東京の桜が開花した頃、美由紀は極当たり前に進級した。東京に来てから中高一貫校へ入学し、高等部へ上がってから三年目になる。
身長は既に伸び切ったようだった。女性にしては長身で、小柄な男性例えば知人の小説家とはそう変わらぬ程の背丈まで伸びた。顔形はここ数年そう変わらないように思えるが、長く付き合いのある人は大人びたと口を揃えて言う。では女性らしい体型になったのかと言うと、友人と比べるまでもなく全体的に細い。きつくなった服があるかと思えば、ゆるくなった服がある。多少淑やかに見えやしないかと伸ばし始めた髪は、いつの間にか結ばねば邪魔になる程の長さになった。黒く癖のない髪だけは、古くからの乙女の誇りと言う通り艶やかだ。
もうじき美由紀は18歳になる。
神田の枯れた色の古書店街は相変わらず埃っぽく、覆う空はどこまでも青い。去年の春も、その前の年の春もそうだった。
ああ、進歩がない。ふと、美由紀はそう思った。
昨年の秋頃から、もしかしたらそのもっと以前から、毎日片時も離さずにいる感情に、美由紀はとっくにじれている。
思春期の象徴たる淡い恋心とやら。
それを青少年らしからぬ客観性でもって見つめ、抱えきれないお荷物のようにも大切な宝物のようにも感じ、青少年らしい経験不足でもって、いつの間にやらぼんやりと思考を手放してしまう。
そもそも気が長い性格ではない。どちらかと言えば短気で、曖昧なことには回答を欲しかった。欲しい回答を与えてもらえそうにない時はどこまでも考えた。
その結果として、美由紀は未だにじれている。
ぐんぐんとスピードをつけて歩けば、春風が前髪を吹き上げた。
性格はエキセントリック、しかもとっくに成人をした大人で、歳は二十も離れている、そういう人物に、十代の小娘(もっと言えば恋愛経験は平均以下)が恋をした場合、この恋心をどう扱うのが正しいのだろう。
美由紀が恋を自覚してから半年以上が過ぎていた。何をしていたかと言えば、ただただ好きでいただけだった。顔を見たいから会いに行った。幸運にも、相手は遙かに年下の女学生に関心を示し、やたらと可愛がってくれた。
手やら足やらに口づけられたり、手を繋いで歩いたり、デートという言葉を使って遊びに出かけたりした。寝台を借りたことも、これにはいろいろと事情があるのだが、一度ならずある。
嫌われてはいない。むしろ、大変に好かれていることは美由紀も承知している。
それで満足しておくべきだという理性と、満足できるわけがないじゃないかという短気な情熱が、一瞬おきに心を占めて、じれた。
可愛がられるのは嬉しい。しかし、彼にとって自分が“可愛がるべき子供”でいるのは辛い。
――あの人なら簡単そうなのに。
美由紀はふと、一人の男子学生の、能面のような顔を思い出した。
その人物は美由紀のほとんど唯一の異性の友人である。年は二つ上の大学生で、博学で理路整然と喋るところが知り合いの古書店の主を思い起こさせた。
こちらが下手な言葉で喋っても上手に意図を酌み、あちらの言いたいことはするすると頭に入ってくる。恋を語るのも、彼なら器用にするのだろう。
そうは思うが、生憎美由紀の恋の相手はその彼ではない。
美由紀が恋をしている人物とは、他愛もない会話をするにもどこか変梃だった。あんまり変梃で、大事な話など、きっとしたことがない。
真面目な話ができない人だと軽んじているわけではなかった。ただ、真剣な顔で真剣な話をしだしたら――。居ても立ってもいられなくなるかもしれない。想像するだけで、頬が熱くなる。面倒だと投げ出されたらと想像して、怖気づいてしまう。
そうした弱虫風に吹かれ続けて、一筋縄でいかない恋の相手に、美由紀は一筋の縄もかけたことがない。わかっているのだ。臆病であると。
視界の端に、目指す建物が入った。淡いグリーンの屋根が鮮やかに青い空の背景に浮かぶ様を仰ぎ見る。美由紀は無意識に、足を早めた。
土曜日の探偵社は騒がしかった。
薔薇十字の金字が浮かぶ扉の前に立った時から、既に探偵とその秘書(というか給仕)がやり合うのが聞こえていた。
「こ、こんにちは」
迫力に圧倒されながら事務所に入ると、いつもの大きな机にふんぞり返る探偵のしかめ面と、それに向かい合う和寅の情けない風情の八の字眉が振り返った。
