★探偵×女学生君
探偵は机に肘をつきながら、事務所内を忙しなく行き来する美由紀を目で追っていた。
白い蝶々みたい。
日頃見慣れた紺色のブレザーは学生然としていて、確かに似合っている。けれど探偵は、週末に遊びに来る時の私服姿を密かに楽しみにしていたりする。品の良い白いシャツに膝丈のスカートという簡素な服装が定番だったが、今日の美由紀は、ちょっと趣が違う。
鎖骨の下まで襟刳りが開いた、白い木綿のワンピースだった。ウエストに細いリボンが通してあり、背中で結ぶようになっている。
彼女が和寅の手伝いをしながら事務所内を移動するたび、フレアの裾と背中のリボンがふわふわと舞う。
「あぁぁ、かっわいいぞ女学生!」
「探偵さん」
美由紀は、本日何度聞いたか知れないセリフを耳にして、本日何度目かのため息を混じらせて探偵を睨んだ。しかし、その目にはまったく鋭さがない。照れ隠しの仏頂面だというのは、探偵の非常識な目を通さなくたってわかる。
「そんなに何度もおんなじこと言わなくったっていいでしょう!」
「なぁにを言うか!」
元気一杯の大声とともに、探偵は机に両手をついて前のめりに立ち上がった。
「僕はオンナジことを何度も褒めているのではない!最初はそのワンピースが実によく似合っていることを賛美し、次にそのワンピースを着ている君自身の可愛らしさを賞賛し、それからはそのワンピースを着ている君の立ち居振る舞いの可憐さを褒め称え」
「わかりましたすみません!」
探偵の無駄に熱のこもった長広舌を、美由紀は言葉を被せて止めた。
なんだ思い切り褒めてあげているというのに、と言いながら、探偵は乱暴に椅子に腰を下ろす。その弾みで、机の上を万年筆が転がっていった。
「あ」
軽い金属音がして、さらに床の上を深い青色が進む。
万年筆は華奢な白い靴の爪先で止まって、美由紀はそれを取ろうとかがんで手を伸ばした。
探偵はその様子に、まずいな、とは思ったのだ。
「ああ」
と間抜けな声を出すが、遅い。
かがんだ美由紀の、開いたワンピースの襟刳りから、その奥がのぞいた。ゆるやかな曲線の陰りと、対照的に白い膨らみ。
白い指先が群青の万年筆を摘み取って身を起こすと、ハイと言ってそれを差し出した。
探偵は、軽快にやぁありがとうと言って、それを受け取る。
心の中で、ああ見ちゃった、と呟きながら。
群青色のボディの万年筆を、クルりと回す。
これとは戦前からの付き合いだと、クルりクルりやりながら探偵は思った。
大学在学中に手に入れて、戦中は船にも持って行った。どうやって手に入れたのだったかは記憶が定かでない。女性から贈られたものだったかもしれない。
誰だったかな。
手に馴染んだ万年筆をクルりと指の上で回転させ、パシっと音を立てて掌で受ける。
探偵は細かなものをよく失くす。だからこそ、この特に変わったところのない万年筆を十何年も手元に置いてクルりクルりしているのだと思うと、何だか大事してやらないといけない気がしてくる。
いつか百鬼夜行の仲間入りをするかなぁ。
そうしたら、中野の古本屋に自慢しよう。
クルりとやって、美由紀を見る。
和寅が用意したアッサムのミルクティーを啜りながら、探偵の書棚から取り出した本を開いていた。うつむいた小さな顎、肩につく真っ直ぐな黒髪に純白の袖から生える細い腕。
健やかだと思った。
探偵の知る限りの年月でも、美由紀はどんどん変わっている。
彼女の秘された肌を見て、探偵は自分が抱いた感想に、ほんの少しだけ驚いた。
健やかで侵し難いほどの清潔さと誰彼なく誘い込む無防備さの均衡は、こちらの内面を揺さぶる。出会った頃は正真正銘の少女だったものが、会う度に違うものになっていく。それをまざまざと見せ付けられたような、挑戦状でも叩きつけられたような。
クルり、パシッ。
わかりづらいな。
