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猫にまつわる記憶を掘り返してみれば思いの外古いものしかなく、どうやら戦時中、妹がまだ生きていた幼少の頃まで遡ることになった。
記憶の中で、妹に前足の脇を持たれぶら下げられた猫は随分大きく思えた。妹は得意そうに自分に向けて猫を差し出すと、それまで惚けていた猫は我に返ったものか、途端に四肢をばたつかせた。
あの猫は、暴れて、どうしたのだったか。
思い出と言うにはストーリーのない映像は、記憶力のよい松枝でも一般的な幼い頃の記憶の例に漏れず不自然に途切れている。
白っぽい、猫であったのような気がした。
三毛だったか、真っ白だったのか。
怖い顔だった、とそれだけ思い出す。松枝少年は、その猫を怖いと思って、差し出された猫の頭に触れられなかった。
そうして、青年になった松枝は思い至る。
自分が、まるで怒っているような怖い顔の猫に、美由紀を重ねてイメージしていることに。
「・・・君とは似ていないな。石榴」
松枝の指先に顎を乗せ、いいように撫でさせ目を細める猫と「あの猫」とはまるで表情が違う。もちろん、石榴という珍妙な名の猫を見ても、美由紀を思い出したりはしない。石榴は、飼い主に言わせれば愛想のない猫であるらしかったが、どう言う訳か松枝には素直に撫でられた。その顔を見ても少しも怖くないし、むしろ愛らしいと思うから、こうして読書を中断してまでも猫を撫でている。
それに比べて美由紀は――
笑っていても真面目な顔をしていても、実際に怒っていたとしても、重なるのは「あの猫」だけだった。
風鈴がちりんと鳴った。猫は、もっと撫でろと指に首を擦りつける。
「ん」
縁側の日差しを集める毛皮はふんわりと暖かく、指先に感じる喉の震えは単純に愛しい。猫とはかくも器用に愛情を集め得るものかと驚愕に似た気持ちさえ抱いた。
喉を撫でるだけで目を細めてすり寄ってきてくれるなら、どんなに楽だろう。
――そうでもないか。
「楽な」女性は案外多いことを松枝は実体験でもって知っているのだが、美由紀を基準に考えると自分はとんでもない怪物の喉でも撫でていた気になってしまう。そして、想う人の喉を撫でてみるという想像をするにしては猫のいる縁側は少し明るく、松枝はふむとため息をついた。
ぎしぎしと軋む音に、家主が店から戻ってきたのを知ってそちらを向く。
「話を中断してしまってすまないね」
「いいえ。こちらが相手をしてくれましたから」
仏頂面がデフォルトらしいこの古本屋の主は、気持ちよさそうに目を線にした飼い猫を見てほんの僅かに眉間から力を抜いた。
「こいつを懐かせるなんてなあ。君ぁ学生の身で余程の手管をお持ちと見える」
「さっき蕎麦を食ったからでしょう」
鰹の匂いでもするんじゃないですか。
それを聞いた中禅寺がくくっと笑うのを、松枝は首を傾げて見上げた。
バーで絡んできた不審な男、司が松枝に紹介したのは、中野にある大きくはない古本屋だった。
司は言った。
古い友人がやってる本屋でね。なぁに極普通の古本屋だよ。
ただ変わってるなって思うのがさ、何だか人を引き寄せるのさ。迷える子羊ちゃんから、凶暴な狼まで、それはもういろいろと集まって、店主の長話を神妙に聞くの。
うんそう、悩みを聞いてもらうんじゃなくてね、もっぱら話を聞くんだね。はは。無類の弁舌家なのさその店主が。もちろん、超能力者じゃあるまいし、用件くらいは話さないとはじまんないけどさ。
で、話を聞いてるとね、すっきりさっぱりする人もいれば、逆に、路頭に迷う人もいる・・・。
あはは、大丈夫大丈夫。彼基本的にはいい奴よ。
その古本屋に恋愛相談でもしろと言うのかと問えば、司はしたきゃしてもいいと思うよと悪びれずに言った。
松枝に「京極堂」なる古書店を紹介しようという理由について、司はこう言った。
「なんとかなると思うんだよ」
「恋愛成就の秘技でも教えていただけるんですか」
「あはは。恋愛成就ってガラの男じゃないね」
君が悪い奴じゃないなら、悪いことにはなんないよ。
閻魔大王みたいだ、と思ったことは、松枝は口にしなかった。
閻魔大王と似ているのは結局眉間の皺くらいのものだろうか。
松枝は一ヶ月前の、初めて京極堂の引き戸を開いた日を思い出す。日陰色の店内の奥に、書を読む石像のような男がいた。挨拶をすると、案外いい声でいらっしゃいと応えたのを見て、ああ幽霊ではなかったとぼんやりと思っていた。
京極堂店主の中禅寺秋彦は、挨拶を交わして2秒の間の後で言った。
「ああ。違っていたら申し訳ないのですが・・・あなたが松枝翔平君かな」
松枝は珍しく素直に驚きを表情に表した。
「・・・その通りですが・・・どうして?」
「いや、司君から予め聞かされていたからね」
司は京極堂を紹介しただけでなく、話を通すことまでしていたらしい。あの正体の掴めない男は、案外世話焼きなのだろうか。
そうなのだろう。司が松枝に近寄ってきた理由を思い出して少し納得する。
「・・・司さんからは、何と聞いているのでしょう?」
京極堂の主は、客にするには不機嫌すぎる顔のまま首を傾げる。
「何とと言われても・・・知り合いの学生さんに君を紹介した、と言われましたよ」
それだけなのか。
軽い落胆と、次の形振りを一瞬思案していると、店主はじいっと松枝を見たまま片方の口で笑って言った。
それとね。
「何かにとりつかれていないか、看てあげて。と」
