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神田川沿いに並ぶ裸の桜はどれも赤い靄を纏っていた。もうじき花が開く、とわかりきったことを心で呟く。
春の西日に黒の制服は実に非合理的で、いっそ脱いでしまいたいがそれは流石にだらしないと思った。学ランの襟を二つ開いて、中のシャツの釦もひとつ開けた。汗ばんだ首に、春らしい豪風が当たるのは悪くない。
十六歳の松枝翔平にとって、それは学校帰りの決まったコースでしかない。神田川沿いを進み、雑居ビル群を通り抜け、セピアの古書店街へ。
日頃は季節のない景色だと思っていたが、桜をきっかけにしてよく見てみれば、それなりに春の花を飾る店があったり、空の色がやたら青かったりしている。
春は生き物を少し愚かにするよな。
生き物の中に己が含まれることはとりあえず棚上げし、翔平は酷く真剣に思考した。
昨日翔平に「欧米の神にとって日本人とは観葉植物のようなものだとは思わないか」と切り出し小一時間意味のあるようなないような議論をした級友は、今日同じ口で「女を犯してみたい」と豪語した。
それはそうだろうけれど。
哺乳類は春になると交尾をする。交尾は愚かな行為ではない、とは翔平も思う。むしろ尊いはずだ。生命を育む唯一のことなのだから。けれど、人の言う性交と動物の交尾を一緒くたにするのはいささか乱暴かとも思う。
翔平は今朝新聞で、通う高校の近くで、変質者が出ていることを知った。
性器を露出させて歩いたり、通りすがる女性に抱きついたりしたこともあるらしい。
翔平は真剣に考える。
十六歳の青少年の身として、性衝動の問題はどうしても身近なのだ。
はて、性器を露出させて歩いたり、見ず知らずの女性に抱きついて嫌がられたりして、己は性的興奮を覚えるだろうか。
真剣に検討してやがて、無理だ、という結論に至り、少し安堵した。
春になると、この手の変質者が増えるのだと誰かが言った。そうだったろうかと記憶を巡らすと、確かに昨年もその前の年もこんなチンケな事件があった気がする。記憶力は妙によいというのに曖昧にしか思い出せないのは、心底どうでもよかったからだろう。
愚かだな、と翔平は思った。それだけだった。
春は生き物を愚かにする、というよりは、
翔平は思う。
考えなしにする、というとより近い表現になるだろうか。
欲望に忠実になる分だけ、思考をしなくなる。生物が子孫を残すための合理的なサイクルのひとつなのだとしたら、愚かとは言い難い気がしたのだ。
春は生き物から思考を奪う。
変質者の変質的な行為は、あれは確かに欲望に忠実であるし考えなしにしていることではあるけれど、あれはやっぱり馬鹿だろう。
では、春の己はどうだろうか。
翔平はぽくぽくと歩きながら首を傾げ、通り過ぎた若い女学生は不振そうに視線を動かす。
どうでもいいや、と思うこの気持ちこそ、思考を奪われているということだろうか。
翔平は、そろそろ読みかけの本の内容に興味を奪われながら、桜を視界の隅の隅に映した。
***
神田川沿いの赤い靄は淡くなり、白い霞のようになった。
咲いているんだな、と翔平は、当たり前のことを心で呟く。
人付き合いはよい方だと自覚しているので、今年も友人達と桜にかこつけて宴会をする予定があるが、翔平自身は桜を愛でるという感覚がいまいちわからない。性格ゆえというよりは、桜の美しさを讃えるにはまだ感性が若いのかもしれない。
桜の間に気まぐれに置かれた腰掛けに、いかにも勤め人という男が休んでいる。背もたれに後ろ頭を乗せて、まだ枝の割合が高いだろう桜の景色を見上げていた。
満開の桜をああいう風に見たら、美しいのだろうか、気持ち悪いのだろうか。
心に浮かんだ二択の後者に、翔平は待ったをかけた。
満開の桜は綺麗なものだ。心底美しいと讃える感性はないが、綺麗か綺麗でないかという二択であれば、絶対に綺麗だと思っている。
けれど、
この視界をすべて桜に埋め尽くされたら。
は、としたのは、微かな声のせいだった。
声のした方、川の向こう岸を見る。
背の高い男と、女学校の制服を着た少女がいた。
