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京極堂シリーズの二次小説(NL)を格納するブログです。
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行葉(yukiha)
性別:
女性
自己紹介:
はじめまして。よろしくどうぞ。

好きなもの:
谷崎、漱石、榎木津探偵とその助手、るろ剣、onepiece、POMERA、ラーメンズ、江戸サブカル、宗教学、日本酒、馬、猫、ペンギン、エレクトロニカぽいの、スピッツ。aph。
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『薔薇十字探偵の私事』6-ラスト

★相変わらず世知辛い話です。
★オリキャラを目立たせすぎている気が(今更)してきました。


 地上に出る手前の踊り場で、美由紀は一度うずくまった。
 首筋や背に、榎木津の感触が残っている。日陰の温度に、汗が冷える。頭が混乱していて、どこから整理していけばよいのか、どう落ち着いたらよいのか、わからない。

 間違えた。

 榎木津の声が、頭の中で反響していた。
 美由紀に触れた後で言った、間違えたという台詞の、意味と共に。

 肩を抱けば、自分の手の心許なさに、榎木津の手の大きさを思い出す。
 力強さや、聞きなれぬ熱い息遣いまで。
 榎木津が、熱く湿った息を吐くことなど、これまで思いもつかなかった。

 既に腹は立っていなかった。怒る筋合いなどない。
 ただ、激しく心臓が脈を打つ。どろどろとした、知覚したくない感情がこみ上げ体を満たす。

 ややこしいじゃないか。あんな風に抱きしめるなんて。
 せめて名前を呼んで、確認してから抱きしめたらよいものを。

 そもそも、名前を呼ばれたことなど、ないのだけれど。

 思い出す榎木津の声はすべて、女学生君、という呑気で軽快で、愛しいものだった。
 愛しい。
 恋しい。
 女学生君、と呼ぶ声が、今どうしようもなく欲しい、のに。

 先に流れた涙の痕を、追いかける滴をそのままにした。
 爪先の床に3つ丸い染みができて、
 8月の外気が乾かしていくのを見守り、
 立ち上がる靴裏でそれを踏んだ。

 階段を降りる靴音など、いくら待っても、聞こえてこない。
 
 ***

 待てど暮らせど、呉美由紀がやって来ることなどない。
 本気でそう思っているのに、松枝翔平は待っていた。
 正確なことを言えば、何時間でも待っていれば、いつかは通りかかるだろう。ここは美由紀が寮へ帰る時に必ず使う駅前なのだから。
 とにかく、松枝は、期待をしないという意味で「来ないだろう」と思い続けながら、駅前の待ち合わせにお誂え向きの植木に腰掛けて、本を読んでいた。
 目立つ場所だから、美由紀が通りかかれば声くらいかかるはずだった。だから、ひたすら本を読んでいた。どうせ家に帰っても本を読んでいるのだから、自分の家だろうが京極堂だろうが駅前の植木の縁だろうが同じなのだ。
 つまり、美由紀が恋しかった。
 開いている本の内容は、きちんと頭に入っていく。それでも、頭の片隅には確かに、得体の知れないものが陣取っていた。
 得体の知れないものとはそれとも、空虚だろうか。埋めたくて仕方ない、空間。
 あの子の顔を見れば、この空間が満たされる。
 そうだというのに、美由紀は彼女自身の空間を埋める為に、恋しい人(自分ではない)と会っている。
 何度も確認している現状をこりずにまた確認すれば、松枝の頭の空間は再び広がっていき、読書に費やせるスペースは狭くなる。
 有り体に言えば、そうだ。
 恋しさが募る。
 美由紀と別れてから、たったの一時間しか経っていなかった。それでもこの一時間とは、「美由紀があの男と会っている時間」であって、ただの一時間ではない。
 己に胸が痛むという機能があったことを発見して、松枝は自虐的な喜びを感じた。文字の羅列を目で追いながら、痛む患部を探ってみて、それはどうやら胸部ではないらしかった。胸が痛むとは、心臓でも胸部でもないのか。強いて言えば、全部が痛い。
 指先も、頭の奥も、脚の筋肉も、全部が痛んで力を奪う。
 だから、松枝は駅前の植え込みから、どうしても立ち上がれない。