時代錯誤の深藍の着物は薄暗い店内でほとんど黒に見えた。ああそういえばーー松枝はイメージを重ねる。
霊媒士とはこういったものかもしれない。
「・・・そんなことを言われたのは、生まれて初めてです」
松枝は穏やかな視線を向けて言った。
嘘つきも、詐欺士も、自分が好む人種だった。目の前の、それこそとりついてきそうな地縛霊のような古本屋と、もっと話がしてみたいと思った。
結局のところ、
「僕に何かとりついていますか?」
「・・・何も? としか言いようがない」
京極堂の主は中禅寺秋彦と名乗り、二回目の訪問から松枝は店主を中禅寺さんと呼ぶようになった。
何かがとりついているのか否かを中禅寺はなかなか口にしなかったため、松枝は帳場に座る中禅寺の横で売り物の本を読んでいる時にふと思い出して聞いてみると、先のような歯切れの悪い返答があったのだった。
「司さんの目には、僕が何か悪い霊にとりつかれているように見えたのでしょうか」
「・・・どうなんだろうなぁ」
愛想のない見かけによらず話好きの中禅寺が、何やら興味がなさそうに見えた。
「僕には・・・何も?」
「ええ、何も」
それはもう、珍しいくらいに。
中禅寺はそう言って、ぷかりと煙草をくゆらせた。
さもあらん。松枝は頬杖をついたままこくりと頷き、売り物の書物をまたページをめくる。
とうとう、松枝は中禅寺家の縁側まで乗り込み飼い猫と仲良くなるまでにその辺鄙な場所にある本屋に馴染んでしまっていた。
我ながら呆れた適応力だとは思ったが、それよりも、中禅寺の方がわからない、と松枝は思う。
確かに松枝は京極堂に居心地のよさを感じていたし、店主とは何か同類のようなシンパシーのような、あまり覚えのない感覚を持って近付いていた。しかし、それを受け入れるどころか促すようにしたのは、明らかに中禅寺だったのだ。
石榴の頭が重くなってきたと思っていると、線のようになった目も開く気配がなくなっていて、どうやら完全に昼寝をすることにしたらしい。
猫は暢気だ。暢気も含めて野生なのだろう。
そうして自分も、ここにいるといい加減暢気になってくる。
司に会った時点ではーー戦略的な思惑しかなかったはずなのに。
「それで、中禅寺さんの評価はどうなんです?」
「評価なんて大それたことをするつもりはないよ。僕は一読者でしかないさ。だから感想を言えば、まあ面白く読んだな。昨今の若者の文化なぞ僕には縁遠いものだし、脚色が多分にされていたとしても大はずれってことはないだろう?なかなか興味深かった。描写に繊細さはないが、簡潔でテンポの速さが魅力なのだろうし、ストーリーも飽きさせない。まあさすがに後味は悪いがね。それが刺激を増長させているところでもあるし・・・大衆受けはまちがいないだろう。映画も流行るんじゃないか?」
「デートに使うには悩めるところでしょうがね」
「間違いない」
話題の小説の結末を思ってのことだろう、中禅寺はくすくすと笑って茶を啜った。それから、ふと視線を上げる。
「なあ松枝君」
「何です?」
「ここだって、あまりデートには似つかわしくないと思わないかい?」
「え?」
ここ、とは、京極堂、いや中禅寺家の座敷である。
意味が分からず中禅寺の顔を見てみるが、本人は縁側の外に視線をやっている。それからひとつ、はあとため息をついた。
「松枝君」
「はい」
「司君はね、君について本当にろくな説明をしていないんですよ。そして君自身も、僕に何か相談をするでも助けを求めるでもなかったでしょう。だから、全て憶測に過ぎません。間違っていたなら謝りましょう。余計なお世話だと言うなら、今後一切このことについて口にしないよ」
中禅寺の視線の先には夏の匂いがする日向の庭が広がっていて、その先に人の声二人分を聞き取ることができた。
懐かしい少女の声と、何やら騒いでいる男の声だった。
「そんなことは言いません」
中禅寺の言いたいことの大体を察して、松枝は素直に頷いた。
「・・・彼女とも面識がおありでしたか」
「古典の現代語訳を質問される程度に」
十分じゃないかという感想は口には出さなかった。
外からの声はどんどん近付いてきていた。もっぱら男の方の声がやたらと大きく、声さえ低くなければ子供かと思っただろう。それをいさめる少女の声は、覚えがあるのに聞き慣れない。
――彼女でも大きな声を出すのだ。
正直、松枝は迷っていた。
この場では顔を合わせるべきではないのかもしれない。
彼女との会話の中で、京極堂のことは一度も会話に出たことがなかった。中禅寺が榎木津と友人関係であれば、中禅寺と彼女が面識がある可能性を考えていなかったわけではないが、実際に家を訪ねるまでの仲で、しかも遭遇するとまでは考えていなかった。
どうも意識的に、無意識的に、しかし無意識に作意的に、あまりにも彼女を包囲している気がする。これでは、下手をすれば警戒されてしまうかもしれない。
「さて」
中禅寺はからりとした声で空気を洗った。
「どうやら客人が二人ほど増えるようだ。君さえよいのならここにいてくれて構わない。まあただし、一人はものすごく面倒くさい男だからそのつもりでね」
中禅寺はすっくと立つと、障子の前で松枝を振り返った。――どうする?
松枝は一度瞬きをする間に考え――決断した。
「長居はしませんが、もう少しいさせていただいても?」
中禅寺は表情に出さず、しかし少し哀れむような目をした。
「もちろん」
座敷に高笑いが響く、三分前のことだった。
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