「益田さんは・・・和寅さんもそうですけど・・・よく平気ですね、あんな人と毎日顔を合わせて」
僕の声は我ながら弱々しく響いた。益田は封筒から報告書を取り出しながら、応接にいる僕を振り返って笑った。
「そりゃまぁ、僕だってあの人のこと綺麗だとは思うよ。でもさぁ考えてみてよ、普通は無理でしょ。美由紀君もよくご承知と思うけど、言動ははちゃめちゃだし、そこらの男よりよっぽど強い。想像するだけでも恐れ多いよ。和寅さんなんかは子供の頃からの付き合いだそうだしね、色っぽいことの対象じゃあないんでしょう」
益田はそこで一瞬黙って、ふうっと息を吐き出しながら笑った。
「考えたことなかったけど・・・ガード堅いんだね、あのオバサン」
内容の繋がりが悪いような日本語の使い方が違うような、そういう違和感を持ったが、益田が話を区切るようにして報告書を取り上げてしまったために、僕はそうですかと言って黙った。
そんなやり取りをしたのは、つい先日のこと。
益田の言うことをそのまま受け取れば、探偵にとって僕は、ガードを張る価値がないということだ。
僕が宿題を片付ける前で、美貌の探偵は正面にスリットの入ったスカートから広く脚を出して組み、何やらふんぞり返っている。時々飽きてしまうのか、通り過ぎる和寅を冷やかしたり茶を所望したり、恐らくは思いつくまま珍妙であまり例のない世間話をしたりする。僕はそれを、時には無視し、時には相づちを打ち、時には爆笑して相手をする。
僕は、彼女が唐突に始めたその話の内容を、すぐには理解しなかった。
正確には、話の内容は理解できていたのだが、それを僕の立場と関連づけて考えるのに時間がかかったのだ。それだけ、唐突に、
「それでねえ、私の従兄弟というのがいい加減結婚をしろとうるさくて参っているのさ。なんでも偉い政治家の息子だとかいうんだけど、そんなのその息子の人が偉いというわけではなさそうだよねえ」
僕は理解したくなかったのだ。
「偉いのはその方のお父上なんでしょ。その人はどんな人なんですか?やっぱり政治家?」
「そのようだよ。名前だけは聞いたことがあったから」
僕は自動的に紡がれる対話を、まるで他人のように聞いた。
僕は何の話をしているのだろう。
これは、探偵の、結婚の話。それは、僕がもっとも恐れている、予想される未来だ。
探偵は輝くような頬に掌を当てて少しだけ首を傾げ、何か思案するような顔をしている。結婚するかどうかというよりは、今日の昼は何を食べよう、カレーにしようかそばにしようかという顔である。
そんな顔をしないでほしい。
僕はわからなくなってしまう。嘘だろうか、空耳だろうか、白昼夢だろうか。
事実であれば、本当にそうなら、彼女が結婚するということは。
僕の恋が永遠に叶わなくなる、これは瀬戸際なのだろうか。
「み、美由紀君」
僕を現実に戻したのは、何やら深刻そうな顔をした探偵助手だった。
「はい?」
僕は呼ばれるまま、益田へ顔を向ける。彼の顔を見た瞬間、自分がどんな顔をしているのか気になった。恐らく益田と似たような顔をしているのに違いない。それとも、益田の方が僕の表情を写しているのだろうか。
「え、榎木津さんも、いきなりそんな話しちゃったら美由紀君が吃驚しますよ。だいたい断ったんじゃないですか」
ああ、益田は僕の心境を察したらしい。急激に顔に熱が集まり、湯気でも出そうだ。
探偵をちらりと見れば彼女も僕を見ていて、残酷極まりなくもぷっと笑った。
「おお顔が赤い!どうやったの?」
「生理現象ですよ」
「ふふ。あのねぇマスカマ、まだ断っちゃないよ。叔父貴のやつ、来週にまた来るからその時に答えろと言うんだもの。面倒臭いことこの上ない」
「どうして」
「え?」
ぐずぐずと膨らむ感情の欠片は、口を開けばこぼれ落ちそうなほどに大きくなっていた。僕はきょとんと無邪気な顔をした探偵を見て、いいえとだけ呟き、目をそらす。
益田がくるりと背中を向けて、仕事机に着いた。
たぶん、見るに耐えないほどに、今の僕は情けない。
探偵は、何も言わない。
どうして、すぐに、断らないんですか。結婚しちゃうんですか。誰かのものになってしまうんですか。
僕に猶予は、ないのでしょうか。
――神様。
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