滑り込むように松枝の隣の席にかけた男は、珍しい形の眼鏡に派手なシャツと値の張りそうな装飾品などの身につけているものからも、にやりと笑う口元や細くした目のやり方まで何をとっても、素人には見えない人物だった。松枝に対して敵意や悪意があるようには感じないが、にこにこと笑っているからと言って友好を表しているわけではない。松枝は怪訝さを隠さない鋭い目で男を睨んだ。
「エヅ?」
「その、榎木津探偵のこと。そいつのこと知りたいから、こうやって古本漁ってるの?」
「・・・どなたですか」
「司喜久男と申しマス」
細い目がさらににやりと細くなる。
ああ面倒だ、と松枝は思った。
「僕は松枝といいます」
「知ってる。お友達に聞いたよ。あ、十二年ものロックと、このお兄さんにお代わりあげて」
司は慣れた様子で離れて立つバーテンに注文すると、松枝を振り返ってよければ飲んでと言って笑った。有無を言わさぬ笑い方だと、松枝は能面の顔のまま見ていた。
女性ならいざ知らず、似ても焼いてもうま味などない貧しい若い男に微塵の関心もない司だが、バーの再奥の席を利用する仲間として松枝の顔だけは知っていた。
やけに落ち着いて見えるが、よく見れば二十歳そこそこだし、それにしても飲み方が理性的過ぎる。戯れに常連客に聞いてみれば「こんなとこ」に出入りしているが学生、しかも国立大生で、そうだというのにいやに遊び慣れているのだという。
飲み方なんていっそ年寄りじみてるよ。女のあしらいは、まあ今時の学生はあんなもんかね。上手いよ。
そう語った男に司は、そら羨ましいねと返した。
「最近の若い子って遊び方がすごいよね。おじさんもびっくりよ」
「流行なんじゃないですか?こういうのが」
松枝は薄くなくなったウィスキーをぺろりと舐めて、ぐるりと店内を見渡した。聞き飽きた洋楽に、体を揺らせる男と女、薄暗い店内に赤茶色に浮かんでいる。
司もちらりと背後を見て、詰まらなさそうに正面に直った。
「この歳になると、若すぎるっていうのも疲れちゃうんだよねえ。二十歳は越えてくれないと無理だわぁ」
司の言う通り、店内は二十歳に満たない若者は多い。松枝と同様学生とはいっても、高校生くらいの者もかなり多くいた。
「そりゃあ、よくよく吟味しなきゃいけませんね」
かなり大人びた格好をして見せて、よく話を聞いてみればまだ高校生だったりすることは多いのだ。そういうのはノリばかり軽くて、実際付き合ってやると「重たい」ことがあるから面倒くさい。
「君はその辺慣れてるって?」
「・・・僕は真面目だけが取り柄のようなつまらん男ですよ」
司はけらけらと笑いながらぐびりと酒を呷った。強いのだろう。
おかしがらせるようなことを言ったつもりはなかった。卑屈になるでも謙遜するでもなく、そう思っているからそのまま言っただけである。
「はは、そんな胸張って自分のことつまらんって言い切る子は見たことないなぁ。そもそもさあ、君もてるでしょ?顔も悪くない、頭もいい、酒は強い、話も上手い」
「司さんとはまだ上手に話したことがないですが?」
「ええ?そりゃあわかるさ。君、あんまり愛想ないわりに友達多いでしょう。あ、僕も友達が多くてね、君を知っている人がたくさんいたからちょっと意外だったのさ。無表情で無口だけど、面白くていい奴だ、だいたいの人はそう言ってたよ」
司はいつから自分をマークしていたのだろう。松枝は司のにこやかな顔の裏側を想像して、思わず僅かに背筋を伸ばした。
「他にもある」
にやりと細まる目の向こうが、夜行動物のように光った気がした。
「あんな冷たい人見たことない」
おどけるように女の声真似をして司は言った。
「やり逃げどころか、やり捨て。口先だけ。なんだって?」
しかし、にやにやと笑う司の表情からは、夜行動物の獰猛さは見られない。
松枝はふと肩から力を抜いて、酒を口に含んだ。先よりも濃い味がして旨い。
「勘違いをさせたことだけは、僕の非ですね」
「それ以外は?」
「それ以外って?」
松枝は妙な茶番劇だと半ば呆れる気持ちで正面を向いた。司が近づいてきた理由が松枝の予想通りとすれば、くだらないことこの上ない。案の定、司はオチのない演劇をぶふっと下品に笑って終わらせた。
「君ってほんとに学生さん?あはは、かっわいくないねー!」
「かわいい子におねだりされましたか」
「そうそう。君をとっちめてやってってさ。まあそんな些事はどうでもよかったんだけど、君のことは前から知ってたしね。どんな子なのかとはっていたのさぁ」
気を悪くしたのならごめんねと、司はひらひらと掌を振った。気にしてませんと言った松枝の台詞は本当に本心からである。そもそも、色恋沙汰に関しては明らかに司の方が行いが悪そうなのだから、こんな子供の告げ口のようなものに耳を傾けたこと自体が異例だろう。
「で、さ。今日君を見かけたのはまったくの偶然な訳なんだけど」
司は松枝が座る背もたれをちらりと見た。
司に告げ口をした者が誰かなど松枝には関心がなかったが、こうなれば――その人物に感謝したくもなる。
「君はいったい何がしたいの?」
松枝ははあとひとつため息をついた。背中には古本をまとめて入れた紙袋がある。
「・・・榎木津氏に何かしようだなんてことは、思っていませんよ」
「はは」
カラン、と司の酒の氷が溶けた。
司は何が愉快なのかおかしそうに笑った。
