秋晴れの土曜日である。
午後四時前の空は、日が傾き始めているとは言え十分に明るい。探偵事務所から最寄の公園までは、歩いて二十分ほどである。近いとも言えないが、二人連れ立って散歩することはよくあるし、面倒くさがるような距離ではない。
だから、わざわざ事務所の中で、よりによって鬼ごっこなどという幅のとる遊びをする必要は、まったくないのである。
そもそも大の大人二人、それも一人は四十路に達しているようなのが鬼ごっこも何もあったものではない。
美由紀は、鬼ごっこの提案者に何度もそう訴えたが、面白いからイイとか外は寒いから厭だなどと無邪気に言い返されるばかりで埒が明かない。困り果てた末に、美由紀ができたことと言えば、ただ額に手を当てため息をつくだけだった。もっとも、この男の一度言い出したら聞かない性格は、長い付き合いからよくよくわかっていたのだが。
何せ、美由紀はこの困った人物の恋人なのだ。
それも昨日今日の付き合いではない。恋人としての交際はここ一年くらいのものだが、知り合ったのは美由紀が十三の歳まで遡れる。つまり、榎木津礼二郎がどれだけ大人気なく、周囲に迷惑をかける人物であるか、彼女ほど身をもって知っている女性はいないのである。(男性、特に彼の古い友人なんかは、さらなる被害にあっているのだが)
「ねーえ女学生君、しよう!」
鬼ごっこ!
応接ソファに胡坐をかき、ぐらぐらと身体を揺らし同じ言葉を喚く榎木津の態度は、駄々をこねる子供そのものだ。しかし、服装を見れば格子柄のタイにグレーのベスト、同色のズボンという、休日には到底似合わぬ恰好をしているから、外見と態度のギャップは甚だしいものがある。
美由紀は額に当てていた掌を外して、事務所の壁掛けの時計を見た。時刻は午後三時五十二分。同時に、探偵社の社員達のスケジュールを思い出す。和寅は本家のお遣いで、夜まで戻らないと言っていたし、益田は張り込みをしていると聞いたから、こちらも遅くなるだろう。事務所内に、少なくとも暗くなる時間までは二人きりということになる。
美由紀はもうひとつため息をついて、鬼ごっこ鬼ごっこと口を尖らして言い続ける榎木津に近づいた。
「一回、だけですよ?」
美由紀の言葉に、榎木津は揺れるのをやめた。
そこにきての、冒頭の台詞である。
美由紀はぽかんと開いてしまった口をなんとか閉じて言葉を飲み込み、ただぐっと顎を引いた。
時刻は午後三時五十五分。
四時までに鬼が美由紀を捕まえれば鬼の勝ち。
四時まで美由紀が鬼から逃げ切るか、玄関の鍵を開けた時点で美由紀の勝ち。
社内であれば何処にでも逃げるなり隠れるなりしてよし。
以上のルールを高らかに宣言すると、榎木津は応接ソファの上で長い身体を小さくしてうずくまり数を数え始めた。カウントは三十。
美由紀は密かに顔を険しくすると、足音を立てないように応接から離れた。
カウント終了後、経過一分。
現状、鬼ごっこは隠れん坊の様相である。
「オニ」役の榎木津は野生動物並みの身体能力の持ち主である。美由紀が隠れている間は目を隠していたとは言え、耳を済ましていれば美由紀がどの辺りに隠れているかは検討がつく。ましてや榎木津にとっては住み慣れた自宅なのだから、できる検討の精度は高い。
すぐに見つけて捕まえてしまうのはつまらないが、容赦するのはこのオニの趣味ではない。足音、物音から台所へ向かったのは知れていたから、まっさきにそちらを確認した。しかし、扉を開け放ったそこはまるで人気がない。台所は狭く、物は雑多に置かれているが、人一人が隠れる場所はほとんどない。冷蔵庫か貯蔵棚でも空にすれば、痩身の女性一人くらいは入るかもしれないが、あまり現実的な手段ではなかった。
「フフぅん」
榎木津は推理する。(今は「探偵」ではなく「オニ」なので、推理だってするのだ。)
