(三)
アレは恋なのだろう。
窓を全開にすると、冷たい風が吹き込んだ。束ねていないカーテンがふわりと膨らむ。
「榎木津さんどうしたんです? 寒いですよぉ」
「こいだなあ」
「へ?鯉ですか?どこ?」
「うるさい妖怪カマゲボク」
愚かすぎる助手が何か喚くのを無視して、僕は窓から地上を見下ろした。
もうすぐ、このビルから女の子が出て来る。きっと、少し急ぎ足で。
彼女は女の子にしては大股でさっさと歩く。まっすぐに前を向いて。
だからきっと、これからこの通りを歩いて、この窓からは見えない所まで行くのもあっという間なのだろう。
早く早く。
僕は窓枠に肘をついて地上を見下ろし、彼女を待っている。
さっき、台所で彼女とぶつかった。
咄嗟に彼女の肩を掴んだ。目測よりも、小さくて細くて、温かかった。そう言えば、掌に感触や温度が残っている。
ああいうのは始めて見たから、正直言って吃驚した。
見る見るうちに彼女の頬が赤くなって、猫のような形の目が丸くなって、何かものすごいものを発見したような顔をしていた。実際、発見したのだろう。
その様子を見た瞬間、僕はかすかに息苦しさを覚えた。
赤ちゃんや子猫がわあわあニャアニャア啼くエネルギーを目の当たりにした時の気持ちと、それは似ていた。そして、それと混ざって、身体の内側を不意打ちでくすぐられたような、とても懐かしい感覚も確かにあった。
ああそうか。
だから僕はあの時、彼女に可愛いと言ったのだな。
彼女が僕に向けている感情がどういったものか、僕は少し前から察していた。しかし、恋というのは当人が自覚しないことには立ち行かない。自覚がないなら単なる慕情で、その先は、たぶんない。そうならそうで構わないし、僕がどうこう言うことではないだろう。
だから、放っておいた。
そうしたら、女学生君はどうやら、恋を感得してしまったらしい。
ビルから一人の女の子が出てきた。
傾きかけた陽を受けた黒髪が、歩調に合わせて揺れている。大股で、前を向いて、さっさと歩く。やっぱりいつもより早足だ。
ふいに歩みが遅くなった。
空を仰ぐように、こちらを見上げる。
顔までよく見えないが、目が合っている気がした。
ひらひらと手を振ってやる。
すると彼女は、慌てた様子でひとつお辞儀をして、また足早に歩いて行った。
急いだって、隠したって無駄だというのになあ。
うん?
彼女の紺色のブレザーを目で追いながら、ひとつ思いつく。
僕に隠すことは無駄ではあるが、では本当に、彼女が僕に隠さなくなったら。
彼女が自覚したらしい恋心を、僕にぶつけてくる日が来たら。
僕はどうするのだろう。
その思いつきがおもしろくて、僕は思わず噴き出して笑った。
誰が想像するだろう。あんな年端も行かない娘が、この僕のあり方を左右するかもしれないなんて。僕だって想像できない。
僕は窓を閉めると、腕を上げてぐっと背骨を伸ばした。踵を返して、ソファへ向かう。
急いだって隠したって、考えたって、やっぱりしょうがない。
今のところ、僕はあの子がいれた紅茶を美味しく頂くばかりだ。
終わり?
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