―――世界が霞む。
―――善く、見えない。
あの子の家は死んでしまったのだな。
織作家の次女、茜が事件に巻き込まれ殺害されたと知った時、美由紀は自分の心をどう動かせばよいのかわからなかった。
酷く虚しいが、気持ちの中身はからっぽだった。ゆっくりと丁寧に新聞を畳んで、元のラックに返す。
放課後の、授業が終わってすぐの図書館はいつだって少し閑散としている。読書家の少女達でさえ、級友との歓談に忙しいのだ。それを知っているから、美由紀は授業が終わるとすぐに図書館に来る。少し生徒が集まりだす頃、司書に本の持ち出しの手続きをするのが、ここ最近の日課だった。
今日もそのつもりで本を選んでいたが、ふと目に留まった新聞を開いてしまったのがいけなかった。伊豆で起きた殺人事件に、見慣れた名を見つけた。細かな字の中で、よくも目聡く見つけたものだと思う。
心は確かにさざめくが、しかし、どう感動したらいいのかわからない。人の死に、慣れているのかもしれない。
あの子も、小夜子も、夕子も死んだ。あの子の家族も続け様に死んでしまったと聞いた。茜ひとりだけが、生きていた。
きれいさっぱりと、全員いなくなってしまったのか。
たった一人生き残ってしまったからって、思い切りよく彼女が死んでいいという、そんな話はない。確かにそう思っている。
けれど、ああやっぱりな、とも思うのだ。
茜は死んだのか。
虚しさの中から、じんわりと霧が立ちこめていくのを見るように、いつもの後ろめたさが心に広がる。
いつの間にか、時間つぶしの本を選ぶ気力もなくしてしまっていた。心がざわつくままじっとしていられずに、静かに図書館を出る。
出てみたところで、行き先は思いつかないのだが。
図書室を出たところで、ほんの一瞬、途方に暮れた。
どこにいたって同じだ。
どこに行っても落ち着かない。と言っても、東京に越してから、落ち着くことなど諦めている。
どこに居たらいいのか。此処であっているのか。
何度となく、声にせず問いかけている。今も、明日も。
結局、三ヶ月前に自分にあてがわれた寮の一室に向かった。同室の少女はまだ戻っていない。好都合だ。虚しさを引きずっている時は、笑顔を上手に作れない。
美由紀は自分の寝台に腰掛けて、ふうと息を吐いた。セーラー服のスカーフだけ解いて、握りしめたまま脱力する。そこで、自分の肩に力が入っていたことに気付いた。きちんと着替える気にもなれず、そのまま、ごろりと横になる。
部屋は七月の太陽に温められて、じっとしているだけで汗が滲んだ。それでも、今は窓を開ける気にならない。もう少しだけ、ぼんやりする時間が必要だと思った。
内気だが敏感なところのあるらしいルームメイトは、私がぼんやりしていると心配そうに問いかける。
大丈夫?元気がないけど。どうかした?何かあった?
美由紀は問いかけられるたびに、言葉に詰まった。優しい言葉に応えることができない自分が情けなくて、申し訳なくて、ただ「なんでもない」と「ごめんね」を繰り返すだけだ。
本当、情けない。
答えられる答えがない。いや、答えたらいいのかもしれない。言葉にして吐き出すことができれば、多少はましなのかもしれない。しかし――
「事情」を説明することは、どう考えたって、現実的でなかった。あの事件の恐ろしさは、どんなに言葉を尽くしたところで、当事者にしかわからない。ただ、友人を殺された過去を持つ者として、哀れんでもらえるだけだ。
第一「何かあった」のは、過去のことだ。
もう、どうにもならない。アドバイスは必要ない。人に語って何か変わるのかと言えば、絶対に変わらない。失った人は、絶対に返ってこない。
ふと、奇矯な声が蘇った。
――屍体は生き返らない。
――元気を出しなさい。
あの時。
何となく、元気が出たのだ。
学校の理事長室。大変な状況の中、大変な探偵がいた。
腹筋に力を入れて、一息に起きあがる。背を一筋、汗が伝った。
立ち上がり、窓を全開にする。
オレンジ色の夕日の向こうから、温い、それでも、額に浮いた汗を乾かす風が吹いた。
美由紀はその時はじめて、自分の机の上に、一通の手紙があることに気付いた。
手紙に書かれた祖父の言葉を、最初は見なかったことにしよう、と思ったのだ。
――お世話になったんだから、挨拶に行っていらっしゃい。
手紙には、どうやって調べたのか知れないが、春の事件の幕を引いた真っ黒な拝み屋の家の住所が書かれていた。中野区の、聞いたことのない坂の名が書かれていた。住所の最後にある「京極堂」というのは、何のことかわからない。
その拝み屋は、美由紀にとってほとんど命の恩人とも言えるような人物である。挨拶に行けというのは道理だった。
それでも、気は乗らない。
駅前の交番の駐在によれば、美由紀が今目の前にしている坂を眩暈坂と呼ぶらしい。細い、コンクリートの壁に囲まれた陰気な坂道で、見た目からは名前の由来は知れない。
暑い日だった。半ドンの土曜日である。
結局美由紀が京極堂を訪ねることに決めたのは、電車賃や手土産を買うための代金が親元から送られてきたからだった。元来、考え方が真面目で硬いところがあるのを、美由紀自身自覚している。小遣いでない金を遊びに使うという発想は、元々ないのだ。
寮の最寄りの駅前にある和菓子屋で水羊羹を買った。あの怖い顔の拝み屋が甘いものを喜んで食べるかどうかわからないが、無難なものなら何でもいいのだろうとも思う。
坂はやけにでこぼことしていて歩きづらく、足を動かす度に体温が上昇した。セーラー服の背中がしっとりと濡れる。
暑い。
足下が、わずかに揺らいで見えたのは。
眩暈――か?
「うん?僕だ」
男の声が、
後ろ、美由紀の頭より上から降った。
頭の芯がくらりと揺れるのを無視して、振り返る。
そこには大きな影があった。
――背が高い。
美由紀はまずそれを思った。
長身の男が、美由紀のすぐ後ろに立っていた。いや、正確には、ただ同じ進行方向を歩いていたに過ぎないのだろう。男の視線は、美由紀のそれとはずれている気がした。ほんの僅か上、美由紀の頭上に向けられているように見える。
いつの間にこんなに近くにいたのか、不思議だった。
日差しがきついのと、男の帽子の影で、顔はよく見えない。シャツから覗く首元の皮膚は、やけに白かった。
「ああ、なんだ」
声の様子から、笑ったことがわかった。
低音の、どこか耳に残る声は、聴き覚えがある気がする。
男は長い体を屈めて、美由紀を覗き込んだ。
目の前で大きな鳶色の瞳が、影の中、輝く。
「蜘蛛の学校の女学生君」
探偵が、無邪気に笑った。
一瞬、背筋が冷えた。
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