なぜ私がこんなことをするのかって。
「――ッ」
溜息のような息遣いが重なった後、声にならない喘ぎが漏れて、また不規則な呼吸音が続く。
私の髪に柔らかに絡めていた彼の指がふいに握られて、わずかに引っ張られた。それは私がしている行為に不都合なほど強い力ではないし、素直に言葉にしないこの人の素直な意思表示のひとつだから、私は心の底で嬉しくなる。
添えていた右手の力を強くして、扱く。舌を広く使って、舐めあげると同時に吸う。
「んっ」
地声よりも少しだけ高い声だ。はあ、と漏れる溜息も随分熱っぽい。
髪を撫でる彼の手が肩に下りて、私が着ているスリップの紐を落とした。肩の丸みを強く撫でる掌は、驚くほど熱い。
私は一連の動きを続けながら、視線だけ上げて彼の顔を見た。どんな表情をしているのか、どうしても知りたかった。
彼は肘で身体を支える格好で、枕から心持ち頭を持ち上げ、私を見ていた。
光源はベッドランプの暖色の灯りだけ。
彼の淡い色の瞳は、蝋燭の炎のようにゆらゆらと揺れている。
微かに歪められた眉や、少し乱れた襟足や、肩の筋肉のライン、胸から腹筋にかけての影だとか、彼のすべてが絵画のようだと思った。私の情欲を煽る、ふしだらな絵。
あんまりじっと見ると彼は恥ずかしがって怒ってしまうから、私は適当に視線を下げてまた自分の行為に集中した。
口内の圧迫感が強くなった気がした。肩に置かれた彼の指に、ぐっと力が入る。
小さなクレッシェンドの息遣いと、スタッカートで入る無音の喘ぎが、室内に霧散する。
「ッ、待っ、た」
聞こえない振りをしたらもう一度待てと言われて、仕方なしに口を離した。
「――はい?」
「もおだめ!」
彼は僅かに掠れた声で駄々っ子のようにそう言って、弱りきった表情を見せた。この顔だけは、彼の下僕達は一生見られないに違いない。そう思うと、ちょっとだけ優越感がある。
「――はあ」
どうしたものか逡巡して、適当な相槌を返した。
「はあじゃない。こっちにおいで」
たぶん照れているのだろう。彼はぶっきら棒な物言いで手招きをした。
さあ、どうしようか。
彼の望むままに、その長い腕に抱きしめられるのはとてもとても魅力的だし、心の底からそれを望んでいるのだけれど。
私は動かさないでいた右手に再び力を込めて、一度扱いてみる。
彼の目が、切なそうに細まった。
色気というのは、完璧なものがわずかに隙を見せ、綻んだところに宿るものであるらしい。それは、この人を見詰めていて知ったことだ。この人の苦しそうな顔は、ひどく色っぽい。
舌先で先端を舐めてみる。涙のような味がした。
彼の眉間に力が入り、唇が小さく震えるのを見た。
うん、凄く、艶かしい。
私は、彼のお願いを聞いてあげないことに決めてしまった。
手を添えるとか、奥まで咥えるとか、細かなことはこの人が教えてくれた。
「あ、こら、ッ」
強くしたり、弱くしたり。吸ったり、舐めたり。あとは、視線を投げたり。そういったことは、この人の表情を見ながら自分で習得したと思う。
「ッ――ん」
日頃から表情の豊かな人だけれど、今のような悩ましげな顔を見せてくれるのは、こうしている時だけだろう。
この人を私だけのものにしたいなんて、そんな大それたことは願わない。だけど、この人の表情とか、言葉とか、私にくれたものくらいは、私のものだと思ったっていいと思う。
ああ、だからか。
そうしたかったから、私はこうして。
「くッ、――出る」
彼の白い腰が幾度か震えてすぐ、私の口内に塩気のある液体が広がった。
体温と、それは同じ熱さだった。だからだろうか。この口の中の液体は、もとから私の一部だったような気がした。
すべて出し切ったろうという頃に、私はゆっくりと口を離した。
うん、美味しくはない。
思わず眉をしかめて、それから一気に、ごくり、と呑み下した。