どうやら、その男の声が耳に届いたらしい。何と言っているかまではわからないが、いやに声がでかいのだ。
兄妹か、親戚とかだろうか。さして関心は持たなかったが、奇妙な組み合わせではあった。
まあいいか。
気付けば、桜並木は終わっていた。
***
満開の桜は夜闇に幽霊のように浮かんでいた。
巨大な白い靄にしか見えない、と翔平は思う。
花見を終えて、同席した初対面の女学生と仲良くなって、暗くなってきたのをよいことに、もっと仲良くしてきた帰り道である。
桜のことなど、覚えていない。こんなものだろうと翔平は思う。それよりも、友人が家からくすねてきたという酒が大変美味かったことと、仲良くなった女学生のノリがよくて楽しかったことが、翔平の上機嫌の理由だった。
酔ってはいないが、らしくなく靴の裏がふわふわと軽い気がした。
表情に愛嬌がないせいか、翔平は人から真面目な人格だと思われやすい自覚がある。真面目な人間は無害だろうと勝手に判断してくれる女が、まれに翔平に近寄ったりする。(自分から近寄ったりもするが。)
戯れに触れた頬や唇の湿り気を思い出して、血が沸いた。
春のせいにしたらそれこそ、思考を奪われるということだよな、と、そこで翔平は思考するのを止めてしまった。
満開の桜はさわさわと耳元で音をたてていた。
川が流れる音が重なる。
静かだ、と思ってすぐだった。
きん、と微かな高音が鼓膜を揺らした。
女の悲鳴、とても短い悲鳴だった。
反射的に首を伸ばして声の方角を見るが、遠くの街頭と半月くらいしか光源がないのだから、ほとんど意味がない。
息をせずに耳を澄ます。土手の草の揺れる音、桜が擦れる音、水が流れる音、ほかに何か――。
***
古本屋とはどこもそうだ。
敷地が狭いから、蔵書を収めようとすると上に上に積み上げていく。もちろん、背表紙を手前に並べるから取り出すことは可能だが、店によっては最上棚の本のタイトルが確認できないほど高い所にある場合がある。
翔平は縦方向の成長が著しく、一時ほどではないが未だに関節が痺れるように痛むくらいで、とにかく背丈がある。だから古本屋での不便は人よりも少ないのだろうと思う。
例えば、
翔平は入り口で特売の文庫本を手にしていた女学生を思い出した。
背の高い本棚は、自分の肩くらいまでしか身長がない、たとえば女性や子供には不親切に違いない。
――どうして女性は小さいのだろう。
翔平は無限のように並ぶタイトルを浚うように眺めながら、学校でした友人との会話を思い出していた。
「悲鳴って、気のせいじゃないのか?」
昨夜、神田川沿いで聞いた女の悲鳴の話をした。
「いや、聞き間違えるものじゃなかった」
悲鳴とは人が危険を察して周りに知らせる声だ。だから、どんな声色よりも遠く響くし、心をざわつかせる。
「でも、ほら、夜寝ているとさ、聞こえることないか? 女の悲鳴」
「え?」。
「よく聞く気がしないか。寝ようと布団に潜り込んだ時とか、部屋で本を読んでいる時とか、きゃあって、大概遠くのどこかから」
友人の意外な返答に、翔平はしばし考えなければならなかった。
悲鳴、とは、「よく」聴くような日常的なものではないはずだ。あれは「危険信号」であって、非日常を知らせるものなのだから「よく」聴くものであっては意味がない。
でも、
「そうだな」
いつも、というほどいつもではない。けれど、よく、遠くで。
「何だろう、って思うけど・・・遠くから聞こえるし・・・それに、よく聞くから、放っておいちまうけどな」
もちろん、きゃあという高い声のすべてが危険信号というわけではないだろう。ただのいたずらに驚いてもきゃあという声が出るかもしれないし、何かに痛く感動した時にきゃあと声を上げる者もいる。
それを差し引いたとしてもだ。
「どうして女ってのは、あんな年がら年中悲鳴をあげているんだろうな」
思うところは山ほどあったが、翔平はただ、さあなあと答えただけにした。
特売本を見ていた女学生はいつの間にか店の中に入って棚を見ていた。見覚えのあるセーラー服は、近くにある有名女学校のものだ。いくつか年下に見えたが、真剣に本を選ぶ姿は様になっている。本を読む女性が増えた昨今ではあるが、古本屋に女性の、しかも学生のような若い女性は珍しい。