 結局、声はかからなかった。
 ただ、本のページに細長い影がかかって、視線を上げた先で、美由紀は前を見つめて、突っ立っていた。

***

 榎木津はあまり夢を見なかった。
 まったく見ない訳ではない。が、ほとんど見ない。いつでもすぐにぐっすりと眠って、目が覚めたら起きる。覚めなければもう一度眠る。
 いつだか定かでないが、中禅寺と夢の話をしたことがあった。中禅寺は詰まらなさそうな表情で興味津々の瞳を誤魔化しながら、榎さんはどんな夢を見るんだいと言った。特殊な目のことを踏まえていたのは明らかだった。
 榎木津は、あまり夢を見ないとそのまま事実を答えた。中禅寺はそれでも目を爛々とさせたままで、なるほどなぁと言って顎をかいていた。
 処理するべき情報量が多すぎて、夢として意識に近いところまで上ってこないのかもしれない。アニメーションの原画の一枚一枚を判別することができないように。
 そう言っていた。
 ちっともわからなかった。
 夢を見ないという人間はたくさんいるし、榎木津自身まったく見ないわけではない。
 けれど、確かに、
 いい夢というものを、経験したことはなかった。

 強いて言えば、いい夢を見た、のかもしれない。初めて。

 榎木津はすっかり覚醒しながらも起きあがる気にはなれずに、仰向けのままで腕を組んで考える。既に霧散しようとしている夢の記憶を、寄せ集めて思い出している。

 昨夜、榎木津は久々に女性と過ごした。
 よく行くバーで、何年か前にも一度寝たことのある女性と再会して、適当に飲んで喋って、楽しかった。このところ、人肌を恋しく思っていた。その女性は、結局二度目も名前を聞かずに分かれてしまったけれども、綺麗でかわいくて優しかった。
 その女性を魅力的だと思ったし、誘われて嬉しかったから寝たのは、本当のことだった。
 けれど、ここで、ふむとため息をつく。
 
 気持ちはよかった。途中まではきちんと、その女性を見ていた。不満があったわけではない。

 ただ、身体を合わせながらした口付けに、美由紀が重なった。
 そこからはもう、制御ができなくなった。瞼の裏側が白くなるような情欲で、実に貪るように抱いた。
 えらく気持ちよかったのだ。美由紀を想像した瞬間に、嗚咽のように興奮が吹き出した。

 ふむ、とため息をつく。

 後悔をしているわけではなかった。しかし、間違えたのだと、榎木津は思う。

 相手の女性にはすぐにばれてしまった。果ててから荒い息づかいの合間に、誰かを想像したのかと実に率直に聞かれた。
 その時に初めて、正体のわからない――恐らくは悲しみ、に襲われた。それは、自分がどこにいたらよいのかわからなくなる感覚で、それを人は迷子と言い、迷子は――寂しい。
 人を抱いたばかりというのに、どうしようもなく心細いなど――なんて愚かな感傷だろう。そう思うのに、榎木津は嘘をついたり取り繕ったりすることが苦手だ。ほとんど、できないと言っていい。
「会いたい人を、思い出してた」
 先の問いかけを完全に肯定した後、榎木津は殴ってもいいと申し出たが、結局笑われただけだった。

