榎木津が戻ったとき、事務所内はえらく静かだった。
美由紀が来ているはずだがと思いながらコートを脱いでいると、台所から和寅が顔を出した。
「ああ先生、お帰りなさい」
その声はやけに小さい。
「タダイマ。あの子はどこだ?」
そう聞くと、和寅はしぃと口の前に人差し指を立てた。
「ソファです」
それだけ言って、台所へ戻ってしまう。
榎木津は首を傾げながら衝立をまわって応接ソファに近寄ると、そこでやっと和寅の言わんとしたことがわかった。
紺色のブレザーに臙脂のリボン。見知った女学生が、応接用のソファですやすやと眠っていた。
机には筆記具や教科書が使われていたままの形で広げられている。
榎木津は、希少な野生動物でも見つけたような気分で、物音を立てないように彼女に近づいた。
普段なら見詰めただけで、真っ赤になりながら栗鼠のように逃げるのに。そう思うと、愉快な悪戯を仕掛けている気分になって、思わず口元を緩ませた。
美由紀の顔の近くで膝を折り、じっと観察する。
眉で切りそろえられた前髪の隙間から、白い額が覗いている。からかえば気の強そうな視線を返してくる大きな目は、今は半透明の瞼に閉ざされ安らかな表情を見せていた。白粉を塗らない皮膚は、健やかな血の色を透けさせて瑞々しい。
頬に一筋、黒髪が流れ落ちていた。
覚えず、指を伸ばす。
「先生?美由紀さん起こしちゃ可哀想ですぜ。なんでも課題がたくさん出て、昨夜は夜更かしだったそうで」
台所から聞こえてきた和寅の声に、榎木津は指を引っ込めた。
「ふぅん」
誰に聞かせるでもない相槌を漏らしながら、榎木津は己の手をじっと眺めた。
もし起こしてしまえば、宥めすかしてまた寝かせてしまえばいいと思った。
「和寅、僕の寝台あけて」
榎木津が美由紀を抱き上げようと肩の下に腕を差し込んだ時、髪留めに指が引っかかってはずれた。
電灯の光を髪の表面が何度か弾きながら、手の上で一束二束と黒髪が解けていった。さらさらと、手首を猫の尻尾が撫でていくような感触にぞくりとする。
やがて美由紀の髪は、溶けて流れ出したように榎木津の掌に広がった。
余程疲れているのか、美由紀は身体を持ち上げられた時僅かに眉をしかめ小さく呻いただけで、少しも起きる様子を見せなかった。
和寅に部屋の扉を開けさせ美由紀を抱えたまま入れば、先ほどまで寝台の上に散らばっていた衣装はすでに片づけられていて、シーツも枕も皺なく整えられている。日暮れ時の室内は暗く、窓の外の景色はすでに薄い青を纏っていた。
もう半時ほど寝かしたら起こしてやろう。榎木津はそう決めて、片足で器用に布団を捲り上げると、敷き布団に美由紀を横たえた。
枕に、掌に、白く光る黒髪が雨降りの湖面を描いた。
血の色の唇から、小さなため息が零れる。
くたりと顔を横に向けた美由紀の、細い首に張った皮膚は薄暗い部屋の中で一際白く、少女のものには見えなかった。
榎木津は、美由紀の顔を覗き込む形のまま、目を一度硬く閉じた。
掛け布団を美由紀の肩まで上げてやると、それまで単調だった寝息が微かに乱れた。
長い睫が震えて、やがて黒い瞳がのぞく。
光の加減か、榎木津にはその瞳がやけに妖しく、暗いものに思えた。
そのまま、美由紀は何の表情も見せることなくゆっくりと目を閉じた。
榎木津は一度唾を呑み込み、それから声を出さずに少し笑った。自分が可笑しかったのだ。
音を立てないように部屋を出て、扉を閉めた。目が酷く乾いているように感じられて、力任せにごしごしと両目を擦った。喉の奥もガラガラとしている。
「和寅珈琲!」
台所から、はいはい今煎れてますよぉ、という声がした。
机に珈琲を置いた和寅が、榎木津の顔を見て言った。
「先生?なんだかお疲れですねぇ」
榎木津は珈琲に手を伸ばしながら、口をへの字にする。
「どこがだ。疲れちゃぁない」
そうですかぁと訝しげに言いながら、和寅はさっさと夕食の下ごしらえに台所へ戻っていった。その背を、榎木津はいかにもつまらないという顔で見ていた。一度持ち上げた珈琲カップも、口をつける気が失せてソーサーに戻す。
「まるでとおりものだ」
閉ざされた自室の扉に向けて放った言葉を、聞きとがめるものは誰もいなかった。
PR