美由紀は一端台所へ逃げて、オニが近づいてくるのを察知して場所を移動したものらしい。頭の回転の速い美由紀のことだから、カウント中に隠れた場所はすぐに榎木津に知れてしまうと踏んで、最初からオニを台所へおびき寄せ、逃げた先を眩ませるという算段があった可能性は十分にある。
では美由紀はどこへ逃げたのか。台所から榎木津とすれ違うことなく逃げ切れる場所と言えば、一箇所、台所と直結した和室しかない。
榎木津はそこまで考えると、腕を組んで顎に手を当てた。上品な作りの唇を歪め、にやりと笑う。
そして、台所を突っ切り、和室に繋がるガラス障子の引き戸へ向かってツカツカと歩き出した。
戸まであと数歩というところで、ぴたりと足を止める。そこで、榎木津は素早く音もなく踵を返すと、間髪入れずに走り出して台所を飛び出た。
出た先には、真剣な顔でそろそろと和室の扉を閉めている美由紀の姿があった。
「いたぁぁ!!」
「ぉわっ!?」
わははははと高笑いをしながら美由紀を指差し急突進してくる榎木津に、美由紀は不意を突かれた情けない顔で一瞬固まり、次にその迫力に片足を引いた。しかし、一度生唾を飲み込むとすぐにきりりと目を吊り上げ、野良猫のような俊敏さで探偵の手をかわすと同時に駆け出した。通路を抜けてしまえばすぐに事務所である。
榎木津は恐ろしく脚が早いが、それを発揮するには家具や部屋を仕切る壁が邪魔になった。その点、美由紀は女性にしては長身だが榎木津と比べれば遥かに小回りが利くし、何より潜在的に運動神経が優れている。美由紀はフレアのスカートをひらりと揺らして事務所に滑り込み、榎木津の視界から消えた。
「往生したまえ女学生!」
「ヤです!」
美由紀と二、三秒ほどの時間差で榎木津が事務所に入ると、美由紀は応接のソファの背もたれに両手をついて身構えていた。まだ四時の鐘は鳴らないのかと美由紀が時計を見上げると、リミットにはまだ二分ほどある。
榎木津はふふと不敵な笑い方をして、余裕の表情で美由紀に近づいた。対する美由紀は、疲労よりも緊張から来る興奮のせいで呼吸が荒い。
玄関の鍵を開ければ美由紀の勝ちだが、現状の位置関係でそれを実行するには、向かってくる榎木津をすり抜ける必要がある。もしくは、応接ソファを挟んで二人の位置を半回転させることができればいい。
「僕相手に三分も逃げるとはさすがじゃないか女学生」
榎木津は、美由紀が手をつくソファの対になっているソファに同じポーズで手をつき獲物を睨んだ。
「小さい頃得意だったんです、鬼ごっこ」
美由紀も、内心では良案が浮かばず焦っていたのだが、うろたえるのが癪で口元だけで笑って見せた。しぶしぶ了解した鬼ごっこだが、今となっては美由紀は真剣である。まさに全力で逃げていた。何せ、捕まったら「オニ」の餌食にされるのだ。
絶対に捕まってなるものか。
美由紀の大きな目が、真夜中の猫のようにぎらりと光った。
「ふふ、珍しく本気じゃないか」
「捕まえられるもんならどうぞ」
「わはははは!言うねえ」
美由紀の挑発に、榎木津も眼光を鋭くさせる。
榎木津が美由紀に近づこうと動けば、美由紀も位置をずらす。ソファの輪郭に沿ってじりじりと数歩移動し、そこで膠着した。榎木津の方は、これ以上動けば美由紀に玄関への逃げ道を作ることになるし、美由紀は榎木津がいるから玄関に近づけないが、このまま膠着状態が続いても四時の鐘が鳴れば美由紀の逃げ切り勝ちなので、積極的に動く必要はない。
このままタイムリミットか。
その考えに美由紀は一瞬だけ気を抜き、ほんの僅か頬を弛緩させた。それを榎木津は見逃さない。
「そうは問屋が卸すものか!」
榎木津は美由紀の心を読んだようなタイミングでそう叫ぶと、ソファの背をひらりと飛んで乗り上げ、この上なく愉快といった顔で獲物を見据えた。到底運動向きではないズボンと革靴という姿が信じられないほどの見事な着地で、すでに臨戦態勢である。