 笑われて仕方ないことをしたと、榎木津は思っている。
 だから、いいだけ笑われて、少し話をして、それから日が昇るのを待たずに部屋を出た。

 事務所に戻って、寝て、それで、「強いて言えばいい夢」を、見たのだ。
 希望と、欲望と、人の体温の感覚が見せたのは、現実らしい非現実だった。そんな夢を見てしまったから、間違えた。
 間違えたら、美由紀は泣いた。
 処理するべき情報量が多いと――。
 中禅寺の台詞の欠片を思い出す。
 あの古い友人は、自分は人よりも極めて膨大な量の情報を、この目から得ていると思っているらしかった。
 ――馬鹿め。そんなわけがないじゃないか。
 己の目に触れてみれば、間違いなく顔の、鼻筋を主線としたほぼ線対称に二つ並んでおり、馬のように離れてもいなければ、小型犬ほど寄ってもいない。この視野は多くの人間がそうであるように、せいぜい190度程度の視野しか持たない。間違っても自分の後頭部を直にこの目で見ることはできないし、今この時日本橋の女学校の一教室で何が行われているのかなんてわかりっこない。
 少し前まで好かれていると思っていた女性が、今この時も自分を好いているかなんて、わかりっこない。
 自分の胸を押し返す細い腕、通り過ぎていく体が、恨めしかった。
 温かくて、柔らかいような硬いような感触が心地よくて、愛しかったから尚更、惜しまれる。
 もっと、ここにいてくれたらよかったのに。
 少し前まで確かに彼女に触れていた掌を、目前に掲げてみた。
 目の前に掌がある事実は、目の前に彼女がいない事実を語っていると、確認するまでもなく当り前なのだが、しかし。

 面白くないのは、自分の我儘だ。自分の勝手だ。美由紀にしてみたら迷惑だろう。
 美由紀が泣いたのも、美由紀の勝手で、ここを去ったのも、彼女の勝手。

 夢の中で、美由紀は大人しく抱きしめられていた。
 妻として当り前のようにこの腕の中にいて、笑っていた。(婚姻後という設定を採用した夢だったのだ。)
 
 夢と現実を間違えて抱き締めて、夢と現実の差異を突きつけられるなんて、何とも割に合わない仕打ちではないだろうか。

 ――あんな風に、泣かなくてもいいじゃないか。

 まるで大人がするような、綺麗で悲しそうな泣き方を、しないで欲しかった。

 ***

 土曜の夕方の喧噪の中、そこだけが静かである気がして、実際にはそんなことはないとわかっていながらどうしても、美由紀は松枝に近付いた。
 本当は誰にも会いたくなどなかった。きっと酷く情けない顔をしている。
 油断をすれば、思い出してしまいそうだった。赤い痣や、手の温度、頬に触れた肌の感触、

 ――自分ではない、という意味の言葉も。

 この世界のどこかに、榎木津が腕に抱くひとがいて、それは、自分ではない。
 ――間違えた。
 思い出して、しまう。
 体温、抱きしめる力の強さ、首に口付けた時の痺れ。
 誰を抱いている、つもりだった?

 力なくぶら下がっていた右手に松枝が触れた。それでも、美由紀はろくな反応ができない。
 酷い奴だ、と思う。松枝のそばにいるなんて自分は、ずるい。
 自分を好きだと言った人に甘えている。それも、自己嫌悪のせいで、中途半端な甘え方しかできない。目も合わせられない。声もかけられない。
 我儘だ。
 指先を引いていた松枝の手が、右手を包み込むような手つきに変わって、ぐいぐいと引っ張っている。
 美由紀は素直に従えずに引っ張る力に幾度か反抗して見せてから、身体から力を抜いた。松枝の隣、植木の縁に腰掛ける。
 松枝は、腰を落ち着けた美由紀の横顔をしばらく見つめてから、何も言わずに正面を向いた。
「何か、喋りたいことがあれば、言って。どうせ、君を待っていたんだし」
 松枝の言い方はいまいちよくわからないところがあったけれど、すぐに手にしていた本の頁をめくり始めたから、美由紀は少しほっとした。
 この青年は本当に寛容だと思う。自分とひとつしか年齢が変わらないはずなのに、どうにもかなわない。同世代の男というのは一様に落ち着きがなく、世間の流行もあって
か恋愛や色事に対してえらく貪欲で、正直に言って美由紀が長く抱えている男性不信に拍車をかけていたのだが、どう見ても、どう警戒したって、松枝は尻尾を掴ませない。
 いや、尻尾を見たことはある。
 松枝は美由紀に、二度告白をした。一度目には、少しだけ怖いと思った。触れて火傷しないはずのものが、身を焼こうとするような、野生動物だったなら跳び退くような、そういう怖さだった。
 黙って本を読む松枝の横で黙っていると、美由紀自身もまた冷静になってくる。
 京極堂の台所で感じた、松枝の瞳にある黒くて猛烈な質量とそこから生じる熱は、あれは、あれは己も抱える熱なのだろうか。
 
