★
『十一月二十二日』のボツ原稿(【】内はプロット)
夫だと言って威張るのも、妻だと言って謙(ヘリクダ)るのも、同じくらいに浅はかなことだ。確かに、夫には夫の、妻には妻の役割というものはあるだろう。しかしそれは、言い換えれば性差という、主義主張が及ばない部分に依る。肉体の造りを別にして考えれば、夫婦はもちろん男女はあくまで対等である。
中禅寺のジェンダー観は、彼が生きる時代の中では先進的なものと言えた。しかし、中禅寺がそのことを改めて思考し、さらに論理を積み立てることは、彼が女権拡張論やジェンダー論または性差に関連付ける必要を見出せる本なり論文なりを手に取らない限りは、まず、ない。
それは、彼の元来の聡明さがフェミニズムの素養を孕んでいるせいでもあるし、また、彼自身が夫であり、妻である女性と生活しているせいでもあるのかもしれない。
つまり、当たり前、なのである。
だから、中禅寺が今対峙する人物の語ることには、到底賛同できなかったし、何より、極めて不快であったのだ。
「いやぁしかし美しい奥方ですな」
【古書店を訪れた大学教授。専門は違うが密教に関する珍本を探しているという。噂を聞きつけてやってきたとのことで、二人は店先で話し込む。話しながら中禅寺は、この客が単なるコレクターであることはわかっていたが、それでも一応客なので愛想よく(?)応対するうちに、千鶴子が茶を持って現れる。突如現れた美しい女房に、客は不躾に好色な視線を投げた。その後、自分の女性観を披瀝してでれでれしたり、織作葵のことまで出てきて、中禅寺はマックス不機嫌に。ブチぎれる寸でのところで千鶴子が「あなた、関口さんからお電話が」
さらに客に茶を勧めて辞去させる。京極が電話に出てみれば、】
「ああ京極堂。何だい何かあったのかい?」
「何だいって・・・何だ君が電話をかけてきたんだろうに」
「ええ?千鶴子さんが、君の愚痴を聞いてやってって電話をかけてきたんだぜ?」
客間を見れば、千鶴子が湯のみを持って出てきた。自分の夫に向けて、何か誤魔化すような、申し訳なさそうな笑顔を見せている。
中禅寺は途端に可笑しくなって、小さな声で笑った。
「――ああ、そういうことか。わかった。悪かったね関口君。それなら僕の用事は澄んでいるよ」
「うん?何だそれは。どういうことだよ」
「ははは。まあ今度聞かせよう。どうせ電話をかけるまでもなく来るんだろう?」
「そりゃあそうかもしれないが」
「今日のことは悪かったね。それじゃあ」
「ん、ああ。それじゃあ」
【千鶴子は夫が客に対して切れるとは思っていないが、極めて不快な思いはしているようだし、商談はすでに終えていると察する。千鶴子は関口宅に電話をかけてから、夫を呼び出す。その隙に、京風の「そろそろ帰ってよ」という仕草であるお茶のお変わりを勧めて、相手に辞退させて帰らせる。】
「いやぁ長居をしてしまいました。またよらせていただきます」
「途中で退席してしまって申し訳ないことをしました。まあお求めのジャンルはなかなか回ってこないものですからね。良いものが入った時にはご連絡するとしましょう」
「いやぁそれは助かります」
そう言った客が、靴を出すのに俯いた千鶴子の白い項に目をやるのを、中禅寺は見過ごさなかった。
「では、失礼いたします」
「千鶴子。塩をくれ」
「ちょっと、悪戯をしてしまいました」
「おかげで今度関口君に話して聞かせなければならなくなったじゃないか」
「ふふふ。それだって楽しいくせに」
「楽しいものか」
「あんまり怖い顔をされているんですもの」
「そりゃあ、そうだ」
正面から、千鶴子を見詰める。穏やかに微笑む自分の妻は、やはり美しいと思う。
しかし、彼女が自分の妻でよかったと思うのは、彼女が美しいからということではないのだ。
「君はちっとも奥ゆかしくも慎ましくもないというのになぁ」
「まあお言葉ですこと」
そっと、千鶴子の項のあたりに手を添えた。それは、掌で包み込むとか、隠すという触れ方だった。
「助かったよ」
ふふふ、と少女のように、可憐に笑った。
*
最初、中禅寺のモノローグを入れようと思っていましたが、
言葉を尽くせば尽くすほど偽者っぽくなって、本番ではずしました。
ラストもちょっと違います。
千鶴子さんの項はきっと綺麗だろう、と。