本島と早苗は、一時間ほどの滞在で事務所を出た。客人が去って小一時間ほど経つが、相変わらず探偵は機嫌よく彼の下僕達をからかって遊んでいる。このご機嫌振りも大好きな赤ん坊の効果なのだから、探偵の子供好きは余程のものだ。
子供好き、自分で思いついた言葉に、何故か引っかかった。
赤ん坊も子供であれば、私も子供だ。
探偵はよく「女学生君は子供ではない」と言うけれど、やはりそれは無理があると思う。世間的にはもちろんのこと、私自身としても、自分が子供であることは厭と言うほど知っている。
探偵が私を可愛がるのは、前途有望な未成年への博愛的な感情なのだろう。それに加えて、私の受け答えが彼にとって愉快だったり、時たま私があげる悲鳴が彼の好みだったり、そういうオプションがくっついているから、面白がって構ってくるのに違いない。
うん、それは間違っていない気がする。
では、この私が抱えている不満は何だ。
「美由紀さん、あのぉ、やっぱり私やりますか?」
我に返ると、和寅が心配そうな顔をして立っている。和寅が近くにいることに、私は少しも気付いていなかった。食器を洗う手は動かしていたが、意識は完全に内にこもっていたらしい。
「あっ、いえ、もう終わりますから。和寅さんはお洗濯もあるんでしょう?」
「まあ私はいつものことですからね。それより、美由紀さん何だか元気がありませんぜ?お身体の具合が悪いなら無理しないでくださいよ?」
「はい、ありがとうございます」
私はそう言って笑って見せた。和寅は一度疑わしそうに私を見ると、肩を竦めて台所を出て行った。
元気がなく見えるのか。そう思うと、少しだけ恥ずかしかった。
和寅がそう思うのだから、益田も感じているだろう。探偵だって、もしかしたら何か感じたかもしれない。自分が何をこれほど思い悩んでいるのかと言えば、探偵が赤ん坊を可愛がることと、自分が子供であることという何とも脈絡のない事柄なのだ。心配してもらうだけ申し訳ない。
しっかりしよう。
俯き気味だった顔を上げて、背筋を伸ばす。
客用に出した華奢な装飾のティーカップを丁寧に拭いて、棚に並べた。ついでに茶を入れ直そうと思って、薬缶を火にかける。珈琲にしようか紅茶にしようか。探偵はどちらも好んで飲むから、聞いてみないとわからない。
首を捻って探偵の机を見やると、そこには座っていなかった。ここからでは確認できないが、まだ応接ソファにいるのだろう。
私は踵を返して、台所スペースから出ようとした。
いやにきびきびと動こうとしていたのが、よくなかったのかもしれない。普段なら、近づいてくる足音や何かから、気配を感じられただろう。
それができなかったから、
「ん」
「ぅわ!?」
出会い頭でぶつかった。
とっさに両手を前に出したから、顔面から衝突するのは避けられた。ぶつかった相手に両肩を支えられていて、跳ね飛ばされることもなかったらしい。
でも、この目の前の、青いシャツは――
「ああ吃驚した。大丈夫かい女学生君?」
恐る恐る、見上げる。私の目の前にある、この温かくて大きなものの正体は。
私が知るこの世でただ一人の探偵、他でもない「探偵さん」が、大きな目をぱっちりと開いて私を見詰めている。
身体中の血が沸いた。
まず、近い。身体が近いから、気配が濃い。一直線に絡まった視線から、肩に置かれた彼の掌から、彼の胸元に置いた自分の掌から、いたるところで「探偵さん」を知覚している。
身体中がざわつく、この感覚は。
「あ、ごめん」
そう言って、探偵は私の肩にあった手を放した。私は同時に一歩下がる。
「す、みません」
顔が熱い。探偵の顔を見ることができなくて、俯く。そして今の私は、きっととても子供っぽいのだろうと思った。この分ではきっと顔も赤い。そういうことは、やけに冷静に想像できた。
「――なんだこんな所にいたのか。ん?ああ僕のためにお茶をいれようとしていたのかい?それは感心だが、そんなことはあのゴキブリとかあのカマとかがやればいいんだから、君は僕を接待しなさい。赤ちゃんは帰ってしまうしカマはオロカでしょうがない!」
接待?
