しく体を打った。
さっきから、何を言うのだ。
「千葉の女学生が東京に来たところで、世間は君を女学生としか認識してないぞ。可哀想だけどそうなんだ。君の殺された友達のことだってそう。知らない人が知っているわけがない。そんなことでいじけても、何もいいことないぞ」
「いじけて、ますか」
「違うの?」
違うと言いたいのだが、言い切れなかった。
それは、違わないということなのかもしれない。
いじけていたのだろうか。ずっと、きっと東京に来てから。
知らない人が知るわけがない。ごもっとも過ぎて何だか馬鹿っぽくさえ聞こえる。
今、美由紀の周りには、誰一人としてあの事件を知る人がいない。
少なからず巻き込まれたらしい祖父も、美由紀を心配してくれた両親も、そろって千葉の市街地で暮らしている。
かつての級友である良家の令嬢達は、それぞれの親の思惑のままに転校先を決めていたはずだ。美由紀がこれからも連絡を取ろうと思う友人はほとんどいない。
それはつまり。
夕子や、小夜子や、碧のことを、美由紀は誰とも共有できないということだった。
誰も、彼女たちが何を思って、何をして、どうしてその短い人生を終わらせなければならなかったのか、知らない。
彼女達の思い出を語る人も、悔しさや悲しさを共有する人もいない。
美由紀の、拙いながら築き上げてきた価値観、当たり前のことを、あれだけ乱暴に揺るがした事件を、誰も知らない。
東京での新生活は、この春の事件が原因であるのにも関わらず、まるで脈絡がなかった。海辺の学校から、空間、世界がぶつりと切れて、いきなり今この時に接続しているようだった。
最初は、慣れぬ環境への戸惑いだと思った。新しい寮にも校舎にも、級友達が作り出す華やいだ空気も慣れたと言うのに、美由紀は自分が馴染めないでいるのに気付いて、やがて、諦めた。
いじけてしまったのだろう。
この哀しみを誰とも共有できぬという、寂しさのあまり。
「うん、そうだねえ」
探偵は、何だか退屈そうに言った。
何に対しての相槌なのかはよくわからない。特に意味はなかったのかもしれない。目尻の表情が柔らかいのは、眠たいせいなのかもしれない。
「我慢はよくないぞ。最近、僕の周りはオロカ者が多くて困る。我慢する必要がないのに我慢するのだ。趣味なのかな。そうならいいが、君は違うのだろう?」
好き好んで我慢するというような趣味はないので、美由紀は促されるままこくりと頷いた。
探偵はそれを受けて、ふふと笑った。
「まだ、その方がいい」
その方、とは何のことかわからず首を傾げる。
「悲しかったり寂しかったりするのなら、ちゃんとさっきみたいに、そういう顔をしていなさい」
さっきみたいに?
言葉の意外さに、美由紀は目を瞠った。
「そんな顔を、していましたか?」
何も表情には出していないはずだった。笑えもしないが、その代わりどんな表情もしていないつもりでいたのだ。
問えば、探偵はうんと気安く頷き、さらに、しているよと進行形で答えた。
「悲しい顔をしていれば慰めてやろうかとも思うが、平気な顔をしていたら鈍感な人達は気付かないんだぞ。だって、仲良しだったんだろう?彼女達のことばかり考えているんじゃないか。だから――」
それでいいよ。
俯けば、無意識に拳を強く握り締めていたことに気付いた。
ああ、馬鹿だな。
こんなに力んで。
「私しか、知らないから―――」
時々、悪い夢でも見たみたいに、本当はあんなこと起きてないんじゃないかと思うんです。そんなわけは、ないのに―――
美由紀が言葉に詰まるのと同時に、探偵の手が伸びた。
掌が、美由紀の頭にぽんと置かれて、そのまま、ぽん、ぽん、と幾度か感触があった。
ふいに泣きたくなったのは、その大きな手が、とても優しく、尊いものに思えたせいなのだろうか。視線を上げた先の探偵が、想像以上に深刻そうな顔をしていたせいなのだろうか。
どれがきっかけなのかはっきりしなかった。
泣いてしまう、と思った時には、すでに下の瞼でせきとめ切れなかった涙が、頬を流れていた。
数滴の涙が、手の甲に落ちた。
涙は感情そのものなのかもしれない。感情は、きっと水分でできている。
体に収まりきれなかった思いが、涙になって溢れている。
小さな子供じゃあるまいし、外出先で大泣きをするなんて傍迷惑もいいところだ。面前の探偵にも申し訳なかった。だから涙を止めたいのだが、思いに反して、探偵の声が頭を反響していて、悲しむのを止められない。