 どれくらい時間が経ったのか。
 松枝は、まるで気まぐれに本から片手を離して、本の頁は開いたまま、視線もその頁からはずさないままで、美由紀の右手を握りしめた。
 指先は乾いて硬く、掌だけ熱く湿った手を、美由紀はそういうものだと錯覚をしながら見た。
 その手は自分のものより二周り以上は大きく、そこそこに頑丈な枝のような指は長く、その先の爪は短く丸い。美由紀のよく知る白い手よりも、少しだけ粗のある手だった。
「・・・そんな片手間で握られても・・・」
 本気で思っているわけではなかったが、黙っているのはそろそろ気まずかった。松枝は少しだけ笑ったようだった。
「文字通りだね」
 何が気に入ったのか、彼にしてはまともな笑い方だった。
「だって・・・しっかり握りしめるには人通りが多いし、そもそも、美由紀さんは僕に手を握られて嬉しいのか厭なのか、僕にはわからないから」
 こういう微妙な触り方しかできない。
 松枝はようやく本から目を離して、美由紀と目を合わせた。久しぶりに会った気がしたのは本当に気のせいで、実際は数時間前に既に顔を合わせている。ただ、顔を見合うことを美由紀がしなかっただけだった。
「・・・それで、誰に泣かされたんです?」
 松枝は不出来な生徒にでも接するような口振りで問いかけた。泣いたことがばれるような顔をしているのかと美由紀は目尻に触れてみるが、微かに熱を持つ程度で実際はよくわからない。
「・・・泣かされたわけではないです。勝手に、私が勝手に、泣いただけであって」
「探偵氏と喧嘩でも?」
 松枝は紳士的な態度の割にオブラートというものを知らない。
「喧嘩は・・・喧嘩じゃないです」
 松枝に、ことの顛末を話す気はなかった。内容が内容だというのもあるし、そもそも、口に出すこと事態が辛い。
 榎木津に会いに行って、自分はその人に片思いをしていて、けれどどうもその人は昨夜誰か女性と共にいたらしくて、さらに悪いことにその人と間違われて――。
 これではまるで、失恋の報告だ。
 ふと、美由紀は気付いた。
 そうか。
 
「しつれん」

 漏れ出た言葉に、松枝は怪訝そうにんと声を漏らした。
 何を言っているんだろう。あまりに無防備な自分の口に幻滅し、己の気の緩みようは情けない。
 思わず松枝を伺うと、いつもの石像のような無表情があった。
 この無表情はとても厄介なものだ。松枝の無表情は、たとえば黒に一滴の白を混ぜればそれは既に先の黒ではないように、刻一刻と変化をしていくから、人はそれを見極めようと食い入るように見つめてしまう。
 だから美由紀は、目をそらす。
「失恋っていつ決まるんだろうね」
 それは美由紀が先日ルームメイトにした問いだ。松枝はいたって真面目そうに、例えば夢とは脳にとってどういった役割があるのかについて話をした時と変わらない表情で、口にする。
「はあ」
「思いを告げて、受け入れられないと言われた時?」
「ああ、そうなんじゃないですか?」
「けれど、諦めないのだとしたら?」
「・・・屁理屈ではないですか?」
「相手に恋人がいた場合は?」
「それも、失恋ではないですか?」
「恋人がいると了解している人を好きになったら?その人は最初から失恋をしているの?」
「・・・屁理屈ですよ」
 でなければ、言葉遊びだ。美由紀はこういった無為な言葉遊びは好きではない。本当のことがずれていく気がするのだ。
 松枝は石像の目を人のものに変えて、微かに細くした。