障害物沿いに追い詰めるのは難しいと判断した榎木津は、応接用のテーブルとソファ二台を飛び越える正面突破に出ることに決めた。それなりの瞬発力と筋力がなければできないし、子供ならいざ知らず、普通の成人男性はそんな荒業をやろうとはしない。しかし、美由紀にとっては非常に残念なことなのだが、榎木津はそれを軽々とやってのける身体能力を持っているし、子供も思いつかない悪事を高笑いで実行する男なのである。
これは、捕まる。あげく喰われる。
美由紀は本気で戦慄した。
「ちょ、と・・・待っ」
「待たない」
鳶色の瞳が細まり、一瞬濃く染まった。両足のばねに力が入る。
跳ぶ、その瞬間。
「ゃ、ヤだ来ないでっ!!」
美由紀はほとんど意識せずにそう叫んで、後ろに大きく飛び退いた。
え、と榎木津が小さな声を漏らす。
美由紀は思わず目を瞑った。うわっという榎木津の声と、何か大きなものが二つ床を強く叩く音が事務所内に響いた。
恐る恐る目を開けば、美由紀が先ほどまで手をかけていた横長のソファがひっくり返っていて、その前では背中を大きく上下させしゃがみ込む榎木津がいる。転んだというよりは、その姿勢で着地したように見えた。
「吃驚したぁ」
榎木津がぼそりと言ったことに、それは私の台詞だと美由紀は言いたかったが、目の前の荒事に声が出ない。
獲物に飛びかかる瞬間、榎木津は、美由紀のほとんど悲鳴といっていいような声にほんのわずか怯んでしまったのだ。その結果、踏み切りの力が足りぬまま跳ぶことになり、向かいのソファの背もたれに足を引っ掛けソファごと着地してしまったのである。もちろん、すぐに美由紀の捕獲にかかれるような着地ができるわけがなく、転ばずにいるのが精一杯でしゃがみ込んだのだった。さらに榎木津自身が着地に冷やりとしたせいで、オニ役であるのを忘れている。
いくら恐怖に慄いたとは言え、美由紀はこの隙を逃すような娘ではない。
「す、隙有り!」
美由紀は玄関に向けて駆け出した。大型特殊車両の接近に吃驚した街猫のような瞬発力で、事務所を突っ切る。
「あ!待て女学生!」
美由紀の疾走を目にした榎木津は、持ち前の反射神経で立ち上がって美由紀を追った。事務所内は広い作りになっているから、今度は榎木津の俊足も機能する。
美由紀は走る勢いのまま玄関の扉に手をつき、扉につけられた鐘がカランと鳴った。
一秒の時間差で、榎木津がさらに大きく扉を叩き、鐘が限界まで揺らされ鈍い金属の音が響く。
美由紀の右手は、玄関の鍵にかかっていた。
榎木津は美由紀の頭上を覆うように、扉に片肘をついている。
派手に鳴る鐘の音が、二人の耳には煩い。
鐘が静まると、互いの息遣いを聞いた。
二人は向き合わぬまま、互いに問いかけた。
「鍵、開けないのか」
「捕まえないんですか」
互いに何と答えるか考えている間に、事務所の掛け時計が鳴った。
カーンという軽い金属音が、四度聞こえてくる。
先に口を開いたのは榎木津だった。
「なかなかやるじゃないか」
可笑しそうに笑いながらそう言うと、扉にかけていた腕を外した。
美由紀も扉の鍵から手を放し、振り返って榎木津と向き合う。
「やっぱり、探偵さんには勝てないや」
そう言って、ほんのりと色づいた頬で笑った。
「何を言ってるんだ。君の勝ちだろう」
榎木津は腰に手を当て胸を張るいつものポーズをとって、不思議そうに首を傾げた。
こうなると、噛み合わぬゲームの勝ち負けの話など、二人はまったく関心がない。二人が気にしているのは、絡んで少しずつ熱を帯びてきた互いの視線についてだった。
結局、視線は双方逃げることも追い縋ることもなく絡み合ったまま、柔らかな拘束として口付けを交わした。
(弐回戦は、日が暮れてから。)
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