「あっ」
ぐったりと寝ていた彼が、その瞬間にスイッチが入ったように跳ね起きた。
ぽかんと口を開け、潤んだままの瞳を丸くして、私を見る。
私は気圧されて彼の足の間で正座になった。
「呑んだのか?」
ああ、どうもこの人は呆れているらしい。
そんなにあからさまに呆れられたら、恥ずかしくなってしまう。そりゃ、手練手管に明るいはずのない素人娘が、そうそうすることではないと思うけれど。
何か言い訳しようと口を開いたが、言葉が浮かぶはずもなく、私は一度頷いた。そのまま、気恥ずかしさで顔が上げられない。
すると、彼の手が伸びて、私の口元を拭った。
「平気?」
「はい」
彼の声は、存外に優しい。
「何で?」
心底わからない、という顔だった。けれど私は、何でと聞かれた時の答えなんて用意していない。
「何でって」
貴方が私にくれるのなら、
「呑みたいと思ったから」
そのままを、私は口にした。はしたないことを言っているという自覚はある。けれど、今更ではないか。恋人の寝台の上で、スリップ姿で、何を取り繕っても仕方がない気がする。
彼は何も言わずに、首を傾げて頭を掻いた。
「変な子だねえ」
それ以上も以下もない言い方に、何だか気が抜けた。
それから彼はまだふにゃふにゃと何か呟きながら、膝を立てて座り直して、私を抱き寄せた。肩の、彼の頭の重みが心地よい。乱れてあちこちにはねる彼の髪は、ランプの灯りに透けて赤かった。
可愛いな。
そしてとても、愛しい。
「私、上手になりました?」
彼の髪に鼻を埋めるようにして聞くと、彼は小さく笑った。
「なったね」
そう言って、こつんと肩に額をぶつける。
夕日の色をした彼の髪を、そっと指で梳いた。
可愛い。
彼のすべてが可愛い。さっき呑み込んだ、彼の一部さえ愛しいと思う。だから、自分の身体までも愛しい気がしている。
膣内で彼を受け止めれば、違う命になることはあるだろう。でも、きっと私のものではないのだ。
呑み込んでしまえば、それは私自身になる。
まったくおかしな、異様な理屈だと我ながら思う。誰かに披露できるような爽やかな話ではない。
でも、私はどうしても、そう思ってしまった。
「ああもう」
肩に温かな吐息がかかった。
「何です?」
「寝ないと回復しないじゃないか!」
彼は不貞腐れたような顔を向けると、その顰め面のままで私に軽い口付けをした。
「これからちょっと寝る。僕が起きたら覚悟しなさい」
そう言った彼の顔がいやに真剣で、可笑しい。
「愉しみにしてますよ」
彼はもう一度私に口付けオヤスミと言うと、足元に丸まっていたシーツを引っ張り上げて、そのまま寝台に沈み込んだ。
早く起きてくれないかな。
彼が眠りについた瞬間に、私はもうそんなことを思っていた。
だいたいこの人はいつ起きるつもりなのか。朝まで目を覚まさない、なんてことは十分にありえる。
一緒に寝ようかな。
考えて、すぐに諦めた。少し前に彼に触れられていたところの熱が、まだ冷め切っていない。思い出したら余計に身体の奥が疼いて、目が冴えた。
茶色い頭が沈む枕元まで四つん這いで近づいて、覗き込む。シーツと枕に埋もれて柔らかに伏せられた瞼が見えた。
そっと、彼の額にかかった髪に触れた。
この髪の一筋さえ、口にしたい。
もしかしたら私は、この人が私を求める以上に、この人を求めているのかもしれない。
恥らうべきことだと思った。でも、心に浮かぶのだから、仕方ない。
この人のすべてがほしいなんて、生涯願わないから、だから。
触れていた彼の髪に、私はひとつ願いを込めて、唇を落とした。
「五感」5題 05.触覚
『BLUE TEARS』様
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