勇気を出して探偵を見ると、何のことはない、いつもの探偵だ。整った顔立ちに不敵な笑い方、威張った様子で腕を組んで直立している。
いつもの探偵ではある。それでも。
接待なんて、探偵さん。
あなたの隣に座るなんて私には。
「たん、ていさん」
「――何?」
探偵はその表情から不敵さを消し、穏やかに微笑んだ。
「今日は、帰ります」
「え、何で?」
「――宿題をやらないといけなくて。お茶をいれたら、お暇しますね」
考えなしに口にしたことだが、片付けなければいけない課題があるのは本当だった。口調は自然だったと思う。
探偵は一瞬の間私をまじまじと見詰めると、表情を変えずに言った。
「――あそう。じゃあ送る」
「いえ、まだ明るいですから、今日は大丈夫です」
私は必死だった。ただ立って探偵を前に喋るだけのことが、必死にならないと上手くできない気がした。
探偵の、私の心の奥まで覗けそうに大きな瞳を、初めて怖いと思った。
「――うん。じゃあ、ダージリンにして」
「はい」
探偵は、弛緩しているような逆に真剣であるような、困ったような表情をした。
「女学生君は可愛いね」
彼のその言い方に、少しだけ力が抜けた。何だそれは。
「可愛くないです」
「誉めているのだから喜びなさい」
「はあ」
そうは言っても、とにかく今はどうにも喜べそうになかった。
この奇人が何を考えているのか、私なんかにわかるはずがない。同時に、それほど難しい人ではないとも思う。だから結局、わからない。私は無駄な思考を吐き出すための溜息をついた。
美味しいお茶をいれてあげよう。
「ちょっとだけ、待っていてくださいね」
「うん」
探偵は素直に頷いて、私の頭に手を乗せた。随分と長い、一瞬に思えた。
再び一人になった台所で、私は流しの縁に両手をついた。
やけに視界が明るい。眩しいくらいだ。だからと言って、景色を正確に捉えているのかと言ったら、怪しい。覚束ない。
ただ、明るい。色の付き方が、数分前と違う気がする。
薬缶が沸騰する音がする。ああ、耳は聞こえづらいかもしれない。指の感覚もいいかげんだ。一方で、皮膚や触覚は鋭敏になっている気がする。神経なんか通らない髪の先まで。
雑念と闘いながら、私はやっとの思いで棚からダージリンの茶葉が入った缶を見つけた。蓋を開けた瞬間から香ばしさが漂う。あ、嗅覚も鮮明だ。しかし、インパクトばかりで、精密性に欠けている気がする。
ポットに茶葉を入れて、湯で蒸らす。
数を30数える。
強い紅茶の香りが舞い上がった。
1、2、3、4、5、6、
あれ、何だろう。胸の辺りが熱くて、その熱がぐぐっとせり上がる。泣きたいのかもしれない。
――女学生君は可愛いね。
可愛い可愛いと何度言われたところで、それは少なくとも今の私にとっては、どうでもいいことだと思った。考えてみれば、可愛いか可愛くないか以外で、あの人が私を語ったことがあったろうか。
なんだ、まだ馬鹿だの愚かだのと呼ばれる方がいいじゃないか。
さっき、ぶつかった時のことを思い出す。
あの人とは、並んで歩いたこともあったし、ふざけて顔を寄せられたこともあった。でも、それとは違う。
あの人が、すごく近くにいた。彼の腕の中は、気配の濃さがまるで違っていた。気配というのは、体温という熱であり、衣ずれや声という音で、煙草の匂いで、筋肉や骨の柔らかさや堅さだった。
それらが私を、一瞬で、こんなにも変えてしまうなんて。
聞いていたのと違うじゃないか。
ソレはもっと、夢のように儚いものではなかったか。
「これかぁ」
想像していた以上に、感情が不安定だ。
みんな、こんなものと折り合いをつけて生きていたのか。
私はこれから、こんな切なさを抱えて生きるのか。
26、27、28、29、
そっと、ティーポットに湯を注いでいく。
蒸らしたての香りとは違う、ダージリンの花のように繊細な香りが立ち上った。
湯を入れて蓋をしたら、5分蒸らす。
この5分で落ち着かないと。
だって、これから私は探偵にお茶を出さないといけないし、その時には自然に笑わなければいけない。怪しまれて何か言われたら、うまく言い逃れる自信などまるでないのだから。
ひとつ、深呼吸をする。
それでも、どんなに深く息を吸い込んでそれを吐き出したとして、消えそうにない温かいものがある。
これを恋と名付けずに、何がソレだと言うのだろう。
(3)へ
PR