翔平が見ていた国文学の棚まで来て、人一人分ほどの距離を開けて並んだ。
伸びた背筋の上で、頭だけが本の背表紙をさらうにつれて少しずつ上を向く。
翔平は手にしていた論文集の目次を眺めきちんと吟味しつつも、古書店に現れた珍客を観察した。
セーラー服の長袖が上がった。鶴の首が伸び上がるように、華奢な腕が上がる。細い指が本棚の上から三段目に伸びた。
伸ばされた指先は、本の背表紙の一番下に触れ、瞬間に背伸びでもしたのか今度は本の上まで届く。
翔平は特に何も思わずに、強いて言えば親切で、女学生が取ろうとしている本をとってやった。手の甲にほんの僅か接触した。
女学生は踵を落として、翔平を見上げた。
塀から飛び降りてきた猫が睨みつけてくるような表情だった。
「ありがとうございます」
あどけなくそれでいて落ち着いた声で、少しもありがたそうでなく女学生は礼を言った。
「いいえ」
翔平は心の底からそう言った。
考えてみれば、女性は小さいわけではないだろう。
世の女性の大多数が翔平よりも身長が低いというのは事実だが、すべての男性が女性より大きいかと言ったらそんなことはない。当たり前だ。
何かと比べれば大きい小さいがあるだろうが、女性そのものを何らかのはかりではからない限り、小さいわけではないのだ。
小さくて、弱くて、家にいて、子を生み育て、男をたてる。それが、女性ではない。
人に自我があるように、女性にも自我がある。
当たり前だ。
当たり前じゃないか。
女は自分を小さいとは思わないだろう。ただ、本棚の最上棚よりは小さいと理解しているだけだ。
当たり前のことだ。
当たり前のことなのにな。
女学生は礼を述べてからすぐに本の中を改めると、翔平を邪魔そうによけてまっすぐに店の奥へ消えた。会計をするらしかった。
***
花がなくても桜は桜のはずなのに、それは何だかもう違う樹にしか見えない。花びらを散らし赤い芯と緑の葉を纏う樹は、数日前ほどの壮麗さはなくとも寂しさはない。それはそうだと翔平は思う。花も葉も、桜にとっては同等だろう。
五時を過ぎた陽は色を変え始めていた。
暖かい日だった。白い長袖シャツ一枚で足りる、春らしい日だった。
春は人から、思考することを奪う。最近の翔平のお気に入りだ。暖かくてぼんやりしそうになるのを、春のせいにして、そこから思考を無理矢理発展させてはぼんやりとする。
白い背中と紺色の襟、細長い腕、華奢な肩、小さな頭、きつくて大きな目、好意など微塵も含まない目。
優しげに細くなったり、目尻で媚びたり、そういう緩みの一切ない目だった。
そういうビジョンが、思考を奪う。
その瞬間に、きん、と鼓膜を揺らしたのは悲鳴だった。
きゃあっという、女の悲鳴だった。
ああまただ。
「いやっ」
「来ないで!」
よく聴く悲鳴ではなかった。
翔平は足を止めた。
遠くではなかった。近かった。
聞こえたのは翔平の進行方向だ。
ぐっと足に力を入れ、走り出す。
強い目を、思い出した。
嫌悪は含まない、けれど微塵の好意もない、ただ真偽を探るような目の丸い輪郭を、瞳孔の黒を。
二人分の人影は、川沿いをずっと下った橋の袂にあった。冬物のコートを着た男と、若い女がいた。
橋の上はともかく土手を降りてしまうと人通りが少ない。男の手が女の両腕にかかるのを、女は必死で振り払う。しかしどう見ても、男の力の方が強かった。女は今にも引き倒されてしまいそうだった。
あの子ではなかった。
翔平は少しだけそれを残念に思った。同時に、翔平は自覚できなかったが、安心もした。
土手の急斜面を雑草をなぎ倒して滑り降りた。
「おい! やめろ!」
踏ん張って俯いた女の顔が上げられた。感謝も喜びもない、ただ必死な顔だった。
コートの男は翔平に肩を掴まれて初めて、邪魔物が現れたことに気付いたらしかった。角度が変わって、男が性器を露出させていることがわかった。
力一杯に男の腕を掴んで、出鱈目に捻る。関節が軋む感触がすると同時に、情けなく細い悲鳴が上がった。