「そうなら僕が止めてあげるよ。ああ違う違う。エヅ公のことなんか誰が心配するかって。君のためを思ってやめろって言うのさ」
松枝は素直に疑問になって首を傾げて見せた。
「・・・どんな名探偵なんですか、榎木津氏は」
「もーお困った乱暴者だよ。暴れ始めたら手がつけられない。できるなら関わらないで生きていたい」
そう言う司の表情からは、榎木津礼二郎への好意がしっかりと現れていた。
「・・・とんでもないひとなんですね」
「とんでもないとんでもない。触らぬ神に祟りなし、よ。あんなの研究対象にもなりゃしない」
だから止めときなさい。司の眼鏡の奥から射す視線が、そう言っていた。
「研究しないわけにもいかないんです」
「何故」
「楽しい理由じゃありませんよ?」
「あはは。何、学校の論文か何かなわけ?」
「いいえ」
これから自分が口にしようとしていることの、なんとつまらないことだろう。松枝は自分に呆れてしまう。
「僕が好きな人が好きな人なんです」
同時にとても、愉快だった。
司は一瞬水をひっかけられた猫のような顔をして、ぶはっと吹き出してから大いに笑った。
司は自分を買い被りすぎていると松枝は直感していた。
恐らくは与える印象と、噂話による内面性がかけ離れて聞こえるせいだと思うが、例えそれが「すべて事実」であったとしても、松枝は自分を司が期待しているほどの悪党だとは思えない。
自分は、司が行き来するアンダーグラウンドとは無縁の、表の世界だけをぼんやりと歩いているだけだ。噂話の内容など、実に「よくある」若々しくバカバカしいエピソードでしかない。
だから、
司がおかしがるような、面白い人間ではない。そうだというのに、司は椅子に深く凭れて深く頷くと、そうかそうかと愉快そうに声にした。
「ふーん、あいつが君の恋敵かあ」
司の声には老獪さがあって、本当に納得しているのかどうかは読めなかった。
「榎木津探偵とはどういう関係なんですか?」
「古ぅい友人だよ。こないだも一緒に飲んだ」
司が嘘をついているとは考えづらかった。松枝はテーブルに肘をつき黙って司を促した。
「でもさぁ、君の想い人でしょう?それならカノジョは二十歳そこらだよねえ」
司ははてと不思議そうに首を傾げた。
「十八だと思います」
そう伝えると、ええと漏らして真実驚いた顔をした。
「未成年じゃないのさ。女子高生?女子大生かな?・・・えー、君知ってる?エヅは見かけあんなだからわかりづらいけど、僕と同い年だから・・・三十九とかもうじき四十路とかよ?」
「そのようですね」
松枝は実際には榎木津に会ったことがないが、美由紀からの情報でも年齢不詳だと聞かされていた。司はよた話でも聞くような顔で松枝を見た。
「そりゃぁ・・・たぶん恋敵になんないよ。松枝くん」
「・・・どういう意味です?」
「いや、そもそもね、君が年齢不詳なのがいけないのさ。君そんな落ち着いてるけど、実際二十歳そこそこなんでしょ?てっきり二十代のお嬢さんがお相手かなぁと思ってたけど・・・十代でしょう?女学生さんでしょう?」
司が言わんとすることはすぐに察せられた。話を聞けば、良識のある人ならば誰もが同じ反応をするだろう。
「気を悪くしないで欲しいんだけどさあ。さっきも言ったとおり、オジサン達にしてみたら、十代のお嬢ちゃんなんて範疇外よ?」
司はやはり人を見る目がかなり肥えているらしい。松枝を二十歳そこそこと言い切る大人は滅多にいない。実際は二十歳になったばかりなので、司も実年齢より上に見ているようだが、「若者」だと見抜いたこと事態が珍しかった。そんな自分が思いを寄せる相手としてならば、十代後半の女子高生などよくある青春物語のパターンと少しもずれない。しかし、これが四十路の男が相手となれば、少し事情は異なる。
「エヅはさあ、無茶やるけど根が真面目なんだよねぇ。特に恋愛に関しては堅いよ。悪い遊びはまったくしない。嫌いなんだよそういうの。だから、」
子供に手を出すなんてことしないさ。司はそう言って、またちびりと酒を飲んだ。
「エヅよりさ」
「はい?」
「君はどうなの?」
「僕ですか」
司が問いただしたいことは予想できて、松枝は思わず笑った。
「あ、君って顔の筋肉が鈍いだけなのね。感情は豊かに見える」
「・・・まあ、そうかもしれません」
いくら無表情だ無口だと言われても、わざとそうしているわけではないのだから、表情に現れてしまうのなら仕方ない。
「自覚した」瞬間の衝撃的な驚きを、松枝は未だ覚えている。そして未だに、自分のような人間が抱く感情として意外に思ってもいるのだ。
実に。実に不可解だった。
こんな恋情などというものを、照れずに正々堂々と言い放つなんて、できるわけがない。
「ふーん・・・本気ならさあ」
司はグラスを置いて松枝を見ると、へらりと笑った。
「それを買ったとこよりもっといい古本屋知ってるんだけど、興味あるかい?」
「・・・古本屋、ですか?」
また古本屋かと思うが、司の言い方には含むところがあった。
「君の役に立つかどうかはわからないけど・・・得るものはね、厭ってほどあると思うよ」
厭ってほどね。
けらけらと笑う様子には微塵も真剣さが見られない。松枝は――。
音楽が変わるのを、背中で聴いた。
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