酒場で美しい女性を見かけた時には、その女性の肌を想像することもあるし、露出面積の多い服を着ていれば不躾でない程度に拝見する。正直に話しかけもするし、気が合えば部屋にあげてもらったりして一晩を過ごす。お互いの欲求を満たしたら、いただいた肌の持ち主にお礼を言って去ればいい。わかりやすい。
しかし、探偵が直面している事態は、彼にとって非常にわかりにくいものに思えた。
美由紀の身体を欲してはいない。それなのに、時たま思考が焼き切れそうな飢餓感を覚える。事務所の扉を開けて現れた白いワンピース姿に、目が眩んだ瞬間や、群青の万年筆を手渡された瞬間の、喉の乾きと言ったら。
クルり、パシッ。
クルり、パシッ。
美由紀の膝の上の本が、パタンと音を立てて閉じられた。
愛想のまるでない顔を探偵に向けて、黒い目を眩しそうに細める。
クルり、カシャ。
指をすり抜けて、万年筆が机を転がった。
カシャン。
「何を見てるんです? 集中できやしない」
不機嫌な顔をしているが、頬は赤い。
大股で探偵のもとに歩み寄ると、転がる万年筆に指を伸ばす。
「ああ」
探偵の間の抜けた声。
美由紀の白い指先が群青の万年筆を摘み上げ、探偵に差し出す。
「きれいな色ですね」
「青いね」
妙な受け答えに、美由紀はハアと適当な返事をしながら首を傾げた。
「好きな色なんだ」
探偵の大きな掌が、群青色ごと美由紀の指先を掴む。
「こんな青くさいことになるくらい」
指先に感じるだけで、鼓動が早くなるくらい。
君の肌の感触を想像することも、ままならないくらい。
和寅の乱入は、美由紀の顔色を見れば無理のないことだったかもしれない。
「ああっ先生、何してるんですか!」
探偵机の前で探偵に手を取られ立ち竦んでいる美由紀は、何か言いたげに口を開きながらも言葉にはならず、泣き出す寸前の赤ん坊のように耳まで紅潮させている。いじめられているように見えなくもない。
美由紀は和寅の声に我に返って、探偵に握りこまれていた手を力一杯に引き抜いた。弾みかわざとか、すぐさま二歩退く。それから赤い顔をしたまま、探偵が触れていた手をもう一方の手で包んだ。失語状態はまだ続いているらしい。
その様子がまた可愛かったので、探偵は反応が遅れた。
「・・・何をしているかって、何と言うオロカだ和寅!色恋沙汰にしか見えないだろうが!お前は50年代を代表するオロカでも目指すつもりなのかこのカズトラオロカ!」
「何ですよそりゃ。そんなもの目指しますかぃ。あんまりいじめちゃ可哀想ですよ」
和寅はうんざりした様子でそれだけ言って、台所の方へ逃げ帰った。その様子はやはりゴキブリに通じるところがある。
探偵は心の底から不快という顔をしながら美由紀を一瞥する。美由紀はまだ自分の手を大切そうに包んで立っている。
「女学生君、そんな遠くにいないでこっちにおいで」
「やです」
美由紀は失語状態を脱した代わりに、警戒を強めることにしたらしい。
探偵は不服そうに口を尖らせると、勢いをつけて椅子から立ち上がった。
「なぁにを警戒するのだ。僕は君に何にもできないぞ今のところは!」
「そ、そりゃ、子供に何をしようって言うんですか!」
「コドモ?君は子供じゃぁないだろうが。君が子供なら僕はどうしようとも思わないさ」
コツコツという靴音も高らかに、探偵は美由紀に逃げる間を与えず近づいていく。美由紀が片足を引いた時には既に目の前に立ち、ご丁寧に鼻先10センチまで顔を寄せていた。
「探偵さん、近い」
「慣れなさい。僕も慣れたい」
再び美由紀が泣きそうな顔を見せたので、探偵は穏やかに笑って顔を離した。
「女学生君」
そっと、美由紀の耳に顔を寄せる。
「僕の前だからいいが、その服を着ている時はあまりかがまない方がいい。胸が見えるよ」
うわぁという叫び声とともに後ろに飛び退いた美由紀を見て、探偵は声を上げて笑った。
触れることも躊躇うくらい、なんて青い恋だろう。
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