女が地面に崩れ落ちた。心配そうな顔でこちらを振り返る。
「ちが、違う、違うんだ!」
違う違うと男は呻く。薄暗くて年齢はわからないが、筋量や声の質から、ずっと年上のように思えた。
「悪かった!許してくれ!悪かった!」
茶色っぽく濁った白目に、涙が貯まっていた。
意味が分からなかった。何故この男は自分に謝っているのか。
「俺に言われてもね」
翔平はさらに手に力を加え男に悲鳴を上げさせた後で、未だ翔平の顔を不安そうに見ている女に向けて、警察をとだけ口にした。
簡単な護身術くらいは身につけていたけれど、人を助ける動きの型はよくわからなかった為に力任せにしてしまったから、男の腕の関節は不自然に腫れ上がっていたそうだ。折るほどの力は入っていなかったと思っていたのだが、火事場の馬鹿力とやらが出ていたのかもしれない。
翔平は簡単な聴取を受けて、家に帰された。被害者の女性は真っ白な顔色で、翔平に短く礼を言った。
古本屋にいた少女を思い出した。
少しも嬉しそうでない、ありがとうございます、だった。
***
神田川沿いの桜並木は、緑の濃く匂う葉が茂っている。
翔平が痴漢を撃退した日から、一ヶ月近くが過ぎている。
その間に、破廉痴漢から婦女子を守った若者として表彰したいという申し出があったが、翔平は丁重に断った。
いつかの、黒い硝子玉をはめ込んだようなひんやりとした目が、少しも有り難くなさそうにありがとうと告げるから、表彰状など受け取る気になれなかった。
「お前、最近少し変わったな」
と、並んで歩く級友が言った。これまで神田に行くのに誰かと連れ立ったことはなかったが、学校終わりにどこに行くのかと問われて答えると、同行を申し出たから好きにさせたのだった。
「変わった?」
翔平は意味が分からないまま鸚鵡返しにした。
「遠慮がなくなった、気がする」
「・・・それは謝った方がいいのか?」
「いいや」
まあ、女には謝った方がいいかもしれないが。級友はそう続けて愉快そうに笑った。ちっとも謝った方がよさそうではなかった。
「もともと付き合いはよかったが、何と言うか、近寄りやすい雰囲気になった気がする。何かあったのか」
自分が変わったかなど知る由もないと思ったが、心当たりはあった。
「・・・大発見をしたんだ」
「何だよ」
変わったつもりはなかったが、その発見が自分の行動に影響を与えているのは間違いない。翔平はこの友の同情を得ようとは思わなかったが、それでも語ってみようとは思った。
「男が強い訳じゃないし、女が弱い訳じゃないんだ」
「あ?」
「大発見だったんだ」
級友はしばらく呆けた顔で翔平を見たが、軽薄そうに見えて案外真面目な性格の彼は正面を向き直して黙った。考えているらしい。
「女が弱い、なんてのは、幽霊に足がないとか誰もいないはずなのに女が啜り泣くとか、誰とも知れない悲鳴が上がるとか、そういうのとたぶん、同じなんじゃないか。どう思う?」
自分の腕力と比べて、あの男の腕力は弱かった。あの場にいた三人の中で、あの女の力が一番弱かった。
それだけのことだった。
女性は弱いから男性が守らなければならない、とは、翔平にとって事実ではなくなった。
気付いてしまえば当り前過ぎた。しかし、翔平が気付くには、翔平の周りには「弱った女性」が多すぎたのだ。病から回復せず逝った妹、娘を失って床に着いた母、この頃は自分より背が高い女性なぞ会ったことがなく、見るからに己よりか弱く儚く見えた。
けれど、
自分より頭一つ分小さな少女の、どこがか弱く儚かっただろうか。
守ってあげようなんて、烏滸がましい。守るつもりで背を見せたら、あの日の痴漢と同じように、後ろから肩を掴まれて引き倒されてしまいそうだ。
「・・・よくわからんが、お前が案外極端で、行動力があることはよくわかった」
翔平は、この友人が誰からか何らかの噂を聞いているのを悟った。身に覚えもいくつもある。
「友として口を出させてもらえれば、女を甘く見ると身を滅ぼすぞ」
「だからこそなんだって」
「ああ?」
甘く見るなんてとんでもない。本気でぶつからないと。
やる気でいかないと、やられる。
(終)