二人は美由紀の姿を認めた途端、それぞれ真逆の反応を示した。探偵は不機嫌な顔を一瞬にして喜びで一杯にし、和寅は疲れきった表情の上に――美由紀はそこに己への哀れみを見た気がした。
「女学生君!」
「み、美由紀さん・・・」
「・・・はい?」
机の上には、いつか見た薬箱が置かれている。
火傷をしたのだ。
探偵は何故だか誇らしげに顎を上げて、美由紀に告げた。
肘の上までシャツを捲り上げた左腕を突き出され、その肌の色や筋の造形に、美由紀は一瞬だけ怯んだ。我慢して眺めると、肘の間接の辺りが赤みを帯びている。なるほど程度は軽そうだが、火傷である。
和寅は美由紀の横で薬箱を抱え、はあっと投げやりなため息をついた。
「服に擦れると痛いと言う癖に、先生ったら手当てをさせてくれないんですよぅ」
「ふん。馬鹿寅め冗談じゃないと何度言ったらわかるのだ。この間なんかアノ京極がアノ仏頂面で薬を塗り包帯を巻いたんだぞ。死神だか人間だかわからん男がどんな治療を施したとして誰が完治すると思うかね。男に治療されるくらいなら肘から下が腐り落ちた方がまだましだ!」
それはどうかと思う。正直に呆れていると、探偵はくるりと美由紀に向き直ってにっこりと笑いかけた。
「という訳だ、女学生君」
「・・・どういう訳なんですか」
もちろん、彼が言わんとしていることくらい察している。
横にいた和寅がこぼしたため息は、呆れた為か安堵の為なのか美由紀にはわからなかった。
火傷の理由を尋ねてみれば、熱い茶がかかったのだということだった。何故中野に住む彼の友人が治療をしたのかと問えば、現場が京極堂だったということらしい。そんなこともあるだろうと思って納得するが、火傷をするにしては肘の関節というのは奇妙に思えた。
「どんなこぼし方をしたんですか」
「びしゃっ、と」
完全に小学生の受け答えである。探偵はなおもばしゃっかな、などとどうでもいい言葉の選択で首を傾げた。美由紀はこれ以上聞いても無駄だろうと諦めて、治療に専念する。
火傷用の塗り薬を塗ってやり、ガーゼをはる。そんな当たり前の治療が、非常に困難だった。ソファに並んで座るのだって、知り合ってから当たり前にしていることだった。それなのに、今は異様な程距離が近い気がする。安全で安心と思える距離まで探偵から離れなさいと言われたら、どこまでだって離れられる気がした。もちろん、それを少しも望まないのだが。
「痛くないですか?」
「痛くないよ」
痛がってくれたっていい。意地悪な考えに陥っている自分に、美由紀は戸惑った。これでは八つ当たりである。自分の秘めた感情の処理の仕方がわからなくて、不器用に発散させているだけだ。
単純に、疑問でもあった。
探偵も自分と同様に、何か大きく心を揺さぶられることがあって、心を痛めることがあるのだろうか。実際に落ち込んでいるところを、美由紀は見たことがある。しかし、その原因が恋愛のような非常に繊細な話であることは、ありうるのだろうか。あるとしたら、その相手はどんな人で、どんな理由で探偵を苦しませるのだろう。
考えるだけ無駄という疑問ばかりが心を占めて、すぐに空中に溶ける。
カチャと応接の扉が開いて、和寅が洗濯籠に溢れるほどの洗濯物を抱えて横切った。
「先生、あまり美由紀さんにわがまま言っちゃあいけませんぜ?」
「うるさいぞ馬鹿寅」
母親に反抗する少年のような口調の返答には頓着せず、和寅は美由紀に向かって屋上にいる旨を伝えた。洗濯物を干しに行くらしい。
ここ数年探偵社に通いつめている仲であるから、美由紀への態度は通常の客よりは身内に近い。それでまったく不都合はないのだが、時たま探偵のお守り役を任せきりにされるのには閉口する。
特に、こうして至近距離にいる時などは。
探偵は、先に和寅の治療を拒否していた時と比べれば別人のようにおとなしくしていた。片肘をソファの背もたれに乗せ足を組み、並んで座る美由紀の方に身体ごと向けている。偉そうに見えるのは状態なので特におかしいところはない。
おかしいのは――。
おかしいのは己だけだと、美由紀は了解している。
油断をすれば、指先が震えはじめる気がした。そうしたら最後である。ばれてしまう。
ただでさえ、秘密を暴く役割である探偵が相手である。すでに若い恋心など暴かれているのかもしれないとも思う。
だからこそ。
態度に出てしまったら、今のままではいられない。