「僕はあなたが好きだけど、失恋したなんて思ったことは一度もない」

「え」
 松枝の言ったことの意味を理解するほどに、美由紀は顔が熱くなっていく。
「あなたに想う人がいることなんて百も承知だ」
「そんな・・・」
 考えたことがなかったわけではない。
 松枝ならば、もしかしたら見抜いているかもしれない、といつだって頭の片隅にはあったはずだ。しかし、いざ目の前で告げられると無性に恥ずかしい。それに、普段碁石のような体温しか感じない男からの情熱的な言葉の押収は、先日の告白劇からずっと、美由紀にはどうしたらいいのかわからない。
 松枝の、片手間のはずの左手に力が籠められる。
「本当に厭なら、あなたはとっくにこの手を振り払ってるね」
 その通りだった。男性という性別すべてにある程度の不信と嫌悪を抱いていることを、美由紀は何年も前から自覚している。厭なことは厭だと、必要であればぐーで殴って訴えることだって辞さない性格でもある。その自分が松枝のする接触の仕方を拒絶しないのは、ただひとつだった。
 沈黙は、この場合松枝の問いかけへの肯定に他ならず、松枝は更に目を細める。それはきっと、美由紀がここ数年で見てきた松枝という人間を鑑みれば、「微笑み」のやり方ではない。
 ――ああ、これは。
 これは、獲物を前にした動物がする、舌なめずりのようなものだ。

「失恋したのかしていないのか。失恋するのかしないのか。そんなことは、ケースバイケース。ルールになんてならない」

 君が何故そんなに悲しそうにしているのかなんて、僕にわかるはずがないけれど。まあ、提案までに。

 松枝は真面目な人物だった。
 松枝が話すことのすべてにおいて、「嘘」はひとつもなかった、と美由紀は信じている。
 無表情は表情筋の働きが乏しいだけで、いつからかそれは雄弁に感情を伝えていた。低い話し声はひたすら事実を語り、時に美由紀を追いつめ、疑念を抱かせながら、あからさまに情熱を語る。
 素直、なのだろう。
 
 あの人と同じだ。

「あの人への気持ちを、忘れてしまったらどうだろうか?」

 松枝はそう口にしてすぐ、いや、と覆す。
 ある種の発見であるほど黒い色をした瞳の奥に、またあの、巨大な質量と熱を見た。

 表情にすぐ出るのも、あの人と、同じだ。

「忘れてほしい。一刻も早く、この瞬間にでも忘れ去ってほしい」

 美由紀は当たり前の反射として、首を横に振った。
 できるわけがなかった。
 
「まだ泣きたいの?」

 鉱物の温度の声が責める。
 泣きたいかと問われたら、泣きたくなどなかった。もう二度と泣きたくない。悲しいことなどない方がいいに決まっている。それでもこの悲しさはきっと終わらないことを、美由紀は想像するまでもなく理解できるから、泣いてしまった方がいいのかもしれないと、少し打算的になるのが我ながら奇妙だった。
 泣きたいくらいに悲しいなんて、馬鹿馬鹿しく悔しい。
 この世の中にはもっと悲しく泣かずにいられないことが無限のヴァリエーションで存在していることを美由紀は知っている。好きな人に嫌いだと言われたわけではなかった。ただ、

 ただ、好きな人が、自分ではない女性を、抱いただけだ。

 榎木津とどういった関係の女性なのか。恋人なのかそうでないのか、素人なのか玄人なのか。あの無邪気な男がどういう風に女を抱くのか。あのままなのか、美由紀が知らない一面を見せているのか。どういう気持ちで抱いたのか。愛情を込めた、情熱的なものだったのか。どういった気持ちもなかったものか。――いいや、きっと、榎木津はそういう風に人を抱かない。
 
 好きだった時間の分だけ、知っていた。
 わからない、わかるはずがないと、他人にも自分にも言い聞かせてきたけれど、美由紀は榎木津のことを、それなりに理解していた。
 美由紀の知る大きな掌は、乱暴な行いもするけれど、弱いものや慈しむべきものに触れる時、とても温かく優しく包もうとする。

 だからそういう風に、誰かのことを――。
 
 美由紀は歪に首を傾げ、わざとらしさを自覚しながら、さあと嘯いた。

 いつの間にやら松枝の手に本はどこにもなく、空の右手が目の前に翳される。
 夏の夕日の橙が陰り、

「や…ゃめ…」

 体温の闇は、いつかの誰かのものと同じように温かく、けれど涙を止めることはなく、

「好きなだけ泣いて」

 打算の匂いを隠さずに、あるだけ悲しさを搾り取る。  
 美由紀はもう、何をしても無駄な抵抗である気がして、泣かせる手に両手で縋った。

(6-終)


 

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