ただ、泣きたかった。
唐突に、目の前が真っ暗になった。大きくて温かいものが、美由紀の顔の上半分に当てられている。温もりは体温で、正体は探偵の掌だということに、すぐには気付けなかった。
「馬鹿だなあ」
探偵の声が、暗闇と喧騒の中に聞こえた。
「僕は知ってるよ。夢じゃない、現実だから、知らない人は知らないだろうが知っている人は知っている」
―――不本意だったからな、あんなのは。
暗闇の中の声は、少し怒っているようだった。
知っているのだ、この人は。
不本意だと、怒ってくれている。彼女達の死を。きっと、あの事件に関わることを強制されたすべての人の悲しみに、この人は怒ってくれる。
それは、美由紀も共有する怒りに違いない。
「それなのに―――君は溺れっぱなしのくせして目を瞑って、掴まるものを探してもない」
びくっと身体が跳ねた。
この声は、この人は本当に、厳かで、容赦がない。
無自覚に嫌っていた自分――強情を張るという甘え――を突きつけられた。
「溺れる者は近くにあるものなら何でも掴むんだ」
―――さっさと、藁にでも神にでも、縋りなさい。
ちくりと、胸が痛んだ。これは、切なさだ。悲しさとは少し違う。
乱暴に秘密を暴く探偵の優しさが、しくしくと心に沁みて、切ない。
「…はい」
視界を覆っていた探偵の掌が、ゆっくりとはずされる。
すう、と視界が開けた。
涙は止まっていた。最後の一滴で瞳が洗われた今だから、わかる。
世界が善く見えなくなったのは、自分の外側の狂いではない。
決してない。
そもそも、世界など見えていたことなど、あったのだろうか。
小さな小さな自分ひとりという存在が、世界を見ることなどできるものなのだろうか。
許されていることと言えば、きっと。
此処が自分の居場所なのだと信じて、そこに居ることだけ、ではないだろうか。
世界が壊れたのではなかった。
壊れたのは、自分だ。
そうして今、
「はい」
美由紀は、もう一度うつむき気味に頷いた。
自分がいる位置がはっきりわかった。
テーブルの下で、両足が地面についているのがわかる。
これからも、此処にいるのだろう。
水気を帯びた景色の中で、探偵はテーブルに肘をついている。手の甲に乗せた顔には表情がなくて、美由紀にはそれが、何故か少し困っている顔に見えた。
申し訳なさと恥ずかしさで顔が熱くなる。制服姿の女学生が突然泣き出せば、やはり目立つに違いない。
ああもう、情けない。
美由紀はアイスティーを飲み干すと、姿勢を正して座りなおした。
探偵は美由紀の羞恥などに頓着する様子もなく、くああああ、と大口を開けてあくびをした。どうやら本当に眠たかったらしい。
何だか拍子抜けするのだが、そろそろこの奇人の空気に慣れてきていた。子供の順応力は大人のそれよりもずっと高いのだ。
「あの」
「うん?」
探偵は気だるく返事をして、目の縁に溜まった涙をごしごしと擦る。
真面目なのか、完全に不真面目なのだかわからない。それでも―――
近くにあるものなら何でも掴まってみるのが溺れる人、らしいので。
「私の名前は呉美由紀です」
探偵は一瞬きょとんとして美由紀を見詰めたが、すぐに何か察したらしく、穏やかに目を細めた。
「僕の名前は榎木津礼二郎だよ、由希子君」
「いきなり間違ってます、探偵さん」
いまいち締まらないが、如何でも善かった。
仕切り直しがしたかったのだ。
探偵が長い腕をぐうっと持ち上げ身体を伸ばす。
「さて、おやつも食べたし・・・次は昼寝だ!」
「昼寝?何処で?」
美由紀は問いかけながら、探偵の横にぞんざいに置かれた、拝み屋こと中禅寺への土産物の袋を見た。この探偵に遭遇しなければ、今頃は中禅寺家にいたのだ。だいぶ予定は狂ったが、これから伺う気でいた。
ちゃんと挨拶をしなければ。
あの人もまた、この春を知る人なのだし。
探偵は美由紀の問いに答えずに、無造作に帽子を被るといたずらに笑った。
「さぁ行くよ、女学生君」
もしかして、昼寝にまで付き合わされるのだろうか。美由紀が物申そうとした時には既に探偵は立ち上がっていて、長い足ですいすいと歩いて行ってしまう。
ああもう、仕方ない。
掴んだのはいいけれど、余計に溺れてしまったりして。
(終)
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