それを怖がる己を臆病とも思う。軽蔑する。それでも、「今のまま」でいてはいけない理由が、美由紀にはまだわからない。
おとなしい探偵に倣って、美由紀も黙々と手を動かした。ガーゼを手に取り傷口に当てる。探偵の肌は温かい。冬を過ぎたせいか、さらに白く見えた。女のものに見えないのは、骨格や筋が作る陰影と淡い色の体毛のせいなのか。自分の手が重なるせいで、余計に造作の違いがわかる。
男の人、それも、既に完成されている。卑屈にならずとも未熟を自覚する美由紀は、その事実にいつも孤独を感じた。相手がいないとできないはずの恋を、まるで、一人きりでしているような。
「肩に力、入りすぎ」
探偵の発言に、美由紀の肩が跳ねた。
顔を上げれば、力の抜けきった視線をよこす探偵がいる。背もたれに預けていた腕を美由紀の肩へ伸ばすと、そのままぐいぐいと下に押した。
「脱力しなさい。脱力」
「・・・はあ」
呆気にとられながら素直に肩の力を抜くと、不思議と本当に気が楽になった。単純に探偵が会話を始めたことに安堵したからかもしれない。
「大した怪我じゃないんだから、そんなに緊張することない」
それはつまり、美由紀の緊張がばれているということだった。体中が熱くなったような、同時に冷えきったような、奇妙な感覚にとらわれる。
どうしてこんなに緊張してしまうのかと言えば、目の前の人物を過剰に意識しているからで、どうして過剰になるかと言えば、それは美由紀が探偵を――。
「それにね」
探偵が何か言うのを聞くために、美由紀は砂嵐のような感情を振り切った。
「可愛い可愛い女学生君が手づから包帯を巻いてくれているのだ、どうしたって照れくさいじゃないか。何か喋りなさい」
どう見たって威張っている。発言の意味とは関係なく、いつものように胸を張っている。だから、美由紀はとても自然な反応として事実を確認するために、まじまじと探偵を見つめた。
白い頬の血色が、いつもよりもほんの僅か濃く見えるのは気のせいなのかどうか。
そうまるで、照れているかのように。
「ほら手がお留守だぞ」
「え、ああ」
慌てて、包帯の一巻きを手に取る。
驚くべき事実を噛みしめる間はない。何か喋れと探偵は言う。
だから――。
美由紀の胸にすとんと、
度胸が座った。
もうやめよう。
かつて意識しないでしていたことが、恋を自覚した途端に不自由になった。会話がしづらい、目が合わせられない、会いたいのに離れたい、離れたいのに近づきたい。
この不自由を、我慢するのをやめよう。怖気づくのはやめよう。怖がる必要があるような危機が、この瞬間にあるとはとても思えないのだから。
そう決めてしまえば、早かった。
するすると包帯の束を解いて、探偵の腕に宛がった。
「探偵さん」
「なあに?」
「探偵さんのような人でも照れたりするんですか?」
「僕をなんだと思っているのだ」
探偵はどこか不服そうにふんとため息をついた。
心境に重たさがあるのなら、今はふわふわと軽い。美由紀は、こんなにささやかなやり取りで変化した気持ちのあり方が不思議で、可笑しかった。自分の感情をひどく難解にも、呆れるほど単純にも思える。
変てこなのは、案外自分の方なのかもしれない。そう思えば、何だか自分が可愛い気がして、笑えた。
「笑ったな!」
思わず顔を上げれば、探偵は大きな目を輝かせて笑っていた。
「君はね、もっと笑っていなさい」
そう言う探偵の方が笑っているのに。
「え、と、普通に笑ってますよ?」
「いいや、最近むっつりしていたじゃないか」
真剣に思い返すまでもなく、確かにむっつりしていたかもしれない。特に探偵の前ではどんな顔をしていいのかわからなかったために、結局不機嫌そうな顔になっていた。言い訳はたくさんあるのだが、どれも正直に訴えるわけにはいかない。
しかし、生まれた羞恥心は一瞬で消え、探偵が明るく笑うせいで別の感情に心を奪われてしまった。
「ほら、笑って」
笑ってと言う探偵が笑うから、美由紀は笑った。口元から解けるように、自分が笑ってしまうのがわかった。
これが笑わずにいられようか。大好きな人が笑っているのだ。それも、何だかとても嬉しそうに。
大好きだ。
笑いながら自分に笑えと命令する奇妙な男のことが、美由紀はもうずっと前から大好きなのだ。どんなに侭ならない相手でも、初心者には難しい相手でも、子供と大人であっても。どんなに一方通行の想いでも。これが、相手の笑顔ひとつで嬉しくて仕方なくなってしまうような、おめでたくて幸福な感情であることに、きっと違いは無いのだ。
「うん!それ!」
探偵はこくこくと満足気に頷いた。
美由紀はもう一巻きと探偵の腕に包帯を巻いて、はずれないように、きゅっ、と結び目を作った。
幾つか話をした。
学校で進路希望調査が行われたこと。親からは大学進学を進められていること。(縁談もあるという話はさすがに黙っておいた。)進路については、まだ特に決めていないこと。
「どんな仕事をしたいとか、何か立派な志があるわけではないんです」
探偵は黙って、冷めているに違いない珈琲を啜っていた。
「自分で生活したいんです。働いて、お金を稼いで」
世間知らずの、生意気な発言だという自覚はしていた。
あまりに曖昧でぼんやりとした希望を、美由紀は誰にも話したことがない。相談にもならないから、話したいとも思っていなかった。
それでも美由紀が探偵に告げたのは――。
探偵は弛緩した表情で珈琲カップを置き、ふむと相槌を打ちながら腕を組んだ。シャツの袖はまだ上がっていて、包帯がのぞいている。
「いいんじゃないか?働きなさい。働かざるもの食うべからずだ」
常日頃勤労から縁遠い男は大真面目にそう言った。
「ということは、寮を出たら一人で暮らす気かい?」
それは美由紀も少しだけ悩んでいるところだった。
「できればそうしたいとは思っていますが・・・まだ、両親に相談していないんです」
何せ、具体的なところな何も決めていないのだ。ただでさえ離れて暮らしている分心配をかけている様子なのに、曖昧なことを口にして余計な心配をかけるのは気が引けた。
「そりゃあ駄目だ。話なさい。親になったことはないけれど、娘は心配されるものと決まっているのだ。君ぁ知らないだろうけどね、あの敦ちゃんだって一人暮らしをする時には随分兄妹喧嘩をしていたぞ」
「はあ」
「まあ、最初に敦ちゃんに相談してみるのもいいよ。仕事の探しも家の探しもわかるだろう」
なるほど敦子か。心底納得するまま、美由紀はそうしてみますと返事をした。
素直な反応を示した美由紀に、探偵は唇に緩やかな弧を描いた。完璧な大人の顔をしたまま、探偵は続けた。
「お金を稼いでいなくても、毎日しっかり働いて、自分で生活している人も多いけどね。君ぁそういうのはまだいいんだな?」
「へ?」
なぞなぞのような不可思議な言い回しに、美由紀は咄嗟に反応できなかったが、探偵はひとりで納得した様子でそうかそうかと頷いている。
何だかわからないのだが、美由紀の心は凄い発見をした幼い子供のように、わくわくと弾んでいて、細かなことは気にならないでいた。
期待以上だった。
真面目な話ができなかったのは自分が臆病だったせいだった。
美由紀は自分が忘れていたことを思い出す。自分の想いを抱え込むことに必死になるあまりに相手のことを疎かにしていた。
恋する人は、働き者ではないし大抵不真面目に振舞っているけれど――誠実な人なのだ。
会話が途切れた、和やかな一瞬の隙間に、探偵は顔を少し上向きにした。
それにしても――
探偵は口元に指を添えながら、幾分か声を低くした。視線は美由紀の頭上で停止させている。急に引き締められた表情に、美由紀の鼓動が一瞬だけ高鳴った。
「京極、にちょっと似てるね。昔の」
「え?中禅寺さん?」
「その、表情筋が乏しそうな青年」
そこまで言われて、ようやく探偵が何を見ているのかわかった。美由紀が思い出せる異性の知り合いは、探偵の周辺以外ならほんの僅かだ。古書店仲間の彼のことだろう。
「ああ、私も最初そう思いました」
「ふぅん」
探偵はぼんやりとした調子で相槌を打ちながら、肘に巻いた包帯を何か確かめるようにぽんぽんと叩いた。
「ひとのこと、言えないんじゃないか」
こういうのは苦手なんだがな。
「え?」
日頃何かと大声で喚きたてる探偵が、ぼそりと呟いた。それだけでも珍しいから気にかかるが、呟きの意味さえも美由紀にはわからない。
探偵は首を傾げる美由紀に向けて、にやりと目を細めた。
――さぁて包帯も巻いてもらったし。
「女学生よ。今日のデートはどこへ行こうか」
あえてデートという言葉を使った探偵の真意など、“探偵”でない美由紀にわかるはずがなかった。
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